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第175便 大井で青年に会って

2009.07.01
 16頭立て8番人気,金子正彦騎乗のサイレントスタメン(父レギュラーメンバー,母ジプシーワンダー,母の父ブライアンズタイム)が東京ダービーを勝った日の大井競馬場で,
 「どうも」
 と青年に挨拶をされた。パドックの近くの人ごみのなかだ。
 「どうも」
 そう私も挨拶を返したが,さて,誰?
 「わからないですよね」
 青年が少し笑った。
 「ごめん,わからない」
 私も少し笑った。

 青年が話をしてくれて,わかった。静内の牧場の息子だった。その牧場を私が訪ねたのは,もう十年以上も昔である。息子の父親とは静内でも,東京でも,何度か酒をのんでいる。私が牧場を訪ねたころ,青年は高校生だったという。私は知らなかったが,3年前に私が三石で講演をさせてもらったとき,聞きにきてくれていたのだ。

 「三石のときに,声をかけてくれればよかったのに」
 「気が小さいんで,遠慮して」
 と青年はまた少し笑う。
 東京ダービーは第11R。まだ第7Rのパドックのときだから,青年をコーヒーに誘った。
 「東京ダービーに出てるの?」
 「それならいいんですけどね。今日の早いレースに出たうちの馬の馬主さんに,お祝いを届けることがあって,それで東京に」
 「うちの馬,どうだった?」
 「勝てませんでした」
 と青年は競馬新聞をひろげ,うちの馬の名前に指を置いた。

 小一時間ほどの話のなかで,老いた父親に代って自分が頑張らなければならないことはわかっているが,経営が苦しくて,仕事の内容のことよりも,牧場を存続させるかどうかの方に頭が向いてしまう,という青年の現実が伝わってきて,
 「おれなんかは何も力になれないけど,重くなった頭を軽くしたくなったら,遠慮しないで遊びに来なよ。明るく仕事をして,明るく商売しないとな,どんどん商売が暗くなっちゃうから」
 と名刺を渡して別れた。

 すると翌日の朝,
 「おやじに電話をしたら,いいよ,行ってこいって言うので,もし,お仕事の都合がよかったら,今日,寄ってもいいでしょうか」
 と青年が電話をしてきたのだった。それで青年が私の家に一泊することになったのである。
 夜,私の家でビールをのんでいた青年が,
 「ヨシカワさんの思う,凄い人って,どんな人なんですか?」
 という質問をしてきた。
 牧場を存続させるかどうか,と迷っている青年は,言葉ひとつで心の色を変えるかもしれないと感じる私は,いいかげんは許されないぞと思い,
 「いい質問だなあ」
 とつぶやいた。

 「競馬とは関係ないけどね,栃木県の足利市に,川田昇という人がいるんだ。おれが雑誌の取材で会ったのは十年前かな。そのとき78歳。今は,だから88歳で,車椅子の生活になったみたい。
 川田さんはね,小学校の教員になったばかりで,赤紙,軍隊からの召集令状が来ちゃったんだ。川田陸軍一等兵は満州のチチハルへ。防毒マスクをしてね,毒ガス実験の訓練中に,倒れて,重症患者室に入ったんだな。となりが霊安室で,入院仲間が次々に死んでいった。
 自分は殺されるために生まれてきたのか。そう思い続けていた川田の希望は,回復の見込みなし,となって内地送還されること。演技をしたんだな。食物は口にせず,体温計も割れそうになるほどこすって体温を上げたり,便所へ這って行ったり。仮病がバレたら処刑だけど,必死に演技をして内地送還。そして少しして終戦。
 うれしかったけど,うしろめたかった。ズルをして生き残った生命を,何かに捧げなかったらバチがあたるぞって。

 川田昇は中学校で障害児の学級を作った。卒業生が世間に拒否される姿を見つめているうちに,障害児たちの幸福は,同情にすがって守られることではなく,労働をして生きる力をつけることだと知ったんだ。
 37歳の川田昇は,貯金をはたいて,借金をして,高さが210メートル,広さ7ヘクタールの山を買って,学級の生徒たちと,ブドウとシイタケの栽培をしたかったんだなあ。
 物置きを作って寝泊まりして,ひとりで木を切り倒していったんだね。2年かかって雑木林が畑になった。傾斜が30度から38度もあるので,子供たちが昇り降りで足腰も強くなるし,バランスの取り方も上手になるわけ。
 川田昇の作業学習と,教育委員会の方針は違うので忠告を受けるよね。川田昇は昭和41年,1966年,小学校の教頭にという転任辞令を蹴って,退職した。

 その晩の酒はうまかったなあ。人生で最高の解放感だったなあって,川田さん,うれしそうに思い出を語っていたよ。さあ,これで,思いっきり自分のやりたいことが出来る。おれの記念日だって,そう思って酒をのんだそうだよ。
 大きな組織でお金をかけてもムダだって,川田昇は千葉の袖ヶ浦の福祉センター施設長を3年やった経験で感じてた。貧しくても,労働する生活のなかで人間を作り替えなければダメだったね。
 川田さんに共鳴するセンターの職員が4人,そこをやめて足利に来た。古材で建てたバラックで,川田さんは家にも帰らず,施設作りに没頭したんだ。
 川田という名の川と田のあいだに,小さくツを入れて,カワッタ先生と言われたよって,川田さん,ワッハハと笑ったよ。
 昭和44年,30名収容の施設が完成した。30人の生徒を収容できるぞ。みんなの力でやってみんべって始まったから,やってんべ学園と名が決まりかけたが,やってんべはこころみだから,こころみ学園にしようやって,こころみ学園が出発したんだ。
ブドウをしぼってクッキングワインを作って,シイタケを売って,なんとか暮らした。

 仕事って凄い力を持ってる。グチを言わなくなってくる。仲間がいる。自閉症の子もいれば乱暴者もいるから,次から次に問題が起きるけど,自然の中での労働で素直になる子供が増えるので,川田さんにますます元気が出た。
 1980年,昭和55年,こころみ学園の考え方に共鳴する父兄の出資で,ココ・ファーム・ワイナリーを設立したんだ。4年かかって醸造の認可が取れて,1万2千本のワインを完売させたそうだ。
 そういう出発のココ・ファーム・ワイナリーは,もう今は有名で,百人の園生が共同生活をして,すばらしいワインをおくり出してる」

 なぜ私は青年に川田昇の話をしたのだろう。その日に,「精いっぱいやっても,やり残していることがある,という生活をして,初めて仕事の味とか,仕事をする喜びを知るんですよね」という川田さんの言葉を思いだしていたあとだったからかもしれない。
 青年が馬主の子の結婚祝いを自宅へ届けに行ったと聞いたとき,それはあまり仕事と関係がないのでは,とカチンときて,その対照的に,川田さんの言葉を置いたのかもしれない。

 「牧場を続けるかどうかということでなしに,自分が考えぬいて,やりたいことがあるのかないか。やりたいことがなければ,それはそれで別の問題だよね。何かやってみんべ,何かやってんべ,というのがこころみ学園となったわけで,牧場としても,こころみ牧場にしなくては,面白くないよな」
 と私が言うのを,青年は静かに聞いているが,どのように青年が受けとっているのか,私にはわからない。それに,どうして青年が,どんな人を凄い人だと思っているのか,と聞いてきた理由は何だったのだろう。それを聞かなくてはな,と私は頭を整理した。

JBBA NEWS 2009年7月号より転載
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