烏森発牧場行き
第313便 銘酒「七冠馬」で乾杯!
2021.01.08
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第40回ジャパンCが3日後にせまった日の夜、ウインズ横浜仲間の野原さんが電話してきて、
「今日はかみさんもいなくて、ひとりで、さっきからチビチビ、冷や酒をのんで、競馬のことを考えてたの。
アーモンドアイのラストランのゲートに、コントレイルとデアリングタクトが入るなんて、こんなの、めったにあるもんじゃないなあって、考えただけでドキドキしてきた。
それでね、ドキドキしながら、リョウさんが頭に出てきたんだ。
忘れてるかもしれないけど、リョウさん、今日がジャパンCの、初めての、第1回という日、競馬場で、パドックの近くで、リョウさんに会ったんだよなあ。それを思いだしたの」
と言うのである。
「忘れていたけど、言われたら思いだした。なんだか、いつもの競馬場の空気じゃなくて、外人も多いし、外人はゼスチュワも大きくて、笑い声も高いし、そんな雰囲気のパドックのあたりをうろうろしてたら、外国人の老夫婦をつれた野原さんに会ったんだ。いやあ、ほんと、あの日、第1回ジャパンCだったなあ。
うーん、野原さんもおれも若かった。今年は第40回というから、40を引くと、おれ、43歳」
そう私が言い、
「リョウさんとは10歳ちがいだから、わたしは33歳。いやあ、わたしにも、間違いなく33歳のときがあったんだよね」
と野原さんが笑った。
野原さんは去年ぐらいまで画廊の仕事を続けていた。英語が達者で、日本で暮らす外国人相手の仕事が多く、競馬が好きで、よく競馬場に外国人を誘って来ていた。私とはウインズ横浜に近い喫茶店「サンパウロ」で知りあい、週末はそこで半日、馬券とビールで過ごすという長いつきあいである。
「しかし、めったにない凄いジャパンCが、満員のスタンドの、叫び声の前で展開しないというのは、なんとしてももったいない。
今日、リョウさんに電話したのは、このジャパンCを、ひとりでテレビの前で見るのは変で、それでもし、リョウさんも競馬場へ行かないのであれば、どこかでいっしょに見たいなあって考えたわけなんですよ。
いやあ、わたしの思いが変なのかもしれないけど、この、めったにないジャパンCは、もし入れるのなら、ぜったいに、わたし、競馬場へ行ってた。それで、群衆にもまれながらも、じいさんの頭にレースをやきつけたかった。
そんなこと思ってたら、リョウさんに電話したくなっちまったわけ。
まったく、コロナウイルスの奴、人生の、何か大切なものを、消してくれるよなあって」
と野原さんが必死のように言うのを、私は共感しながら聞いていた。条件つきのウインズへ行くのは嫌だし、家でテレビの前でひとりで、めったにないジャパンCを見るのも惜しい、と私も感じていたのだった。
それで相談の結果、野原さんが私の家に来て、一緒にテレビで見ることになった。
野原さんとの電話のあと、その日に来た、江東区木場に住む、大学でイタリア語を教えている京藤好男からの便りを読みかえした。
「凄いジャパンCの日がぼくの50歳の誕生日。3強からすれば冗談みたいな実績のヨシオが出走する。贈り物みたいな気もする。全国に何人、競馬好きのヨシオはいる?。がんばれヨシオ、と声をかけてくれるようなジャパンCの出走です。うれしいなあ」
読みながら、小檜山悟調教師が私に浮かんでいる。彼とは長いつきあいがあるので、小檜山厩舎のトーラスジェミニが、このジャパンCに出走するのが私にはうれしいのだ。
ところで、彼の厩舎のスマイルジャックが、ダービーで2着だった時から何年が過ぎているのだろう。時間というのはミステリーだなあと思いながら、第40回ジャパンCに唯一頭の海外馬ウェイトゥパリスのことも頭に出てきた。
