烏森発牧場行き
第311便 竹やぶ、海、髪の毛
2020.11.13
Tweet
風呂から出て、時計を見る。午前0時10分。かみさんは先に寝て、おれひとり。6畳ほどの板の間の、居間兼食堂の明かりを小さくして、バー「たられば」をオープンする。
一生懸命に仕事をして、あとは酒場で冗談をとばすこと。キザに思われるかもしれないが、おれの人生、それだけ。
そのように生きてきたのに、新型コロナウイルスのために酒場行きがアウト。仕方なくバー「たられば」で、ひとり、酔う日が続いている。冗談をとばせないのが空しい。
2020年10月11日が、まあ、無事に終わったなあと、余計な仕ぐさと知りながら、ウイスキーの水割りグラスを宙に向けて乾杯。
台風14号と秋雨前線の影響で、昨夜には東京都三宅村(三宅島)と御蔵島村に大雨特別警報が発表された。三宅島全域の1,553世帯2,388人に避難指示が出る。大変だ。うーん、やはり、幸せとは、無事のことかな?
毎日王冠でルメール騎乗のサリオスが強かった。皐月賞もダービーもコントレイルの2着。菊花賞でコントレイルと戦ってほしいけれど、マイル路線へ行くのかなあ。
そう、今日、東京競馬でルメールが4勝、デムーロが3勝。凄いなあ。いや、藤田菜七子も凄いぞ。昨日、新潟で2勝、今日、3勝。おれは馬券がシャットアウトで、「たられば」でタメ息ついているのに、凄い人っているものだ。
おれ、べつに、不幸だとも思っていないけど、さびしい。そうか、やっぱり、酒場には音楽があったほうがいい。ギター曲を低く流そう。
フランシス・ターレガの「アルハンブラの思い出」を聴いているうち、竹やぶに身を隠している少年が、不意に私の脳に浮かんだ。
その少年は、2001年に角田晃一騎乗のジャングルポケットでダービーを勝った渡辺栄調教師である。競馬のことを思いめぐらせていると、ときどき、渡辺栄師から聞いた少年時代の話が私に浮かんでくるのだ。
新潟から地方競馬の春木に行って働いた栄少年は、朝の3時から夜の9時まで靴を脱がない労働にへこたれたわけでなく、ヒロポン注射などが日常的な仲間の無頼が耐えられずに脱走した。
トランクひとつで逃げたが、駅まで遠い。案の定、追っ手の姿を見て、竹やぶに隠れて夜が明けるのを待った。
逃走に成功した17歳の栄少年は、話に聞いていた京都競馬の厩舎を歩くが、7月で札幌へ行って不在の調教師が多く、たまたま在宅の武田文吾調教師に、「使ってください」と玄関先で頭を下げた。
「わたしは今日、札幌へ行く。ついてくるか」
いくつかの質問をしたあと、そう武田文吾師が言った。凄い話だ。1951年のことだ。
ジャングルポケットがダービーを勝った年の秋、私は滋賀県湖南市の渡辺栄宅へ遊びに行ったことがある。そのとき、ジャングルポケットが出走のダービーの前夜、布団のなかで、春木から逃げだして竹やぶにいたときの自分がよみがえり、あのときの自分のために、なんとかダービーを勝たせてくださいと、誰かに頼んでいたという渡辺栄師の話を聞いて、私には忘れられない思い出となったのだった。
ギター曲はマルコム・アーノルドの「セレナーデ作品50」になっていた。少し酔ってきた私の脳に、海がひろがっている。
