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第187回 『お父さんのこと』

2024.07.18

 田中哲実さんが5月13日に亡くなった。田中さんは岩手競馬史上最強馬とも称された、トウケイニセイの生産者であり、そして、生まれ故郷である浦河に根付きながら、ライターとカメラマンを兼任していた。


 哲実さんは亡くなった当日も自宅で朝食と昼食を食べ終え、仕事へと出かけていった妻の綾恵さんを見送ったという。ただ、夕方に体調の悪化を綾恵さんに電話で伝えると、救急車が着いた頃には意識も混濁としており、搬送先の浦河の病院で68歳の生涯を終えた。死因は大動脈解離だった。


 哲実さんのお通夜は18日に、告別式は19日に執り行われた。お通夜は仕事の都合で行けなかったので、19日の午前9時からの焼香に間に合わせるべく、8時半には葬儀会場に到着した。だが、そんな早い時間に来る参列者はいないと思われたのか、自分が控室として案内されたのは、遺族関係者の部屋だった。


 その部屋に入った瞬間に場違いだと気付き、即座に立ち去ろうとしたところ、綾恵さんが、「村本さんお久しぶりですね。どうぞ、こちらにいらしてください」と招かれるまま椅子へと座る。すると、突然の来客にもかかわらず、哲実さんの娘となる文乃さんがお茶を持ってきてくれた。


 突然の悲しみも、動じることが無いかのような振る舞いを見せる綾恵さんは、「あまりにも急なことすぎて、残された方としては困ってしまいますよね」と話し出す。綾恵さんのようなご家族はもちろんのこと、哲実さんに毎月の立ち写真や、せり上場馬の立ち写真の撮影を頼んできた牧場関係者にとっても、突然の訃報は悲しみだけでなく、誰に写真を頼んでいいのかと頭を悩ませる事態になっているに違いない。


 改めて哲実さんの代わりはいないことを実感する中、その思い出が口から溢れ出す。「最初にお会いしたのは、せり市場などの取材先だったと思います。その後にはトウケイニセイの生産者としても、話を聞く機会がありました。あの時は生産者の哲実さんにどんなことを聞くべきかと、妙に緊張したことを覚えています。その後からはライターとして認めてもらえたというのか、これまで以上に打ち解けられた気がします。そもそも年齢だけでなく、この仕事のキャリアも全く違うにもかかわらず、哲実さんは常に気さくに接してくれました。それは、どのライターやカメラマンに対しても変わることなく、常に哲実さんの周りには、笑顔で会話をする人がいたはずです。


 一方で立ち写真のポーズを決める際には、ビシッと指示をハンドラーに伝えてくれていました。普段から様々な牧場関係者と接点がある、哲実さんだからこそできることでもあり、また、取材に関しても哲実さんがいてくれたおかげで、円滑に進んでいました。


 そんな哲実さんの姿を見て、数年前からですが、冗談半分で『浦河のボス』と呼んでいました。最初はなんだそりゃ?といった反応でしたが、「やはり、浦河に足を踏み入れたからには、まず、ボスに挨拶をしておかなければと思いまして」と冗談めかして言うと、哲実さんは「そんなこと言うなよ~」と笑ってくれました。でも、僕だけでなく、誰もが哲実さんのことを『ボス』のように慕っていて、そして尊敬していたと思います。


 哲実さんがいないという事実は、これからせり市場など色々な取材先で痛感することになるのだと思います。7月には八戸で1歳市場も行われるのですが、哲実さんは毎年、八戸に行くのを楽しみにしていたようです。できることなら、八戸でご飯でも食べたかったと思うのですが、それが叶わないどころか、もう、『浦河のボス』といっても、振り向いてもらえないのかと思うと、なんか嫌ですね」そこまで一気に語りつくした時に、文乃さんが、「家では疲れているのか、いつも寝転がっているようなお父さんでした。でも、村本さんの話で仕事をしている姿が垣間見えただけでなく、色々な方にも慕ってもらえていたんだなと思うと、どこか嬉しくなりました」と笑顔を向けてくれる。その後も遺族関係者の部屋から離れることなく、綾恵さんだけでなく、文乃さんを含めた哲実さんの娘さんたちとも思い出を語り合った。


 自分がお茶を飲み終えたのを見た綾恵さんが、入れたてのコーヒーを持ってきてくれながら、こんなことを話し出す。「主人は村本さんのことを話す度に、『可愛い奴なんだよ』とも言ってましたよ」。その言葉を聞いた時、堪えていた涙が溢れ出しそうになった。気持ちを落ち着けるために飲んだコーヒーは、どこか塩辛い味がした。

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