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第65回 『緑川所長退任の際して』

2014.05.21
 競走馬のふるさと日高案内所の緑川芳行所長が3月末に、満65歳の定年を以てHBA(日高軽種馬農協)を退職された。
 この「JBBA NEWS」をお読みになっている読者の方も、競走馬のふるさと日高案内所内やHBAのせり市場において、再上場の受付に座られている緑川所長の姿を一度は見かけたことがあるはずだ。

 自分自身も緑川所長、いや緑川さんが所長職に就かれた11年程前から、いや、正確には「こっちに来たら顔を出してよ!」と気さくに声をかけていただいてから、案内所へ足を向けるようになっていた。

 今ではあまりの居心地の良さに、取材の空き時間にも訪ねてみたり、市場開催期間中は案内所の一角に取材者ブースを作ってもらえるのをいいことに、荷物を置かせてもらうにとどまらず、了承を得た上で、普段は緑川さんの座っている席をお借りして、せりや案内所のホームページに掲載するニュースの原稿執筆などの作業をさせてもらうこともあった。

 その姿はぱっと見だと、再上場の受付にいるはずの緑川さんが座っているようにも見えたらしく、「所長そこにいるの?」と声をかけてもらった際には、パソコンのモニターから申し訳なさげに顔を出して、「今日は『1日案内所所長』なんですよ...」と頭を下げることもしばしばあったほどだ。

 今、書き起こしてみても、あまりにも図々しいことばかりだと反省するだけだが、それも緑川さん、そして緑川さんのもとで働く女性職員の藤本光恵さんと鎌田友香さんが、こんな横暴なマスコミを許してくれる空気を作っていてくれたからである。席に座っていた僕に対し、所長と勘違いして声をかけてくれた生産関係者の方と共に、ここでお礼とお詫びをさせていただきたい。

 先日、緑川さんとの関係が特に深い(主に飲み仲間)生産関係者、女性職員の2人、そして何かとお世話になってきたマスコミ関係者が集まり、ささやかながら緑川さんの送別会を行った。

 そこで参加者1人ひとりが緑川さんへの感謝の言葉を述べたのだが(ちなみに僕は、緑川さんとの思い出をこのコラムで書きますと言いました)、ある参加者が、「所長を辞めても、『相馬野馬追を応援する会』の活動は続けて欲しい」と話したのを聞いて、改めて緑川さんが所長となってから果たしてきた多くの活動の中で、この『相馬野馬追を応援する会』における役割の大きさに気付かされた。

 東日本大震災から間もなくして、緑川さんは功労馬たちの安否を確認すべく、全国の牧場に電話をかけ始める。だがその際に、最後まで連絡を取ることをためらったのは、津波によって甚大な被害が出ていた福島県の南相馬地区だった。

 しかも、当時は電話を始めとする連絡網のほとんどが不通となっていた時期。祈るような気持ちでかけた電話の中には、呼び出し音すら聞こえないこともあったが、そのうちの3件と連絡が取れて、しかもその牧場で繋養されていた功労馬は全て無事であることが確認できた。

 ホッとしたのもつかの間、連絡が取れない牧場や功労馬の安否が気になって仕方なくなる。そんな時、ひだか町に南相馬地区の牧場と接点のある人を知った緑川さんは、その人を通じて詳しい被害状況や、自分の住居が津波で流されたのにもかかわらず、助かった功労馬の繋養先を探しているという話を知る。

 この時、南相馬地区には「相馬野馬追」に参加していた馬を含め、35頭の功労馬が繋養されていたが、1頭の犠牲こそあったものの、残る34頭は生き永らえることができた。それは先述の通りに、避難所や仮設住宅での生活を余儀なくされたのにも関わらず、功労馬の救済や避難先への移動に際し、被災者でもあった牧場関係者による尽力のためであることは言うまでもない。

 そのうち、現地で求められている物資などがNPO法人を通して集まってくるようになっていく。緑川さんもこうした関係者間の連絡を繋ぐ重要な役割を果たしていくが、そのうち、電話での交流を深めた南相馬地区の関係者から、思わぬ言葉を聞くこととなる。

 「被災に遭おうとも、今年の相馬野馬追をやらないわけにはいかない」その時緑川さんは、改めて相馬野馬追を軸にして、馬と人との文化が築かれてきたという事実と、そして祭にかける関係者のパワーを知らされる。

 その次の年の秋、緑川さんは南相馬にいた。自分の目で、この南相馬がどんな被害状況に見舞われ、そして人と馬との繋がりや文化を確認しようと思ったからである。(次号に続く)
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