「人間の頭のはたらきって不思議なものだなあ。ダイナカールがオークスを勝ったあと、ここでね、馬が遠くを走っている景色一帯が、海になってるんですよ。わたしは、その海を、ずうっと眺めてた」
渡辺栄師から変わって、私の頭にいたのは高橋英夫調教師だった。調教場が海に変わって、と英夫師が私に言ったのは、美浦トレセンの調教師スタンド。まわりに誰もいなかった。
「わたしの実家は北海道の新得で、近所にね、第1回ダービーで勝ったワカタカの騎手、函館孫作さんの義弟という人がいたの。その人に、騎手になれとすすめられて、それでね、ひとりでね、青函連絡船に乗ったんです。
母親が百円札を2枚、シャツに縫いつけてくれた。そのシャツを着て、連絡船で海を見てたときの心細さは忘れられない。
昭和10年、16歳のときだね。3日かかって東京に着いて、すぐに新得へ帰りたかったね。
いやあ、不思議なものだよ。ダイナカールがオークスを勝って、よかったなあとここで馬場を見ていると、馬場がね、泣きそうに見ていた16歳のときの海になってるんだ」
高橋英夫師の声は静かである。
ギターの音を聴きながら、その海を想像していると、高橋英夫騎手が乗ってダービーを勝ったフエアーウインの調教師が松山吉三郎さんだったよなあと思った。
ダイナガリバーがダービーを勝って、2度目のダービートレーナーになった松山吉三郎師と美浦トレセンで会った。
昔のことを訊いても、つらいことばかりが思い出されて、楽しいことが浮かんでこないと、「喋りたくない」が口ぐせのような吉三郎師が、その日は機嫌がよくて、
「ガリバーがダービーを勝った晩、大昔のことを思いだしたよ。下乗りのころに、尾形(藤吉)先生が出かけるので靴をそろえたら、うしろから頭を蹴られた。どうして蹴られたのか分からないけど、きっと自分に落度があったんだろう。でなければ、尾形先生がそんなことをするわけない。
でも、くやしくてな、痛かった頭の髪の毛をハサミで切って、買ったばかりの新品の靴に、新聞紙で包んだ髪の毛を入れて、便せんに、おれは一人前になってみせると書いて、その靴を、ずうっと押し入れに隠してた。まだハタチ前のことだけどな」
と長いひとりごとのように口にした。
ギターの音は消えて、バー「たられば」は無音になった。
今日、毎日王冠を勝ったサリオスにも、サリオスという1頭の馬に関わった誰かのドラマが隠されているのだろうと私は思ったが、そういうドラマのようなことは、デジタル時代の今、意味ないとイヤがられるのだとも思った。
一生懸命に仕事をして、あとは酒場で冗談をとばすこと。キザに思われるかもしれないが、おれの人生、それだけ。
そのように生きてきたのに、新型コロナウイルスのために酒場行きがアウト。仕方なくバー「たられば」で、ひとり、酔う日が続いている。冗談をとばせないのが空しい。
2020年10月11日が、まあ、無事に終わったなあと、余計な仕ぐさと知りながら、ウイスキーの水割りグラスを宙に向けて乾杯。
台風14号と秋雨前線の影響で、昨夜には東京都三宅村(三宅島)と御蔵島村に大雨特別警報が発表された。三宅島全域の1,553世帯2,388人に避難指示が出る。大変だ。うーん、やはり、幸せとは、無事のことかな?
