烏森発牧場行き
第293便 こんこんこん
2019.05.13
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新しい年号が「令和」と発表された日の夜、鎌倉のにぎやかな小町通りの裏にある路地の酒場にいた。あとから大工の雄二さんも入ってきて、ずいぶん会っていなかったよなあと乾杯をした。
「令和って決まったというけど、今日はエイプリルフールで、あれは嘘なんだ。本当の年号は、読み方はレイワと同じなんだけど、字が違う。数字のゼロの零に、話と書いてレイワ、零話。
じいさんもばあさんも、若いのもガキたちも、誰もがスマートフォンに占領されて、そのうち会話というのをする能力を人間は失ってしまう。
つまり、話がゼロになる。で、零話」
と白髪の絹代ママにメモ用紙をもらって私が、零話、と書いてみた。
「いいねえ。話をしない。話がゼロの零話」
と雄二さんは笑ってくれたが、
「リョウさんはね、そんなことばかり言ってるから馬券が当たらないの」
とけっこう馬券好きの絹代ママには言われてしまった。
カウンターに7人で満員の小さな酒場で、カラオケもないので、ときどき壁からのメロディーの小さな音が占領をする。そのとき私と雄二さんしか客はいなくて、どちらも黙り、絹代ママも黙ると、貨物船の一室に三人でいて、どこかの海をどこかへ向かっているようだと私は感じた。
「たまにでいいから、うれしいことがないと、なんだかさ、生きてる値打ちがないよね」
と突然のように雄二さんが言った。
そうだよね、という反応の仕方が無事なのだけれども、ちょっと逆らってみるのも面白いかなとも思った私は、
「生きてる値打ちなんかなくても、生きてることに値打ちがあるんだから、値打ちなんかなくてもいいのさ」
と言ってみた。
「最近なんだけどね、夜、ひとりで家にいるとき、こんこんこん、こんこんこんって、誰かが、何かが窓をノックする音が聞こえるんだ。
ま、音がするだけなんだけど、おれ、めちゃくちゃさびしいんだなあって思うわけ」
と雄二さんが言い、
「そんなときは、ここへ逃げてきなさい」
と絹代ママが言い、
「ふざけちゃいけないような気もするけど、こんこんこん、こんこんこんって、おれの馬券みたいな気もする。どう買っても、こんこんこん」
と私が言った。
もぞもぞと雄二さんが尻ポケットから財布を出し、1枚の馬券を抜きだして私の前に置いた。
3月10日の阪神11Rフィリーズレビューの、1着だったノーワンの単勝を300円買っている。
「うれしいことがあったんですよ。こんなうれしさがあるから、生きてる値打ちがあるなあって、しみじみと思ったんですよ」
そう雄二さんが笑顔になり、
「なんだかさ、急に、生きてる値打ちなんて言いだしたから、何かの伏線だろうと思えたんだ。やっぱり、うれしいことがあったんだ」
と私も笑顔になり、
「リョウさんは、そういうことは当てるのよね」
と絹代ママも笑った。
「あのレースは18頭立て。ノーワンは1枠1番でノーワン。ワンはノーだって言われてるみたい。
前の晩、競馬新聞を見ながら、よしっ、冗談で、1枠1番のノーワンの単勝を買ってやれ。はずれても、話のネタになるって。
そしたら勝っちゃって、おれ、ウインズでふるえちゃった。12番人気で2,060円というのもうれしかったけど、それより、こんなうれしいことがあるから、生きてる値打ちがあるなあって思えたのがうれしかった」
「こんこんこん。こんこんこんの勝利だよ」
と私はグラスを雄二さんのグラスにぶつけ、そのグラスに絹代ママのグラスも割りこんできた。
その2日後、雄二さんから電話がきた。
「4月9日の晩、おれの家へ来てほしいんだよなあ。どうしても来てほしいんだ」
「再婚の相談でもあるのかなあ」
「どうしても来てほしい」
としか雄二さんは言わなかった。
雄二さんの家は私の家から歩いて10分ほどのマンションだ。奥さんは4年ほど前にガンで亡くなり、ひとり娘は長野県松本市へ嫁いでいる。
4月9日、夜7時、私は雄二さんの家へ行った。テーブルに、ビール、日本酒、焼酎、ウイスキーが立っていた。雄二さんの60歳の誕生日なのだった。
「還暦になったぞ。リョウさんが来てくれたぞ」
と雄二さんが仏壇の写真の奥さんに言い、松本の娘さんが送ってきた赤いシャツ、それに中学校一年生になった孫娘からの誕生日カードを私に見せて、
「うれしいことがあるから生きていられる」
とひとりごとを言った。
「大工さんたちの仲間とは還暦祝いをしないの?」
と私は聞いてみた。
「仕事は仕事さ。おれはひとりで祝いたかったけど、さすがにさびしいかなと、リョウさんに電話しちまった」
「その電話は、おれのうれしいことだよ」
「先週の土曜日もうれしいことがあった。サッカーの松本山雅がサンプロアルウィン球技場で、2対1で神戸に勝ったんだ。神戸のイニエスタの推定年俸は32億円。松本はクラブの年間予算が20億円で、人件費は9億5千万円。それで松本が神戸に勝った。
もうひとつ、うれしいことがあった。桜花賞にノーワンが出た。おれ、ノーワンに何の関係もないのに、ノーワンが桜花賞のゲートに入るのをウインズのテレビで見ていてドキドキした。そんなの初めてだなあ。
それに帰りにビールをのんで、死んだおやじが酔っぱらうと、ノボルトウコウとハルイチって言うのを思いだした。おれの実家は福島競馬場に近くて、おやじは競馬おとこ。おれのガキのころ、たしか福島記念でノボルトウコウとハルイチで大穴を取って、それをずうっと自慢してた」
