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第249便 ひとり旅

2015.09.11
 外を歩いているだけで汗びっしょりになってしまう8月2日のこと、ウインズ横浜の4階にいた井上さんがとなりにきて、
 「うちのかみさんがね、さすがに文章で生活している人は、こんなふうに嘘を書くんだって、ばかに感心してましたよ」
と笑った。
 井上さんの奥さんは絵を描く人の大きな会に所属していて、上野の東京都美術館で開催の展覧会に出品すると案内状をおくってくる。それを見に行って私は、出品作についての感想を手紙に書くのだ。横浜の画廊で会ったこともあり、それでタチアオイの花をスケッチしたハガキで、私に暑中見舞をくれたのである。

 「すてきな暑中ハガキ、ありがとうございます。うれしいものです。
 それにしても毎日が暑すぎますね。すごい暑さで、ハゲそうです。ぼくはハゲたくありません」
 と私がお返しのハガキに書いたので、
 「もう充分にハゲているのにね」
 と井上さんの奥さんは笑ったようで、
 「コゲそうですね。ぼくはコゲたくありません、というのが本当だけど」
 そう私は井上さんに言った。

 新潟11Rアイビスサマーダッシュが終わると、4階にいた人がずいぶん消えた。
 「今日もまた、神はわれに背を向けましたね。みごとに、わがポケットには400円ぐらいしか残っていない。
 わたしはこうして毎週のようにウインズにきて、大切なお金を捨てているのを、わがひとり旅、ひとり旅と思っているんだけど、どうやら周囲を眺めまわしても、たいていの人が、ひとり旅をしているような気がしてるんですよ」
 とほかの人には聞こえぬ声で私に言って井上さんは券売機へ歩き、戻ってきて手にした馬券を見て笑い顔になった。
 「いつもの3連単?」
 私が小声で聞いた。
 井上さんは金がなくなった最終レースは、⑬-②-⑩という3連単を100円買うのである。昭和13年2月10日が誕生日で、
 「元気で馬券をやってますぞと、わが出生記念日に報告をするわけです」
 というのが井上さんの理屈だ。
 井上さんは63歳まで私立女子高校で国語を教え、そのあと、70歳まで女子短大で教壇に立っていた。俳句の同人誌を主宰する私の友だちが、
 「ダービーを横浜で見るひとり旅、なんていう変な句をつくる学校の先生がいるんだよ」
 と私との酒の席に、その学校の先生である井上さんを招んだのは10年ほど前だ。

 「こうしてね、77歳にもなったのに、100円の誕生日馬券を買ってレースを待ってる人間もいれば、馬のせりで10億円を使う人もいる。いろんな人が競馬を見てるってことだけど、でも、競馬を見てるっていうのは、どんな人にとっても、ひとり旅をしてるようなものじゃないのかなあ。
 それとも、馬を買えるような人は、そんなビンボー人といっしょにしないでくれって怒るかな?」
 そんなことを井上さんが言ったとき、新潟12R3歳上500万下の15頭がゲートを出た。ダート1800㍍である。
 「おまけみたいに見てるレースって、ただの景色。気楽なもんだ」
 と井上さんののんきな声だ。
 私が本命にした4番人気の、北村宏司騎手レッドルヴァンが、見せ場もなしに後方のまま終わったので、
 「景色にもならない」
 と私はつぶやいた。
 井上さんの顔が変わった。突然として目つきがけわしくなって、
 「⑬が勝って2着は②だよね。3着が④か⑩。⑩ならわたしの3連単が当たってる」
 声も息苦しくなっている。
 「⑬-②-⑩」
 ⑩より④が少し先着と思いながら私は、井上さんの3連単を言ってみた。
 呻き声を吐いて井上さんがしゃがみこんだ。テレビに映った掲示板に、⑬-②-④-⑩-⑧と着順の数字が並んだ。④と⑩の差はクビである。
 1着が⑬、蛯名の2番人気ルールソヴァール。2着が②、松岡の13番人気ロジテースト。3着が④、柴田善臣の9番人気ポルスターシャインで、3連単の配当は22万490円だった。④より⑩のほうが人気下位だから、もし井上さんの⑬-②-⑩だったら、もっと配当は凄い。
 「きつい」
 井上さんが言った。やっと出たような声だった。

 エスカレーターをおり、私と井上さんはウインズの外に出た。まだ日差しは強く、足もとのアスファルトから熱気が湧いていた。
 「一杯、ビールをのもう」
 私が言った。私のポケットにもあまり金はなかったが、よく喋る井上さんが喋らなくなっているので、ここは元気づけなくては、と私は思った。
 「金、ない」
 井上さんが言った。
 「きついひとり旅になったもんだなあ、井上さん。めったにないひとり旅だよ。凄い思い出になるひとり旅だよ。おれ、井上さんのひとり旅に乾杯したい」
 言って私も、今日の井上さんのくやしい3連単にはおどろき、感動していた。
 桜木町駅前地下にある小さなレストランに入って、ビールの中ジョッキを注文した。
 「井上さんの今日のひとり旅は、家族の誰に言っても、話が通じないよね」
 そう私が言った。井上さんは溜息をつき、口をひらかない。
 ビールがきた。私がジョッキをぶつけた。
 「ありがとう。忘れられないビールになりそうだなあ」
 やっと井上さんの口がひらき、
 「競馬を好きな人は、みんな、ひとり旅をしてるんですよね」
 と無理に笑った顔になり、
 「それにしても、⑬-②の次が④で、その次が⑩だったなんて、神さまにからかわれましたね」
 そう言って頭をかかえてみせた。
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