毎日王冠でルメール騎乗のサリオスが強かった。皐月賞もダービーもコントレイルの2着。菊花賞でコントレイルと戦ってほしいけれど、マイル路線へ行くのかなあ。
そう、今日、東京競馬でルメールが4勝、デムーロが3勝。凄いなあ。いや、藤田菜七子も凄いぞ。昨日、新潟で2勝、今日、3勝。おれは馬券がシャットアウトで、「たられば」でタメ息ついているのに、凄い人っているものだ。
おれ、べつに、不幸だとも思っていないけど、さびしい。そうか、やっぱり、酒場には音楽があったほうがいい。ギター曲を低く流そう。
フランシス・ターレガの「アルハンブラの思い出」を聴いているうち、竹やぶに身を隠している少年が、不意に私の脳に浮かんだ。
その少年は、2001年に角田晃一騎乗のジャングルポケットでダービーを勝った渡辺栄調教師である。競馬のことを思いめぐらせていると、ときどき、渡辺栄師から聞いた少年時代の話が私に浮かんでくるのだ。
新潟から地方競馬の春木に行って働いた栄少年は、朝の3時から夜の9時まで靴を脱がない労働にへこたれたわけでなく、ヒロポン注射などが日常的な仲間の無頼が耐えられずに脱走した。
トランクひとつで逃げたが、駅まで遠い。案の定、追っ手の姿を見て、竹やぶに隠れて夜が明けるのを待った。
逃走に成功した17歳の栄少年は、話に聞いていた京都競馬の厩舎を歩くが、7月で札幌へ行って不在の調教師が多く、たまたま在宅の武田文吾調教師に、「使ってください」と玄関先で頭を下げた。
「わたしは今日、札幌へ行く。ついてくるか」
いくつかの質問をしたあと、そう武田文吾師が言った。凄い話だ。1951年のことだ。
ジャングルポケットがダービーを勝った年の秋、私は滋賀県湖南市の渡辺栄宅へ遊びに行ったことがある。そのとき、ジャングルポケットが出走のダービーの前夜、布団のなかで、春木から逃げだして竹やぶにいたときの自分がよみがえり、あのときの自分のために、なんとかダービーを勝たせてくださいと、誰かに頼んでいたという渡辺栄師の話を聞いて、私には忘れられない思い出となったのだった。
ギター曲はマルコム・アーノルドの「セレナーデ作品50」になっていた。少し酔ってきた私の脳に、海がひろがっている。
「人間の頭のはたらきって不思議なものだなあ。ダイナカールがオークスを勝ったあと、ここでね、馬が遠くを走っている景色一帯が、海になってるんですよ。わたしは、その海を、ずうっと眺めてた」
渡辺栄師から変わって、私の頭にいたのは高橋英夫調教師だった。調教場が海に変わって、と英夫師が私に言ったのは、美浦トレセンの調教師スタンド。まわりに誰もいなかった。
「わたしの実家は北海道の新得で、近所にね、第1回ダービーで勝ったワカタカの騎手、函館孫作さんの義弟という人がいたの。その人に、騎手になれとすすめられて、それでね、ひとりでね、青函連絡船に乗ったんです。
母親が百円札を2枚、シャツに縫いつけてくれた。そのシャツを着て、連絡船で海を見てたときの心細さは忘れられない。
昭和10年、16歳のときだね。3日かかって東京に着いて、すぐに新得へ帰りたかったね。
いやあ、不思議なものだよ。ダイナカールがオークスを勝って、よかったなあとここで馬場を見ていると、馬場がね、泣きそうに見ていた16歳のときの海になってるんだ」
高橋英夫師の声は静かである。
ギターの音を聴きながら、その海を想像していると、高橋英夫騎手が乗ってダービーを勝ったフエアーウインの調教師が松山吉三郎さんだったよなあと思った。
ダイナガリバーがダービーを勝って、2度目のダービートレーナーになった松山吉三郎師と美浦トレセンで会った。
昔のことを訊いても、つらいことばかりが思い出されて、楽しいことが浮かんでこないと、「喋りたくない」が口ぐせのような吉三郎師が、その日は機嫌がよくて、
「ガリバーがダービーを勝った晩、大昔のことを思いだしたよ。下乗りのころに、尾形(藤吉)先生が出かけるので靴をそろえたら、うしろから頭を蹴られた。どうして蹴られたのか分からないけど、きっと自分に落度があったんだろう。でなければ、尾形先生がそんなことをするわけない。
でも、くやしくてな、痛かった頭の髪の毛をハサミで切って、買ったばかりの新品の靴に、新聞紙で包んだ髪の毛を入れて、便せんに、おれは一人前になってみせると書いて、その靴を、ずうっと押し入れに隠してた。まだハタチ前のことだけどな」
と長いひとりごとのように口にした。
ギターの音は消えて、バー「たられば」は無音になった。
今日、毎日王冠を勝ったサリオスにも、サリオスという1頭の馬に関わった誰かのドラマが隠されているのだろうと私は思ったが、そういうドラマのようなことは、デジタル時代の今、意味ないとイヤがられるのだとも思った。