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第353便 おれのドキュメント

2024.05.13

 

 NHKのテレビ番組、「ドキュメント72時間」が私は好きだ。例えば大阪の通天閣の近くのコインランドリーが取材場所になり、「コインランドリーは回り続ける」というタイトル。
 深夜近くに若い男が、洗いものを詰めた大きな袋を持ってきて、マイクを向けられる。
 「ボク、山口県育ちだけど、近くに仕事がなくて、大阪に出てきたんです。普通の生活をしたくて、昼間、工場で働いてるんだけど、それだけじゃ足りなくて、夜も居酒屋で働いていて。
普通の生活をするのって大変ですよね」
 と若い男が言う。
 普通の生活をするのって大変ですよねという言葉が私に届いて、おたがいガンバロウよと思う。
 福島の街道沿いにアイスクリーム店があり、雪がちらつく冬でも、けっこう繁盛しているのを伝えるのもあった。
 70代前半の男が、店の駐車場に停めた小型トラックでソフトアイスを舐めている。
 「わたしは土建屋みたいなもんで、ひと山越した町に仕事しに行くんだけども、終わって、いつもの山道の景色を眺めながら家に帰るんだよ。で、ここでアイスクリームを食べながら、今日も無事に仕事したなあって思うわけ。ここには必ず寄る。わたしの生活ってことさ」
 と男がはずかしそうに笑った。その笑顔を見て私は、拍手をしたくなるほど感動し、どうしてそんなに感動したのか、考える。そう、その考える時間が、私は幸せだなあと息をつくのだ。
 店のなかの椅子で、60代の半ばと見える女がソフトアイスを大事そうに舐めている。マイクを向けられ、おどろいた顔の顎にクリームがついていて、指で拭きながら笑う。
 「50歳のころ、父が死んで、母とふたり暮らし。母が病気したあと、認知症がひどくなって、どこかに預けようかと思ったけど、可哀そうかなと思いつめて、わたし、郵便局の仕事をやめて、それからずうっと、介護、介護、介護の毎日。
 ひとりにすると、どこかへ歩いて行っちゃうし、火の心配とかもあるし、ずうっと介護。
 誰かが来てくれる日なんかあると、チャンスで、頼んで、自転車でここに来て、こうしてアイスを食べるのが、オーバーでなく、わたしの救い。
 わたしも、もう、そんなに生きていたくない」
 と女がウフッと笑う。私は女を見つめる。「もう、そんなに生きていたくない」と言って笑った女の声が心に残って、私はしばらく何も考えられないのだが、そのあと、その言葉の意味をいろいろに考えて、自分も生きているあいだは、なるべく明るくしていたいなあとか思うのだ。
 「ドキュメント72時間」を見たあと、私は心のなかで、取材場所を競馬場にして、「おれのドキュメント」を作っていることがある。
 私はカメラを、例えば私の家の近くの木工所で働き、住んでるアパートも私の家から近い、28歳の通称フクちゃん、福本信男にマイクを向ける。


 数年前のこと、居酒屋仲間の木工所を営む山田さんから、「地味な仕事も、ひとの嫌がる仕事も、フクちゃんは黙って一生懸命にやってくれる。でもフクちゃん、アパートに帰っても、ただ缶ビールをのむだけで、何の遊びもないのが気になるわけ。気の毒な身のうえで、孤独に慣れているんだろうけど、何かなあ、楽しみみたいなものを持ってほしいと、わたしは思うわけよ。どうしたらいいんかなあ」と相談を受けた。
 フクちゃんは神奈川県高座郡寒川町出身。10歳の時に両親が交通事故で死亡。養護施設で育ち、訓練所で木工を学び、二十歳の時に山田さんの木工所に雇われた。
 「競馬場へ誘ってみようか」
 と私が言い、そして誘うと、行ってみますとフクちゃんは返事した。
 その1年後、アパートのフクちゃんの部屋の壁に大きなパネルが掛けられ、フクちゃんの競馬の出発が記録されている。
 「2018年1月14日、中山競馬場。第58回京成杯。田辺裕信騎乗ジェネラーレウーノ(父スクリーンヒーロー、母シャンハイロック、母の父ロックオブジブラルタル)の、新聞から切り抜いたゴール写真と、1,000円買った単勝馬券のコピー、そしてジェネラーレウーノの、皐月賞とダービーと菊花賞のハズレ単勝馬券が、ひとつのパネルにおさまっているのだ」
 私は初めて競馬場へ来たひとには、1番人気の単勝を買いなさいと言う。京成杯のジェネラーレウーノも1番人気。配当は350円だった。1,000円が3,500円になる。こんなこと、めったにないこと。そのようにフクちゃんは感じたのだろう。
 私の「ドキュメント72時間」。取材場所はフクちゃんがよく行く東京競馬場のパドックの近くにしようか。
 「競馬の何に惹かれますか」と聞いてみようか。
 「そうですねえ。競走馬は強くても弱くても、とにかくゲートに入って、必死に走るしかない。ボクも強くないけど、毎日、必死で走ってます」
 とフクちゃんが言う。
 そう、これは私のフィクションで、その問いかけにフクちゃんが、どう返事するかは分からない。
 2024年3月31日の午後4時、スマホが鳴ってフクちゃんの声がした。
 「今、横浜のウインズにいます。うれしくて、うれしくてしょうがなくて電話しました。大阪杯、馬単、500円ですけど、当たったんです。それが、どうして買ったかというと」
 と言いかけてフクちゃんが黙った。
 「どうして買った?」
 と私は言うしかない。
 「昨夜、不思議な夢を見たんです。おれ、父親と母親と一緒にいるんですよね。で、ウインズへ歩きながらもそのことが頭に出てきて。
 両親が事故死したの、11月2日なんです。不思議な夢が出てきた記念に、⑪のベラジオオペラと②のローシャムパークの馬単を買ったんです。
 2番人気と3番人気なのに、3,720円もついて、これは父親と母親からのプレゼントだと思いました。
なんだか自分にも運があるなあって」
 そう言ってフクちゃんは黙った。どう応じていいのか分からなくて私も黙った。

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