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第352便 月に1万

2024.04.12

 毎週末のこと、馬券の買い目を考えながらも、ふと、ロシアとウクライナの争い、イスラエルとパレスチナの争いが頭にちらつき、日本は平和だから馬券の心配をして遊んでいられるんだよなあと思ったりもする。
 ニンゲンという生きもの、人を殺しあったり、せっかく作った建物や施設を壊しあったり、ほんと、どう考えても始末が悪い。
 たぶん、ほとんどのニンゲンは、殺しあったりしたくないし、ちょっと退屈だけど静かな日常が幸せなのだと思っている筈なのに、どうして戦争が起きてしまうのだろう。
 私は1937(昭和12)年生まれだから、第2次世界大戦のころは小学生で、戦地に行ったわけではない。それでも小学校1年生の秋から、両親の故郷である埼玉の村へ縁故疎開した。ところが、子供の私に事情は分からないが、行く先々でその家と折合いが悪かったのだろう、3軒に移り歩き、小学校も3度変わった。戦争が終わって東京の小学校に戻ったわけだが、私は四つの小学校に通ったわけである。
 疎開中の私は、子供ごころに、遠慮をすると評判がいいのだということを知ったようである。とにかく遠慮さえすれば、この子はいい子だと思ってもらえて、どうやら誰とでも笑って過ごせるのだと感じていたのだろう。
 今、私は87歳である。おれの人生、遠慮の人生だったなあと思うことがあり、しかし、遠慮していたから生きてこられたのかなあとも思い、しかし、生まれ変わったら、遠慮をしない人生をおくってみたいなあとも考えたりする。
 2024年3月3日の午後、横浜の戸塚に住む宮井くんが私の家に遊びにきた。宮井くんは30歳。仕事は大きな病院でリハビリの療法士。2年前に看護師の真央さんと結婚し、去年末、男の子が生まれた。
10年前まで私は、何か所かの児童養護施設へ、月に一度、笑い話をしに行く活動をしていた。遠慮と冗談を頼りに生きてきた私の、ささやかな社会的活動である。
養護施設にいた子が18歳とか20歳とかになり、仕事が決まったと知ると、記念に、その人を私は競馬場に連れて行っていた。
 その人が競馬を好きになるかならないか、それはどうでもいい。ただ人間は、どうしたって、お金と孤独と戦わねばならいないから、孤独との戦いで、競馬は、人によるけれど、武器になるよと私は思っているのだ。
 とりあえず、初めて競馬場へ行って、いくつかのレースを、100円、単勝を買わせてみることにしていた。
 また競馬場に来たいと思う人もいるし、もういいと思う人もいる。宮井くんは競馬場でうれしくなってしまった。
 その後のつきあいで宮井くんは、誰かしらに、初めて競馬場へ行った日のことを喋っている。宮井くんにとって、とてもとても大切な思い出になったのだろう。
 2014年3月29日のこと、中山競馬場での日経賞で岩田騎乗ウインバリアシオンが勝ち、2着が田辺騎乗のホッコーブレーヴだった。ウインバリアシオンは1番人気、ホッコーブレーヴは15頭立て10番人気。
 「ぼくは10歳の時に施設に入ったんだけど、田辺という女の先生がお母さんみたいだった。田辺先生が結婚して福岡へ行っちゃった時、悲しくて泣いてばかりいた。それで田辺騎手の馬の単勝を買ったんだ。大穴だったのに2着。くやしかったなあ。でも、2着だから凄いと思った」
 と喋る宮井くんはうれしそうなのだ。


 その日経賞から10年が過ぎている。
 「神さまに、もう誕生日はいりませんからってお願いしていたのに、2月24日が来ちゃって、87歳とかなっちゃって、ほんと、ドシタラヨカンベという毎日」
 と私は笑い、
 「ボクも別の意味でドシタラヨカンベという毎日です。子供を育てるのって凄いことですね。今日、遊びにこさせてもらいましたけど、戸塚から鎌倉まで電車で20分ぐらいかなあ、ひとりで、この自由、万馬券を取ったみたいな、と思いました」
 と宮井くんが笑った。
 「馬券にいくら使える?」
 「おれ、馬券やらないと元気がなくなるからって彼女に言って、月に1万、と決めました。もう必死の馬券ですよ」
 「必死が面白いんだ。おれも京都でバーテンしていた若いころ、京都競馬場で、金がないのに競馬を見てた。100円で大穴買って。でも、それで元気を作ってた」
 「先々週、こわくて穴が買えないなあって思って、東京の9Rフリージア賞で500円ちょっとの馬連を500円当てて、次の金蹄Sでも馬連の400円ちょっとの馬連を1,000円当てて、次のダイヤモンドSでも馬連の500円ちょっとを1,000円当てて、息ついた。もう穴なんか怖くて買えません」
 「必死が幸せ」
 「いやあ、3レース、カタくても続けて当たったら、心の底から勇気が湧いてきた」
と宮井くんはビールのグラスを高々と掲げた。
 テレビでディープインパクト記念、第61回弥生賞の11頭がパドックを歩いている。
 「このレース、トロヴァトーレとダノンエアズロックとシンエンペラーの3頭で行くしかないですよね。先々週の幸運の助けで、その3頭の3連複に3,000円、1点買い」
 と宮井くんはスマホをひらいて指を使った。私はトロヴァトーレ、シンエンペラー、ダノンエアズロックの順の3連単1点買いである。
 「ホッコーブレーヴから10年、30歳のミヤイブレーヴで、月に1万の馬券を武器に、よく戦っているよね。子育て、馬券、踏んばろう」
 と私が言ったりしているうちにゲートがあき、レースはゴール前。
 「何だ、何だよ、何なのだ!」
 と宮井くんの嘆きの声。6番人気のコスモキュランダが勝ち、シンエンペラーが2着、3着が9番人気のシリウスコルト。
 宮井くんも私も、それぞれ黙った。

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