烏森発牧場行き
第231便 ケイタイ電話で
2014.03.12
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1月30日の夕方、新宿駅から乗った京王線に座って、
「たしかおれ、初めて府中の競馬場へ行ったのは高校2年のときで、昭和28年の、ボストニアンという馬がダービーを勝った日だよな。
薬品問屋だったおれの家に住み込みで働いてた勇さんという人にくっついて行ったんだ。
ダービーを見たのを学校の作文に書いたら、先生に呼び出されて、職員室の横の個室で、いまから競馬なんか見てたら、ろくな人生にならないって怒られたの、忘れられない思い出だなあ。
先生の言ったこと、当たってた」
と自分に喋って笑いそうになった。
東府中駅から府中の森公園にある葬祭場へと歩いた。服部昇さんの通夜なのだ。彼はJRAに勤務し、競馬場やウインズで仕事をし、数年前に定年退職している。JRAの雑誌「優駿」の編集長をして一昨年の夏に亡くなった福田喜久男さんと同世代で、私はどちらとも酒友だちだった。
服部さんと初めて会ったのは、写真家の渋谷竜さんの房総にある海辺の家で、もう30年ぐらい昔のことだ。ずいぶん時間が流れたなあと感じながら、すっかり暗くなった公園に踏みこんだ。
通夜の供養の席で写真家の浅井秀美さんがいて、
「福田さんは渋谷さんの誕生日に死んだけど、服部さんが死んだの、わたしの誕生日なんですよ」
笑っていいのか悪いのかという笑顔になり、
「今の話聞こえた?」
と私は会場にいる写真の服部さんを見た。
「最近、ときどき、書いたものに死んだ人がよく出てきますね、と言われるんだ。だから読まないという人もいる」
そう私が自分に喋ったのは通夜の帰りの電車でだ。
「仕方ないよ。死者を書きたい。かんべんして」
と私は心でつぶやいた。
1月31日の朝、スポーツ紙で、サクラチトセオーが24歳で、北海道新ひだか町の新和牧場で死亡という記事を読んだ。1995年秋の天皇賞馬。
その年の重賞年鑑をひらく。ジェニュインがハナ差で2着。ナリタブライアンもホクトベガもいっしょに走っている天皇賞だ。
2月1日、東京競馬場6R、3歳500万下、ダート1400㍍。出走馬15頭が歩くパドックを見ていて、3枠5番モリトビャクミ(父スウェプトオーヴァーボード、母サクラカンパネラ、母の父サクラバクシンオー)を目で追った。
モリトビャクミの馬主は石橋忠之さんである。
「アニさんが亡くなって、さびしいです。アニさんには、いつまでもいてほしかった。」
と石橋さんがアニさんというのは、1995年のエリザベス女王杯6着だったステージプリマの馬主、松下征弘さんのことだ。
「ほんとになあ、松下さん、競馬が好きだったよなあ」
そう思いながらモリトビャクミを見てるうち、
「今ね、石橋さんの馬、パドックを歩いてる」
と私は松下さんに心でケイタイ電話をかけ、そうだった、松下さんが亡くなったのは、おととしの節分の日で、今日は2月1日だから命日みたいなものだと線香をあげるかわりにモリトビャクミの単勝を買うことにした。
4番人気のモリトビャクミが勝った。ヘソの奥あたりから胸もとまで、うれしさが吹きあがってきた。
それから2時間ほどして私のケイタイで、
「洋子が......」
という私の娘の泣き声がした。今年の京成杯を勝ったプレイアンドリアルをあずかる川崎の河津裕昭調教師の妹、河津洋子が45歳で、3年半の闘病の末に生を閉じてしまったのだ。私の娘と洋子は特別に仲よしだったのである。
東京の白金で美容院を営み、めっぽう明るくふざけんぼうの洋子は、私にとっても大切な人生の仲間だった。
