烏森発牧場行き
第349便 アゴ出汁らーめん
2023年11月26日、朝7時に目をさますと小雨がぽつぽつ。おい、空よ、今日、東京競馬場で、とんでもなく強い牡馬と、とんでもなく強い牝馬が、ジャパンCというレースで戦うのだよ。競馬好きとしては、こんな争い、めったに見られないし、大げさでなく競馬の歴史的な日ともいえるの。だから、お願い。今日だけはなんとか、雨を降らせるのはやめにしてくれないか。
それに今日は、競馬場に8万人ぐらいが集まるのではないかと言われている。もし雨が降ったら、8万人、大変なことになる。お願いだ、頼む。なんとか耐えて、雨だけは降らさないでくれ。そんなことはめったにないけれど、私は何秒か手を合わせて祈った。
鎌倉駅から横須賀線に乗る。さっき家でパンをかじりながら見た新聞の活字、「ハマス、人質24人解放」、「イスラエルは39人釈放」の見出しの活字がちらつく。ロシアとウクライナの戦闘も終わりそうにないし、人間という生きもの、どうしても殺しあわないと気がすまないのかなぁと窓の外を見る。
おお、空よ、ありがとう。耐えてる。いまにも雨を落としそうな空の色だが、耐えてる。
南武線に乗りかえるので武蔵小杉駅で下車。階段をおりると、南武線のホームまで340Mという表示が壁に。あれっ、東京競馬場の直線は何メートルだっけと思いながら歩き、340Mもけっこう長いなと感じる。
9時21分の普通立川行きに乗れそう。ああ、でも座れそうもないなぁ。おれ、ジィさんなのだ、なんとかひとつ、席、ないだろうか。
武蔵小杉駅は下車する人も多い。車内に入り、おっ、座れそうだと前進したが、私をはじくようにして若い男に座られてしまった。
仕方ない、そういう奴もいるのだと吊革につかまった私を見て、その冷たい奴とひとりはさんで座っていた青年が、なんとはなしに空気を感じたのか無言で立ちあがり、私に席を。
「大丈夫」
と私は言ったが、青年は吊革につかまって、それまで読んでいた本に目をやった。
「ありがとう」
私は座り、ひとりはさんだ冷たい奴をちらっ。冷たい奴はスマホを見つめていて、なんだかニヤッと笑っていた。
うーん、世の中には、あったかい奴と冷たい奴がいるんだよなぁ。今日の馬券がうまくいかなかったとしても、あったかい奴に出会ったから幸せ、と青年の読む本を見上げたら、「巨大企業日立の壁」という表紙だった。
府中本町駅の改札口周辺は、まさに殺人的混雑。競馬場への通路も、10時30分入場という立札に並ぶ列とかが半分を占めていて狭い。ところどころ、「本日は現金での入場は出来ません」という立て札。うーん、ネットが使えないオジさん、おジィさん、可哀そうだなぁ。イクイノックスとリバティアイランドの争いを競馬場で見たいオジさんとオジィちゃんがあふれるほどいるだろうに。
東京3R2歳未勝利、ダート1600の16頭がパドックを歩いている。昨夜私は、ジャパンCの日に東京と京都での2歳未勝利戦に何頭が走るかかぞえたのだ。東京の1Rから4Rまでで64頭、京都の1Rから3Rまでで49頭。合わせて113頭が未勝利戦を走るのだ。
とんでもなく強い馬だって、未勝利の馬だって、どの馬も人の手で育ち、どの馬も人の願いがこめられているんだよなぁと、パドックの16頭を見つめる。新馬戦が17頭立て9着、2戦目が14頭立て11着のロードカナロアの娘に目を止め、ずうっと見つめるうち、単勝を200円買ってみようと思い、馬券窓口へと行った。
1階スタンドでレースを見る。私が単勝を買った馬は8番人気、116.7倍。2角も3角も4角も後方、直線でもがんばれずに8着だった。
そうだよなぁ、わざと負ける馬もいないだろうし、どの馬も一生懸命、必死に走っているのだ。
とんでもなく強い馬もいるし、とんでもなく弱い馬がいたって仕方ないよなと思いながら1階スタンドのあちこちをうろついて、うーん、やはり、ダービーの時も、有馬の時にも感じたけれど、以前は競馬場の主流だったオジさんやオジィちゃんがあまりいないよなぁと思った。
幸運にも私はJRA馬事文化賞を受賞したので、メモリアルスタンド7Fの「けやき」という大きな部屋に招待をされている。4角よりでゴールポストはかなり遠い位置だ。
ベランダの椅子に座って馬場を眺め、空を眺める。空はあぶない灰色だが、雨はどうにか降らないでいる。もし降ったら、おれは屋根の下にいるからいいけど、満員の、ひしめきあうみたいに混雑している人たちは、いったいどうなるのだろうと、あらためて私は、頼む、と空に願った。
「イクイノックスっていう馬名の意味、昼間と夜間の長さがほぼ等しくなるとき、っていう意味なんですってね」
と私と同じテーブルにいた女性が言う。
「いやぁ、前半も中間も後半も、全く変わらぬ強さで走り切るという意味なんじゃないのかな」
と私は言ってみた。
ジャパンCのゲートがあいた。なんの苦もなくイクイノックスは逃げ馬を捨て、とんでもない強さでゴールインし、2着もとんでもないリバティアイランド。
イクイノックスって、飛ばないで、風になってしまう馬だなと私は思った。
私はすぐに帰宅しなければならぬ事情があり、府中本町駅をめざしたが人の列が動かない。仕方なくラーメンを食べて時間をつぶそう。アゴ出汁らーめんを盆にのせ、しかしなかなか食べる場所がなかったが、身体をずらして私の座る場所を作ってくれた青年がいた。
ああ、南武線で、競馬場で、思いやりのある青年と出会えた。うれしい。イクイノックスとリバティアイランドの強さを見た日が、いっそううれしくなったような気がした。
ああ、今日も、自分としてはけっこう金を使い、ちっとも馬券が当たらなかったと思いながら、アゴ出汁らーめん、と内心で言ってみると、いかにも馬券で財布を軽くした奴の食べるものに、ぴったりのネーミングだなぁと思い、しみじみと汁を吸いこんだのだった。