ヨシオとトーラスジェミニとウェイトゥパリスのこと、このところの競馬記事に、一行も出てこないよなあ。競馬記者ってツメタイのかなあ?それとも、一行も書かないことが正しいのかもしれないなあ。そんなことを考えている自分が変なのかと、しばらく私は宙を見ていた。
第40回ジャパンCの前日、野原さんは無類の日本酒好きだから、どの酒で、めったにないジャパンCに乾杯をしようか、物置に数本ある銘柄を見に行って、「おっ」と声が出そうになった。日本酒「七冠馬」があったのだ。
箱にある活字を読む。
「酒名(七冠馬)の由来。日本の競馬史上で二十世紀最強の牡馬と称される七冠馬シンボリルドルフ号。この名馬のオーナーブリーダーであるシンボリ牧場主と、蔵元が親戚になった縁により、銘酒七冠馬が誕生しました。蔵主」
よしっ。第1回ジャパンCの日に、パドック近くで会った野原さんと、第40回ジャパンCを一緒にテレビで見るという縁により、銘酒七冠馬で乾杯をしよう。
銘酒「七冠馬」を前に、シンボリ牧場を訪ねていくつもの思い出がある和田共弘さんが浮かび、シンボリルドルフがジャパンCを勝ってから何年が過ぎたのだろうと思った。共弘さんが亡くなったあと、何度か和田孝弘さんにも会っている。孝弘さんといえばシンボリクリスエスだ。もう孝弘さんもいないのだ。私は宙を見つめた。
2020年11月29日、昼すぎ。横浜の根岸競馬場跡地の近くに住む野原さんが私の家に来て、にっこり笑った。
「ところで野原さん、初めて競馬場へ行ったときのこと、おぼえてますか?」
「スピードシンボリが有馬記念を連覇したときの中山。大学を出て社会人1年生」
「なんとなんと。たまたまですが、シンボリ牧場と縁のある酒が残っていて」
そう言って私は、ふたつのグラスに銘酒「七冠馬」を注ぎ、第40回ジャパンCに乾杯をした。
3時を過ぎてテレビにパドックが映り、アーモンドアイが、コントレイルが、デアリングタクトが歩く。野原さんも私も無言を選んだ。
「今日はかみさんもいなくて、ひとりで、さっきからチビチビ、冷や酒をのんで、競馬のことを考えてたの。
アーモンドアイのラストランのゲートに、コントレイルとデアリングタクトが入るなんて、こんなの、めったにあるもんじゃないなあって、考えただけでドキドキしてきた。
それでね、ドキドキしながら、リョウさんが頭に出てきたんだ。
忘れてるかもしれないけど、リョウさん、今日がジャパンCの、初めての、第1回という日、競馬場で、パドックの近くで、リョウさんに会ったんだよなあ。それを思いだしたの」
と言うのである。
「忘れていたけど、言われたら思いだした。なんだか、いつもの競馬場の空気じゃなくて、外人も多いし、外人はゼスチュワも大きくて、笑い声も高いし、そんな雰囲気のパドックのあたりをうろうろしてたら、外国人の老夫婦をつれた野原さんに会ったんだ。いやあ、ほんと、あの日、第1回ジャパンCだったなあ。
うーん、野原さんもおれも若かった。今年は第40回というから、40を引くと、おれ、43歳」
そう私が言い、
「リョウさんとは10歳ちがいだから、わたしは33歳。いやあ、わたしにも、間違いなく33歳のときがあったんだよね」
と野原さんが笑った。
野原さんは去年ぐらいまで画廊の仕事を続けていた。英語が達者で、日本で暮らす外国人相手の仕事が多く、競馬が好きで、よく競馬場に外国人を誘って来ていた。私とはウインズ横浜に近い喫茶店「サンパウロ」で知りあい、週末はそこで半日、馬券とビールで過ごすという長いつきあいである。
「しかし、めったにない凄いジャパンCが、満員のスタンドの、叫び声の前で展開しないというのは、なんとしてももったいない。