「こんこんこん。こんこんこんだ」
と私は雄二さんに向けてグラスを掲げた。
「令和って決まったというけど、今日はエイプリルフールで、あれは嘘なんだ。本当の年号は、読み方はレイワと同じなんだけど、字が違う。数字のゼロの零に、話と書いてレイワ、零話。
じいさんもばあさんも、若いのもガキたちも、誰もがスマートフォンに占領されて、そのうち会話というのをする能力を人間は失ってしまう。
つまり、話がゼロになる。で、零話」
と白髪の絹代ママにメモ用紙をもらって私が、零話、と書いてみた。
「いいねえ。話をしない。話がゼロの零話」
と雄二さんは笑ってくれたが、
「リョウさんはね、そんなことばかり言ってるから馬券が当たらないの」
とけっこう馬券好きの絹代ママには言われてしまった。
カウンターに7人で満員の小さな酒場で、カラオケもないので、ときどき壁からのメロディーの小さな音が占領をする。そのとき私と雄二さんしか客はいなくて、どちらも黙り、絹代ママも黙ると、貨物船の一室に三人でいて、どこかの海をどこかへ向かっているようだと私は感じた。
「たまにでいいから、うれしいことがないと、なんだかさ、生きてる値打ちがないよね」
と突然のように雄二さんが言った。
そうだよね、という反応の仕方が無事なのだけれども、ちょっと逆らってみるのも面白いかなとも思った私は、
「生きてる値打ちなんかなくても、生きてることに値打ちがあるんだから、値打ちなんかなくてもいいのさ」
と言ってみた。
「最近なんだけどね、夜、ひとりで家にいるとき、こんこんこん、こんこんこんって、誰かが、何かが窓をノックする音が聞こえるんだ。
ま、音がするだけなんだけど、おれ、めちゃくちゃさびしいんだなあって思うわけ」
と雄二さんが言い、
「そんなときは、ここへ逃げてきなさい」
と絹代ママが言い、
「ふざけちゃいけないような気もするけど、こんこんこん、こんこんこんって、おれの馬券みたいな気もする。どう買っても、こんこんこん」
と私が言った。
もぞもぞと雄二さんが尻ポケットから財布を出し、1枚の馬券を抜きだして私の前に置いた。
3月10日の阪神11Rフィリーズレビューの、1着だったノーワンの単勝を300円買っている。
「うれしいことがあったんですよ。こんなうれしさがあるから、生きてる値打ちがあるなあって、しみじみと思ったんですよ」
そう雄二さんが笑顔になり、
「なんだかさ、急に、生きてる値打ちなんて言いだしたから、何かの伏線だろうと思えたんだ。やっぱり、うれしいことがあったんだ」
と私も笑顔になり、
「リョウさんは、そういうことは当てるのよね」
と絹代ママも笑った。
「あのレースは18頭立て。ノーワンは1枠1番でノーワン。ワンはノーだって言われてるみたい。
前の晩、競馬新聞を見ながら、よしっ、冗談で、1枠1番のノーワンの単勝を買ってやれ。はずれても、話のネタになるって。
そしたら勝っちゃって、おれ、ウインズでふるえちゃった。12番人気で2,060円というのもうれしかったけど、それより、こんなうれしいことがあるから、生きてる値打ちがあるなあって思えたのがうれしかった」
「こんこんこん。こんこんこんの勝利だよ」
と私はグラスを雄二さんのグラスにぶつけ、そのグラスに絹代ママのグラスも割りこんできた。
その2日後、雄二さんから電話がきた。
「4月9日の晩、おれの家へ来てほしいんだよなあ。どうしても来てほしいんだ」
「再婚の相談でもあるのかなあ」
「どうしても来てほしい」
としか雄二さんは言わなかった。
雄二さんの家は私の家から歩いて10分ほどのマンションだ。奥さんは4年ほど前にガンで亡くなり、ひとり娘は長野県松本市へ嫁いでいる。
4月9日、夜7時、私は雄二さんの家へ行った。テーブルに、ビール、日本酒、焼酎、ウイスキーが立っていた。雄二さんの60歳の誕生日なのだった。
「還暦になったぞ。リョウさんが来てくれたぞ」
と雄二さんが仏壇の写真の奥さんに言い、松本の娘さんが送ってきた赤いシャツ、それに中学校一年生になった孫娘からの誕生日カードを私に見せて、
「うれしいことがあるから生きていられる」
とひとりごとを言った。
「大工さんたちの仲間とは還暦祝いをしないの?」
と私は聞いてみた。
「仕事は仕事さ。おれはひとりで祝いたかったけど、さすがにさびしいかなと、リョウさんに電話しちまった」
「その電話は、おれのうれしいことだよ」
「先週の土曜日もうれしいことがあった。サッカーの松本山雅がサンプロアルウィン球技場で、2対1で神戸に勝ったんだ。神戸のイニエスタの推定年俸は32億円。松本はクラブの年間予算が20億円で、人件費は9億5千万円。それで松本が神戸に勝った。
もうひとつ、うれしいことがあった。桜花賞にノーワンが出た。おれ、ノーワンに何の関係もないのに、ノーワンが桜花賞のゲートに入るのをウインズのテレビで見ていてドキドキした。そんなの初めてだなあ。
それに帰りにビールをのんで、死んだおやじが酔っぱらうと、ノボルトウコウとハルイチって言うのを思いだした。おれの実家は福島競馬場に近くて、おやじは競馬おとこ。おれのガキのころ、たしか福島記念でノボルトウコウとハルイチで大穴を取って、それをずうっと自慢してた」
「こんこんこん。こんこんこんだ」
と私は雄二さんに向けてグラスを掲げた。