烏森発牧場行き
第363便 手紙
1965(昭和40)年、東京の赤坂にある貴金属販売会社で働いていた私は、翌年からの札幌営業所勤務を命じられた。
30歳の私は、妻と3歳の娘と飛行機に乗った。当時は北海道新聞に、羽田から飛行機に乗った人の名簿が載っていたのが、今から考えると不思議である。
狸小路5丁目、札幌市中央区南3条西6丁目、グランドビル6階に住み、函館へ、旭川へ、帯広へ、釧路へと、月に一度、真珠のネックレスの束が重い鞄を下げ、列車で出張する日々が始まった。まだ、車社会へ移行する初めの段階だったかなあ。
函館へ行く時は、苫小牧、室蘭での仕事がある。苫小牧からの列車が白老駅、社台駅を通過する辺り、車窓にひろがる牧場の光景は、競馬が好きな私にとっては、不思議な感動的な眺めだった。
休日に私は弁当を持って、3歳の娘を連れて白老へ行き、競走馬を育てる牧場の作業を眺めるのが楽しみの生活になった。
1968(昭和43)年に東京へ帰るまでの雪のない季節に、私と娘がずいぶん来るものだから、牧場の何人かとは言葉を交わした。
文章を書く生活になり、1979年のグリーングラスが勝った有馬記念観戦記を雑誌「優駿」に書いた私は、1981年のアンバーシャダイが勝った有馬記念祝勝会の席にいた。麻布のレストランに20人ほどが集まり、司会は大橋巨泉。社台ファームのボス、吉田善哉のとなりは敬遠されたのか空席。そこへ私は座らされた。
初対面の挨拶をしたあと、「あなたと会ってるなあ。会ってる、どこかで」と吉田善哉が首をひねり、「じつは」と私が娘との社台ファーム白老への遠足を言った。それが縁となって私は、社台ダイナースサラブレッドクラブ会報誌に文章を連載するようになった。
競馬のことを文章にするのに、競走馬を生産する牧場のことを書かないと意味がない、と私は思う。私が思うのであって、私自身のことであって、それを誰かに言うつもりはない。
競馬が自分にとって必要な訳は、それこそ十人十色、それぞれのドラマがある。どれが正しくて、どれが間違いなどということは、競馬が好きという思いにおいて意味がない。
私には私の競馬があるということだ。それで私は勇払郡安平町の吉田牧場で1年間暮らしてみたり、競走馬生産地のあちこちへ旅してみたりしてきた。72歳の時には3か月、新冠町明和のビッグレッドファームに住んだりしたが、心臓やガンの手術をしたりで最近の10年は、ほとんど自由に歩けなくなってしまった。
でも、そんな私の人生で、牧場を営む人、牧場で働く人と、たくさん知りあうことが出来た。会うことはなくなっても、電話や手紙でつながりが続いている人はかなりいる。
世の中が変わって、どんどん変わって、ネット社会になって、ええ?何?てがみ?てがみって何よ?と言われてしまいそうだけれど、SNSとかAIが主役の令和7年になっても、私の家にはけっこう手紙はやってくるし、私は毎日のように手紙を書いてポストへ歩いている。
手紙をもらうこともうれしく、手紙を書くこともうれしく、手紙は私の人生の音楽だ。
人はそれぞれの生き方で、人生と向き合っている。なるべく元気に、なるべく明るく生きていたいと願う私の、ひとつの方法が、手紙を書くこと、手紙をもらうことなのだ。
2025年1月から2月にかけての、私がもらった手紙を書いてみる。
「去年は生産馬が中央と地方を合わせて6勝。今年は7勝が目標です。夢は重賞初制覇です」
と新冠で牧場3代目の28歳男から。
「もう家には帰れないと思いながら、病室で空ばかり見ています。がんばって、どうしても手紙を書きたくて、けんめいにボールペンをにぎってます。楽しいこともいっぱいあったよなあ。大きいレースは勝てなかったけど、ま、いいか。カラオケやったころがなつかしい」
と静内で、2年前に牧場を廃業した82歳の男から。
「休日は相変わらず山登りです。いよいよ本格的な冬の訪れ。先週は阿寒湖近くの山に登り、帰りにオンネトーのアイスバブルを見学。沼にガスが湧きだし、それが凍結して自然の造形美が出来あがって美しい」
と静内の60歳の女性から。彼女は神戸で暮らしていた50歳の時に離婚。息子をつれ、牧場を営む実家に帰り、今は介護士。静内の酒場で私と知り合い、手紙のやりとりをしている。
「一月末ともなりますと、出産シーズンをむかえて、いそがしい1年が始まります。
若駒が誕生して母さん馬にべったりと寄りそい、この時期ならではの風景です。お馬の親子は仲よしこよし、いつでもいっしょにポックリポックリ歩く。それを見ながら、競馬場のゲートに入るんだよぉ、がんばってよぉ、と思い、なんとかね、ひとつ勝ってくれたらうれしいよって思うのです。
わが牧場でも、予定日近い馬がゴロゴロいます。生まれた時は、どれも、みんな、スターに見えるんですよね。
無事に競馬デビュー出来ることを願いながら、ひとつひとつの仕事を手を抜かずに働くことが、牧場での仕事をする人間の役目です。
とんでもない家に生まれちゃったよ、と思ったこともあったけど、ま、それがおれの運命なんだと自分に言って、がんばるしかないべさ、と息子の言葉です。
うちの馬が競馬場のゲートに入って、ゲートがひらくまでのあいだ、ドキドキ、ハラハラ、何かにお願いをして、そういう時、その馬が生まれてきて、牧場を離れてゆくまでいっしょにいたころのことが、いっぺんに頭のなかを流れたりして」
と沙流郡日高町の73歳になる牧場の奥さんから。
「吉川のおじさん、会いたいよ。函館競馬場で会ってから13年が過ぎた。ぼくは今、必死で馬の仕事をしてる。見に来てよ。いろいろと話がしたいし。父さんも待ってるよ」
と三石の牧場3代目から。函館競馬場で会った彼は小学生だった。
ふと思う。おれにとって競馬は人生からの手紙。