JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第211便 前向きウシロ向き

2012.07.17
 ディープブリランテがフェノーメノの追撃をハナ差しのいで、2012年のダービーは終わった。
 戦い済んだ馬たちが戻ってくるのを、私は地下馬道で待っている。
 「やるだけのことはやった。仕方ない」という空気が、騎手たち、馬たちから流れてくるなか、「仕方ないで済むか」と悲鳴が聞こえるようにして、フェノーメノと蛯名正義騎手が戻ってきた。

 私は息を詰めた。蛯名正義騎手の表情が私に、銃弾を撃ちこんだのだ。20度目の挑戦となるダービーでのハナ差2着。くやしいという言葉ではおさまらないという騎手の顔だ。フェノーメノから下りる騎手に、声をかければ届く位置に私はいたが、目が合わぬようにした。

 競馬場からの帰り道、私の心理は1996(平成8)年6月2日に旅していた。ディープブリランテのダービーは競馬場入場者が11万5407人だったが、1996年のダービーは18万6781人が競馬場にいた。

 1番人気のダンスインザダークをクビ差抜いてしまったのが、キャリアわずか2戦、7番人気のフサイチコンコルドだった。地下へ行くと、ダンスインザダークの橋口弘次郎調教師が、さまざまな人の輪からひとりだけ離れて、ダンスインザダークが戻ってくるのを待っていた。
 顔から血の気が引いている橋口調教師に近づいてしまった私は、ゲンコツをつくって背中をひと突き、ドン、とノックするしかなく、言葉は交わさなかった。このときのことを、何ヵ月かして会った橋口調教師に言うと、何もおぼえていないようだった。

 1996年へ旅をしていた私の心理は、さらに昔、1986(昭和61)年5月25日へと流れた。
 社台ファームのダイナガリバーがダービーで勝ったのである。ダービーを勝てなくて勝てなくてくやしかった社台ファームのボス、吉田善哉さんの目に涙があふれた。
 地下馬道への通路の壁に背中を倒すようにして、のっぽの男が、感情を殺しているような顔で立っていた。その前を取材で急ぐ新聞記者たちや歓喜に湧く社台ファームの関係者たちが通りすぎていく。

 そののっぽの男は、半馬身だけダイナガリバーに1着を渡してしまったグランパズドリームの馬主、ビッグレッドファームの岡田繁幸さんだった。

 岡田さん、橋口さん、蛯名騎手。3つのくやしさを思いだしながら新宿に出て、友だちと酒をのんだ。ダービーが終わった晩の酒というのは、ごめん、酒をのまない人には聞こえてこない、ちょいとオシャレな音楽なんだなあ。しかも今年の酒の相手は、ディープブリランテを持っている(共有馬主クラブで40分の1口に出資している)人たちだったので、特別にはなやいだ。

 最終電車に座って私は、2枚の馬券を、他人に見られないようにして見た。1枚は6着だったコスモオオゾラの単勝馬券。ビッグレッドファームの生産馬だ。もう1枚は15着だったクラレントの単勝馬券。橋口厩舎のダービー挑戦、19度目だったのだ。

 2枚の単勝馬券をポケットに戻し、ぼんやりした私にAくんからの手紙が浮かんだ。
 「5月29日に浦和へ行きます。そして3日間ほど東京にいて、大学時代の友人に会ったりして、どうしてもウシロ向きになっている自分の話をして、意見を聞き、自分の生き方をはっきりしたい」というようなことを書いてきたAくんは28歳で独身。北海道の日高で両親と競走馬生産の牧場を営んでいる。Aくんの両親と私は長いつきあいがあり、大学生時代からAくんは私の家に泊まりにきたりした。

 ダービーから4日後の木曜日、Aくんは私の家に来た。牧場経営の苦しい状況が続いていて、気持ちが前向きになれないというAくんにビールを注ぎながら私は、この場合、ダービー2着のくやしさとはつながらない話だと意識した。

 「おれ、言葉だけなんだよな。言葉しかないんだよ、おれには。だから、或る人から見ると、何の意味もない奴ということになる。意味のある奴という扱いをされるよりは、意味のない奴だと無視されるほうが圧倒的に多いので、とても前向きになんかなれなくて、ウシロ向きの人生なのさ。

 でもね、ウシロ向きの奴の前向きというのがあるぞ、とおれは思ってるんだ。その前向きしか、おれには頼りがない。
 最近、キリマンジャロの雪、という映画を見たんだ。港湾労働者の組合の委員長をしていたミシェルと、ミシェルが失業したあと、看護ヘルパーをして家計を支えている奥さんのマリクレールの話なんだ。
 夫とのことで悩みのある娘が、母親のマリクレールに、ママのように自分を犠牲にしてついていけばいいのかって聞くんだ。
 するとね、母親のマリクレールが、わたしは犠牲になんかなっていないわ、わたしが選んだ人生なのよ、昔も今も、わたしは、自分の人生が好きよ、と人生にイエスと答えた意志を娘に言うわけなんだ。
 よくわからなくて言ってしまうのかもしれないけど、Aくんが心のどこかで、自分が犠牲者だというみたいな意識があったらヤバい。おれ、マリクレールに共感するんだ」というような言葉を、私は一生懸命にAくんへ伝えようとした。

 金曜日の午前、私はAくんと、鎌倉の大仏さまを見上げるベンチに座った。
 「ダービーの日に、11万5407人が競馬場にいたよ。ディープブリランテのうれしさがある。フェノーメノのくやしさがある。11万5407人のうれしさとくやしさがある。前向きの人もウシロ向きの人もいる。でも、犠牲になってる奴はいなかったんじゃないかなあ」私はAくんに言葉を伝えるしかない。

 その日の夕方、Aくんは北海道へ帰って行った。遠くで雷が鳴っている。どのようにAくんが言葉を聞いてくれたかわからないけれど、おれ、言葉しかないから、と白っぽい空を眺めた。
トップへ