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第146回 『沢村忠と五木ひろしとダービー』

2021.02.19
 昔から本を読むのは速いほうだった。ページ数にもよるが、調子が良ければ単行本を1~2時間で読破できる。以前に「修行」という名目で、図書館から1日に3冊の本を借りて、その日のうちに読破。次の日には返すというサイクルを、一か月程続けたことがある。

 それでもこの本は手強かった。著者である細田昌志氏が、執筆を思い立ってから約10年にもわたる緻密な取材を続け、昨年の10月に上梓された、『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝』。

 560ページという分厚さもさることながら、なんと上下2段組みという圧倒的な文字量。面白いのに、脳に入ってくる文字量がキャパを超えるがばかりに、読み切れないとう経験をしたのはこれが初めてだった。

 自分より年上の方ならば、キックボクサーとして一時代を築いた沢村忠選手をよくご存じだろうし、ひょっとしたら、TVで試合をご覧になった方もいらっしゃるかもしれない。

 その沢村忠選手のプロモーターだった、野口修という人物にスポットライトを当てたノンフィクションがこの作品なのだが五木ひろしさんのプロモーターでもあったという事実に、まず驚愕した。

 また、キックボクシングという言葉(そして競技)を作ったのも野口氏であり、何よりも2人の国民的スターを手がけながらも、なぜその功績が、大きく取り上げられることがなかったのかが、560ページの中にみっちりと詰め込まれている。

 ノンフィクション好きの方なら、迷わず購入していただきたいし、「沢村忠」「五木ひろし」といった名前に惹かれる方にも、一度は書店で手にとってもらいたいと思うばかりなのだが、日本のノンフィクション史に残る名書をここで紹介した理由、それは文章の中で、野口氏が競走馬を所有していたという記述を見つけたからである。

 第25章の「崩壊」に、それは詳しく書かれている。沢村忠選手と五木ひろしさんという二枚看板を引退、あるいは独立という形で失った、当時の野口プロモーションについて、所属歌手だった真木ひでとさんが、このような言葉を述べている。「社長は馬主もやっていたのでしょう。何頭も馬を持っていて、利益のほとんどをつぎ込んでいた。ダービー馬を誕生させようとしていたんだよ」(508ページ下段から)しかし、選手沢村忠と歌手五木ひろしの売り出しには成功しても、自らが直接携わることのできない競走馬での成功は、いくら野口氏でも難しかったようだ。

 細田氏は当時、野口氏が所有していた競走馬の名前も表記しているが、「野口修」で馬主検索をしてみたところ、スーパーフイルドという名の競走馬が、77年の札幌記念で2着に入着している。ただ、その他に重賞を沸かすような活躍馬は見当たらず、日本ダービー制覇はほど遠かったと言わざるを得ない。細田氏は野口氏へのインタビューの中で、所有していた競走馬の頭数を14頭かと尋ねるも、野口氏からは、「いいや、合計で二十一頭だ」(512ページ下段)との言葉が返ってきている。これは、競走馬にならなかった頭数も含まれているのではと推測できる。晩年になってからのインタビューで記憶の掛け違いこそあれど、あまりにも馬運が無かったのではと思ってしまう。

 ここまで野口氏が日本ダービー制覇にこだわったことに対して細田氏は、「沢村忠で日本プロスポーツ大賞を、五木ひろしで日本レコード大賞を獲得した野口修が、次なる野望として『日本ダービー制覇』を目指したのは、馬主として無理からぬことだった」(513ページ上段)と分析している。また、事務所の経営が思わしくなかった時期だけに、ダービーの獲得賞金をあてにする思惑もあったようだ。

 「スーパー」の冠名が付けられた野口氏の所有馬の中には、市場取引馬と思われる名前もいる。また、事業として飼料や牧草の販売にも携わっていたとも書かれていることからしても、日高などの馬産地に足を運んでいた可能性は高い。

 このコラムをお読みになった方の中には、当時の野口氏に会われた方がいらっしゃるかもしれない。どんな人物だったかを自分も聞きたくもなるほどに、才気と野心に溢れていた姿が、この本には書かれている。

 金策に苦しんだ野口氏が、様々な資産を売却していく中、先にマンションや土地を売ってまでも残そうとしたのが競走馬だったという。もし、野口氏が生きていれば、馬に対する思いについても話を聞いてみたかった。

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