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第230便 金杯5首

2014.02.10
 2014年1月5日、快晴の中山競馬場。そんなには寒くない。夏よりは冬のほうが好き。そう思いながら私は、北の地方の風雪を目の奥に描き、好きとか嫌いとか言ってる場合じゃないなと思いなおした。
 第6R、4歳以上500万下、ダート1800に挑む牝馬ばかりの16頭がパドックを歩いている。私の目の前を栗毛のディジーバローズが通った。父ダイワメジャー、母ダイイチボタン、母の父ティンバーカントリー。26戦して1着1回、2着3回、3着1回、4着以下21回。
 黒鹿毛のメテオーリカが通る。父ディープインパクトだ。母アルヴァーダ、母の父エルナンド。14戦して1着1回、2着1回、3着2回、4着以下10回。
 どの馬も馬主の思いをこめた名前を持ち、たいていは全力で必死にレースをしているのだが、ジェンティルドンナやメイショウマンボみたいなわけにはいかないんだよなあ。でも、仕方ないさ、誰のせいでもないんだ、1勝しているんだからたいしたもんさとか考えた私は、となりにいる女性がハンドバッグから出したものを手のひらにおさめ、パドックへ向けたことに気を奪われた。
 女性の手のひらのものは小さな額で、写真が入っているのを私は盗み見た。
 目の前を青鹿毛の5歳ベルベットメドウが通る。父アッミラーレ、母ニットウヴァレリー、母の父ニホンピロウイナーで、笠松で3勝しているが、中央では6戦未勝利だ。生産も馬主も㈲日東牧場。私は日東牧場を訪ねたことがあるけれど、それから何年が過ぎているのだろう。
 しかし私はベルベットメドウよりも、内緒ごとのようにパドックへ写真を向けている白っぽいダウンコートの、長い髪をうしろで束ねた細おもての女性が気になっていた。
 声をかけたいが、すぐに声をかけるのは失礼だ。女性がパドックを離れてからにしようと私は決めた。
 16頭がパドックから消えるまで女性は手のひらのものをバッグにしまわず、しまってからも、その場に居続けた。
 「ごめんなさい」
 私は声をかけた。
 「とてもあつかましいことだと思うんですけど、じつは、競馬のことを文章にする仕事をしている者で、あなたが写真を手にしていたのを見てしまって、気が気でなくなってしまったんです。亡くなったお父さんを競馬場へ連れてきてあげたとか、そういう想像をしたりして」
 「当たってます。去年の11月に亡くなった父を連れてきました。来年の金杯を見るまではって、そう何度も言ってたんです」
 「ごめんなさい。あつかましいのは承知してるんだけど、コーヒーをつきあってくれませんか」
 という私の願いを彼女は受けとめてくれた。

 「競馬場へ来たのは初めてなんです」
 スタンドへ歩きながら彼女が言った。
 「どちらからですか?」
 「柏市です」
 「柏ですか。ぼくの兄が住んでます。ところで、馬券を買ったことは?」
 「ないんです」
 「パドックを見てたレース、買ってみますか?」
 「買ってみたい」
 と彼女が笑顔になり、馬券の説明を私がして、1番人気グリューネヴォッヘの単複を各500円買うことにした。
 私と彼女はゴールポストの方へ歩き、レースを見た。北村宏司騎乗のグリューネヴォッヘは直線で後方から10頭ぐらいを抜いて1着。彼女はびっくりして、どうしていいかわからないといった顔になって私を見た。
 配当は単勝が210円で複勝が110円だったけれど、私が連れて行った払戻し機で、出てきた1600円を彼女は不思議そうに受けとった。
 コーヒーショップで落着いた彼女が、
 「父は小さな印刷会社をやっていたんですけど、競馬と、俳句を作るのが生きがいでした。
 句会に入っていて、年に2冊か、句会の作品を集めた雑誌を出すのが楽しかったみたいです。
 金杯まで生きられるかなあって思ってたんでしょうね、その雑誌にのせるのは、金杯5首、となっていました。1月の末にある句会に、わたしが届けに行くんですけど」
 とバッグから白い封筒を出した。
 「お父さんは何年生まれですか」
 「昭和12年です」
 「ぼくといっしょです。ウシ年」
 「そう。ウシ年」
 「見たいなあ」
 と私は白い封筒に指を差した。
 封筒から折りたたんだ原稿用紙が出てきた。
 「金杯5首。知夫村」
 と書いてある。
 「知夫村。ちぶむら。父の俳号なんです。父は故郷が島根県隠岐郡の知夫村」
 「ちぶむら」
 と私は言ってみた。
 「金杯のアサホコからの旅路かな
 金杯といえばうれしやイナボレス
 あっけなく金杯までのお正月
 金杯へ行く足どりの心意気
 金杯の日に中山の風立ちぬ」
 と5つの俳句が原稿用紙に並んでいた。
 「説明を聞いたんです。父が初めて見た金杯に勝ったのがアサホコという馬で、昭和40年。その6月にわたしが生まれました。
 金杯の馬券で忘れられないのがイナボレスという馬だそうです。
 アサホコから金杯は49年間の皆勤賞だって、それをうれしそうに言って、この原稿用紙をわたしに渡した次の日、とうとうさよならでした」
 「今日、よく、あなたがお父さんを金杯に連れてきたもんだなあ。拍手です。乾杯です」そう私が言うと、彼女は指先を目尻にあてた。
 「ひとりで金杯のパドックを見たほうがいいですか?それとも、ぼくがいっしょにいてもいいですか?」
 と私が聞き、第63回中山金杯のパドックを、彼女は私と見ることになった。
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