今日、リョウさんに電話したのは、このジャパンCを、ひとりでテレビの前で見るのは変で、それでもし、リョウさんも競馬場へ行かないのであれば、どこかでいっしょに見たいなあって考えたわけなんですよ。
いやあ、わたしの思いが変なのかもしれないけど、この、めったにないジャパンCは、もし入れるのなら、ぜったいに、わたし、競馬場へ行ってた。それで、群衆にもまれながらも、じいさんの頭にレースをやきつけたかった。
そんなこと思ってたら、リョウさんに電話したくなっちまったわけ。
まったく、コロナウイルスの奴、人生の、何か大切なものを、消してくれるよなあって」
と野原さんが必死のように言うのを、私は共感しながら聞いていた。条件つきのウインズへ行くのは嫌だし、家でテレビの前でひとりで、めったにないジャパンCを見るのも惜しい、と私も感じていたのだった。
それで相談の結果、野原さんが私の家に来て、一緒にテレビで見ることになった。
野原さんとの電話のあと、その日に来た、江東区木場に住む、大学でイタリア語を教えている京藤好男からの便りを読みかえした。
「凄いジャパンCの日がぼくの50歳の誕生日。3強からすれば冗談みたいな実績のヨシオが出走する。贈り物みたいな気もする。全国に何人、競馬好きのヨシオはいる?。がんばれヨシオ、と声をかけてくれるようなジャパンCの出走です。うれしいなあ」
読みながら、小檜山悟調教師が私に浮かんでいる。彼とは長いつきあいがあるので、小檜山厩舎のトーラスジェミニが、このジャパンCに出走するのが私にはうれしいのだ。
ところで、彼の厩舎のスマイルジャックが、ダービーで2着だった時から何年が過ぎているのだろう。時間というのはミステリーだなあと思いながら、第40回ジャパンCに唯一頭の海外馬ウェイトゥパリスのことも頭に出てきた。
ヨシオとトーラスジェミニとウェイトゥパリスのこと、このところの競馬記事に、一行も出てこないよなあ。競馬記者ってツメタイのかなあ?それとも、一行も書かないことが正しいのかもしれないなあ。そんなことを考えている自分が変なのかと、しばらく私は宙を見ていた。
第40回ジャパンCの前日、野原さんは無類の日本酒好きだから、どの酒で、めったにないジャパンCに乾杯をしようか、物置に数本ある銘柄を見に行って、「おっ」と声が出そうになった。日本酒「七冠馬」があったのだ。
箱にある活字を読む。
「酒名(七冠馬)の由来。日本の競馬史上で二十世紀最強の牡馬と称される七冠馬シンボリルドルフ号。この名馬のオーナーブリーダーであるシンボリ牧場主と、蔵元が親戚になった縁により、銘酒七冠馬が誕生しました。蔵主」
よしっ。第1回ジャパンCの日に、パドック近くで会った野原さんと、第40回ジャパンCを一緒にテレビで見るという縁により、銘酒七冠馬で乾杯をしよう。
銘酒「七冠馬」を前に、シンボリ牧場を訪ねていくつもの思い出がある和田共弘さんが浮かび、シンボリルドルフがジャパンCを勝ってから何年が過ぎたのだろうと思った。共弘さんが亡くなったあと、何度か和田孝弘さんにも会っている。孝弘さんといえばシンボリクリスエスだ。もう孝弘さんもいないのだ。私は宙を見つめた。
2020年11月29日、昼すぎ。横浜の根岸競馬場跡地の近くに住む野原さんが私の家に来て、にっこり笑った。
「ところで野原さん、初めて競馬場へ行ったときのこと、おぼえてますか?」
「スピードシンボリが有馬記念を連覇したときの中山。大学を出て社会人1年生」
「なんとなんと。たまたまですが、シンボリ牧場と縁のある酒が残っていて」
そう言って私は、ふたつのグラスに銘酒「七冠馬」を注ぎ、第40回ジャパンCに乾杯をした。
3時を過ぎてテレビにパドックが映り、アーモンドアイが、コントレイルが、デアリングタクトが歩く。野原さんも私も無言を選んだ。