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第124回 「ハナ」

2021.07.09
 5月30日に行われた日本ダービーは4番人気のシャフリヤール(牡3歳、栗東・藤原英昭厩舎)が、1番人気の皐月賞馬エフフォーリア(牡3歳、美浦・鹿戸雄一厩舎)にハナ差をつけて優勝、第88代王者になった。2400メートルを走って、2頭の差は約10センチというわずかなものだった。
 日本ダービーの勝敗がハナ差で明暗を分けたのは、これが10度目だった。

 古い順に勝ち馬と2着馬を並べてみる。

 ▽1940年=イエリユウ、ミナミ▽1958年=ダイゴホマレ、カツラシユウホウ▽1961年=ハクシヨウ、メジロオー▽1974年=コーネルランサー、インターグッド▽1979年=カツラノハイセイコ、リンドプルバン▽1981年=カツトップエース、サンエイソロン▽2000年=アグネスフライト、エアシャカール▽2012年=ディープブリランテ、フェノーメノ▽2016年=マカヒキ、サトノダイヤモンド▽2021年=シャフリヤール、エフフォーリア

 第9回(1940年)のイエリユウの時代はまだ決勝写真がなく、3人の決勝審判が目視で着順を決めていた。それでもミスは起きるもので、このレースでいったん4着としたキミタカが実は最下位の24着だったことがわかり、のちに着順を訂正している。

 イエリユウの2歳年上の全兄はタエヤマといい、2年前のダービーでは1番人気になった。最後の直線では追いすがるスゲヌマと一騎打ちになり、ゴールではクビ差の2着に終わった。イエリユウはクビ差で惜敗した兄タエヤマの雪辱をハナ差で果たした。

 2頭目のハナ差勝ちは第25回(1958年)のダイゴホマレだった。着順の判定に決勝写真が使われるようになったのは1950年4月の中山と京都の両競馬場からだった。ダイゴホマレのハナ差は決勝写真が参考にされた。

 ダイゴホマレは地方競馬で8戦全勝の成績を残して中央に移籍した。弥生賞、スプリングSを連勝し、皐月賞では3着。続く前哨戦のNHK杯を制してダービーに臨んだ。好スタートから1コーナーで先頭に立つと、主導権を握り、最後は1番人気のカツラシユウホウとの競り合いを制した。地方出身馬としてはゴールデンウエーブ(1954年)に次ぐ2頭目の優勝となった。ダイゴホマレの父ミナミホマレは1942年のダービー馬。史上3組目の父子2代制覇であり、ゴールデンウエーブの父もミナミホマレだった。ダービー馬になった息子が2頭とも地方出身という共通点を持っていた。

 手綱を取っていた伊藤竹男騎手は当時25歳。昭和生まれ初のダービージョッキー誕生でもあった。

 俗に「皐月賞は速い馬、ダービーは運のいい馬、菊花賞は強い馬が勝つ」と言われる。そのダービーをハナ差で勝つのだから、この馬たちは強運の中でも特に強運の持ち主なのかもしれない。しかしハナ差勝ちのダービー馬たちの優勝後の成績を振り返ってみると、意外なほど不振だ。

 イエリユウは優勝の翌年1月、脳膜炎で不慮の死を遂げている。ダイゴホマレはダービーの後、9戦したが、わずか1勝に終わった。ハクシヨウ、コーネルランサー、カツトップエースは故障などの理由でダービーが現役最後のレースになった。アグネスフライト、ディープブリランテはダービーが現役最後の勝ち星となった。8歳の今も現役を続けているマカヒキはフランス遠征でニエル賞(GⅡ)を制したのが最後の白星で、その後17連敗中だ。

 むしろ、わずかの差で大魚を逃した2着馬の踏ん張りが目を引く。カツラシユウホウはその後6勝を挙げた。サンエイソロンは京都新聞杯と大阪杯を制した。エアシャカールは菊花賞馬になり、フェノーメノは天皇賞・春を2連覇し、サトノダイヤモンドは菊花賞と有馬記念で優勝した。

 シャフリヤールとエフフォーリアが今後どんな競走生活を送ることになるのか。興味は尽きないが、シャフリヤールには不振だった先輩たちのジンクスを打ち破るような活躍をしてほしいし、エフフォーリアにはこの悔しさをバネにして、はね返すような走りを見せてもらいたい。
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