見舞いに行って意識不明と思える洋子に、
「ヨーコ!ヨーコ!」
と娘が必死な声をかけると、洋子の瞳から涙がひとすじ流れたのを私は見た。
川崎の小向町の河津家へ急ぎながら、私は心のケイタイ電話で、鶴見の寺にいる河津政明に、
「洋子が死んじゃった。」
と伝えた。超ふざけんぼうの父親を洋子は大好きで、なんとも仲よしの父と娘だった。
川崎競馬の調教師だった河津政明が旅立ってずいぶん歳月は流れたけれども、よく私は河津政明に心でケイタイ電話をかける。
死んだ人にケイタイをかけるなんてという人がいるけれども、心で持っているケイタイは、こちらにいる人と、あちらにいる人とが会話するための道具なのだ。
2月4日の夕方、川崎の葬祭場での洋子の通夜へ歩いているとき、雪が降りだした。
「おーい、洋子、雪なんか降らせやがって、やってくれるじゃないかよ」
私が心でケイタイすると、
「わたし、死んじゃったの?」
と洋子の声が聞こえてきた。
読経がはじまり、木魚の音を耳にしながら目を閉じていると、声をたてて笑う洋子が浮かび、
「ベストンダンディ!」
と気どったポーズをとるのだった。
洋子は男もののYシャツを着るのが好きで、「ベストン」は男子用の背広のことだが、よくそう言って胸をそらせた。
ダービー馬オペックホースは、ダービー後は32連敗。種牡馬になった初年度は種付料が無料というのに3頭しか声がかからなかった。2頭が受胎したが、育ったのは1頭。それが牧場名はオペックニセイ、競走馬名ベストンダンディで、「全日本3歳優駿」に道営代表として川崎競馬場で出走し、やがて河津政明厩舎へ転厩した。洋子が21歳のころのことだ。
2月5日、洋子の野辺送りをした晩、
「ママ(洋子の母の恵美子さん)がおさな子にするように、舟に乗ってしまった洋子に、ずうっと話かけてたよ。それで舟が扉の奥へ消えようとしたとき、ヨーコ、ヨーコって何人もが声をあげた。凄い声だった」
と私は洋子に心でケイタイ電話をかけた。
「たしかおれ、初めて府中の競馬場へ行ったのは高校2年のときで、昭和28年の、ボストニアンという馬がダービーを勝った日だよな。
薬品問屋だったおれの家に住み込みで働いてた勇さんという人にくっついて行ったんだ。
ダービーを見たのを学校の作文に書いたら、先生に呼び出されて、職員室の横の個室で、いまから競馬なんか見てたら、ろくな人生にならないって怒られたの、忘れられない思い出だなあ。
先生の言ったこと、当たってた」
と自分に喋って笑いそうになった。
東府中駅から府中の森公園にある葬祭場へと歩いた。服部昇さんの通夜なのだ。彼はJRAに勤務し、競馬場やウインズで仕事をし、数年前に定年退職している。JRAの雑誌「優駿」の編集長をして一昨年の夏に亡くなった福田喜久男さんと同世代で、私はどちらとも酒友だちだった。
服部さんと初めて会ったのは、写真家の渋谷竜さんの房総にある海辺の家で、もう30年ぐらい昔のことだ。ずいぶん時間が流れたなあと感じながら、すっかり暗くなった公園に踏みこんだ。
通夜の供養の席で写真家の浅井秀美さんがいて、
「福田さんは渋谷さんの誕生日に死んだけど、服部さんが死んだの、わたしの誕生日なんですよ」
笑っていいのか悪いのかという笑顔になり、
「今の話聞こえた?」
と私は会場にいる写真の服部さんを見た。
「最近、ときどき、書いたものに死んだ人がよく出てきますね、と言われるんだ。だから読まないという人もいる」
そう私が自分に喋ったのは通夜の帰りの電車でだ。
「仕方ないよ。死者を書きたい。かんべんして」
と私は心でつぶやいた。
1月31日の朝、スポーツ紙で、サクラチトセオーが24歳で、北海道新ひだか町の新和牧場で死亡という記事を読んだ。1995年秋の天皇賞馬。
その年の重賞年鑑をひらく。ジェニュインがハナ差で2着。ナリタブライアンもホクトベガもいっしょに走っている天皇賞だ。
2月1日、東京競馬場6R、3歳500万下、ダート1400㍍。出走馬15頭が歩くパドックを見ていて、3枠5番モリトビャクミ(父スウェプトオーヴァーボード、母サクラカンパネラ、母の父サクラバクシンオー)を目で追った。
モリトビャクミの馬主は石橋忠之さんである。
「アニさんが亡くなって、さびしいです。アニさんには、いつまでもいてほしかった。」
と石橋さんがアニさんというのは、1995年のエリザベス女王杯6着だったステージプリマの馬主、松下征弘さんのことだ。
「ほんとになあ、松下さん、競馬が好きだったよなあ」
そう思いながらモリトビャクミを見てるうち、
「今ね、石橋さんの馬、パドックを歩いてる」
と私は松下さんに心でケイタイ電話をかけ、そうだった、松下さんが亡くなったのは、おととしの節分の日で、今日は2月1日だから命日みたいなものだと線香をあげるかわりにモリトビャクミの単勝を買うことにした。
4番人気のモリトビャクミが勝った。ヘソの奥あたりから胸もとまで、うれしさが吹きあがってきた。
それから2時間ほどして私のケイタイで、
「洋子が......」
という私の娘の泣き声がした。今年の京成杯を勝ったプレイアンドリアルをあずかる川崎の河津裕昭調教師の妹、河津洋子が45歳で、3年半の闘病の末に生を閉じてしまったのだ。私の娘と洋子は特別に仲よしだったのである。
東京の白金で美容院を営み、めっぽう明るくふざけんぼうの洋子は、私にとっても大切な人生の仲間だった。
見舞いに行って意識不明と思える洋子に、
「ヨーコ!ヨーコ!」
と娘が必死な声をかけると、洋子の瞳から涙がひとすじ流れたのを私は見た。
川崎の小向町の河津家へ急ぎながら、私は心のケイタイ電話で、鶴見の寺にいる河津政明に、
「洋子が死んじゃった。」
と伝えた。超ふざけんぼうの父親を洋子は大好きで、なんとも仲よしの父と娘だった。
川崎競馬の調教師だった河津政明が旅立ってずいぶん歳月は流れたけれども、よく私は河津政明に心でケイタイ電話をかける。
死んだ人にケイタイをかけるなんてという人がいるけれども、心で持っているケイタイは、こちらにいる人と、あちらにいる人とが会話するための道具なのだ。
2月4日の夕方、川崎の葬祭場での洋子の通夜へ歩いているとき、雪が降りだした。
「おーい、洋子、雪なんか降らせやがって、やってくれるじゃないかよ」
私が心でケイタイすると、
「わたし、死んじゃったの?」
と洋子の声が聞こえてきた。
読経がはじまり、木魚の音を耳にしながら目を閉じていると、声をたてて笑う洋子が浮かび、
「ベストンダンディ!」
と気どったポーズをとるのだった。
洋子は男もののYシャツを着るのが好きで、「ベストン」は男子用の背広のことだが、よくそう言って胸をそらせた。
ダービー馬オペックホースは、ダービー後は32連敗。種牡馬になった初年度は種付料が無料というのに3頭しか声がかからなかった。2頭が受胎したが、育ったのは1頭。それが牧場名はオペックニセイ、競走馬名ベストンダンディで、「全日本3歳優駿」に道営代表として川崎競馬場で出走し、やがて河津政明厩舎へ転厩した。洋子が21歳のころのことだ。
2月5日、洋子の野辺送りをした晩、
「ママ(洋子の母の恵美子さん)がおさな子にするように、舟に乗ってしまった洋子に、ずうっと話かけてたよ。それで舟が扉の奥へ消えようとしたとき、ヨーコ、ヨーコって何人もが声をあげた。凄い声だった」
と私は洋子に心でケイタイ電話をかけた。