烏森発牧場行き
第242便 昭和は遠くに
2015.02.16
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正月は親戚の人や友だちが来てくれたり、こちらから行くところもあって、ばたばたと日が過ぎる。おまけに2015年の幕開きは、5日と7日に心臓と大腸のことで病院にいなければならなかった。
かなり不安もあったのだが、おかげさまで心臓も大腸もセーフ。「おれ、しぶといなあ」と病院からの帰り道で思い、無事であることが不思議なトシになったと、あらためて感じた。
1月10日、土曜日になって、12日に成人式となる孫娘のさわぎのほかは、ようやく時間の流れが落ち着いた。
落ち着いたらゆっくり読もうと思っていたいくつかの手紙が机にあった。不思議なことはたくさんあるが、12月になって半ばをすぎたあたり、そして年の瀬に、長い手紙が届くのも不思議だなあと考える。誰もが師走は気ぜわしいはずなのに、動きを止めた晩など、流れ過ぎた時間とつきあい、それで手紙を書きたくなるのかもしれない。
「本当は今日は午後から、大井の東京大賞典(16時30分発走)に行って、昨日の有馬記念の無念を晴らそうと思っておりましたが、それよりも、自分でも心の動きがよくわからないのですが、自分と競馬のつきあいのことなど、書いてみることのほうが大事なことに思えました」
という書きだしの手紙は、東京の恵比寿に住み、ビルクリーニングの会社を営む藤素郎さんからである。1948(昭和23)年、大分県別府市出身だ。半年ほど前、社台グループの牧場ツアーの日の夕食会で同じテーブルになり、初対面の挨拶をし、名刺を交換した。
「競馬との出会いは、立命館大学に在学していた京都の下宿時代、西陣の真ん中、千本中立売に大学2年まで居まして、映画館が5、6軒、パチンコ店も近くにありました。
仕送り2万円、奨学金1万2千円では全く足りず、アルバイトの掛け持ち。京都五条小橋の料理旅館(弁慶楼)のフトンしき、配膳係と、週3日の競馬新聞の配達。これを3年生になってパチンコ屋のない右京区鳴滝に移ってからも続けました。(パチンコも結局、北野白梅町まで出かけて続けてましたが)。
競馬新聞は大阪の梅田地下から堂島地下を抜けたところの(競馬ニホン)で、当時は(ブック)と競争してました。金曜と土曜の新聞を新大阪から新幹線ひかりで名古屋へ運び、駅で待っている現地の人に半分を渡し、残りは名鉄で中京競馬場までの各駅売店へ届けるのが私の仕事でした。翌月曜日は週刊ニホンを同じルートで運びます。
予備で持っている見本分を自分で読み、知りあいの旅館の板前さんに渡すと喜んでくれまして、いろいろと教わって、祇園の場外で買ったり、淀の競馬場まで出かけたりしました。
これを卒業まで続け、いちどは就職でとぎれましたが、転勤で札幌に5年間(昭和56年1月から60年12月まで)いたとき、取引先に馬好きがいて感化され、東京に戻った昭和61年6月に、社台の当時の六本木の古びた事務所を、雨が降るなか、訪ねました。するとそこに吉田善哉さんと部下の人がいて、もう関東馬は全部売れて関西馬なら残ってると言われ、ビデオテープなど見せられ、ウェルネスの一口に出資しました。同期にサッカーボーイがいたかな。ウェルネスは平成元年の春、天皇賞に出走して、イナリワンの8着。京都まで見に行きました。
あれから30年ちかくが過ぎていると思うと、少し茫然としてしまいました」
読んで私は、「おれも京都でバーテン生活をしていたし、札幌で宝石会社の営業マンだった」と藤さんに伝えたくなった。
「久しぶりに雑誌(優駿)を買い、読みすすめると、吉川さんの文章で、なつかしい名前、田村正光を目にすることに。ウイニングスマイル、クールハート、ワールドタイカンなど、けっこう好きな馬に乗っていたなあ。中山ダートの1800㍍を三角からマクルのだけど、勝ち切れない不思議な騎手でした。ケープポイントの柏崎正次と同じく、ハイランド牧場の馬によく乗っていたっけ。若手の横山典と、どっちを買おうか、悩んでいたのがなつかしい」
という書きだしの手紙は、広島出身で東京の出版社勤務、45歳の道面和敬さんからである。数年前から競馬友だちだ。
「ジャパンCの日、府中はさすがに混んでいて、ビギナーや若い人たちも多く、久々に活気がありました。ブルボンやテイオーの時代に、ぼくらが興奮して見ていたものを、20代の人たちが感じてくれるのはうれしいものですね。
思えばジャパンCは、私が競馬を続けるきっかけとなったレースで、タマモクロスVSオグリキャップの年に勝ったのがペイザバトラー。この馬券を1,000円取って、払い戻しが9,800円。
天皇賞、菊花賞の負けが1万円だったので、残り200円を取り戻そうと、それまで人に頼んでいたGⅠのお遊び馬券が、後楽園へ、土曜日の平場へと、どっぷりハマるきっかけでした。
ジャパンCは相性がよく、ホーリックスもベタールースンアップもゴールデンフェザントも、馬券でいい思いをしています」
そのあと、エピファネイア、ジャスタウェイ、スピルバーグの3連単を的中させたことが書いてあるのだが、
「つい手紙を書きたくなったのは、ジャパンCの馬券を的中させたからではなく、高倉健さんに続いて菅原文太さんも、と不意に「昭和は遠くになりにけり、という思いがこみあげてきたからです」
としめくくってあった。
道面和敬さんの便りも、藤素郎さんの便りも、2014年12月に私の家に届いたほかの便りも、それらを集めてタイトルをつけるとすれば、「昭和は遠くになりにけり」だなあと私は思った。
2014年12月12日、私と30年の競馬仲間だった広田伸七さんが86歳で旅立った。その2日後の阪神ジュベナイルフィリーズに出走するロカの10分の1口馬主だった広田さんは、
「ロカの応援に阪神へ行きますがね、今、その前祝いで、いっぱいやって酔っぱらってます」
と旅立つ数日前に、八王子の家から私に、ガハハガハハと、元気な笑い声を聞かせ、勝ったらいつも会う秋葉原で祝勝会だと気勢をあげていた。
かなり不安もあったのだが、おかげさまで心臓も大腸もセーフ。「おれ、しぶといなあ」と病院からの帰り道で思い、無事であることが不思議なトシになったと、あらためて感じた。
1月10日、土曜日になって、12日に成人式となる孫娘のさわぎのほかは、ようやく時間の流れが落ち着いた。
落ち着いたらゆっくり読もうと思っていたいくつかの手紙が机にあった。不思議なことはたくさんあるが、12月になって半ばをすぎたあたり、そして年の瀬に、長い手紙が届くのも不思議だなあと考える。誰もが師走は気ぜわしいはずなのに、動きを止めた晩など、流れ過ぎた時間とつきあい、それで手紙を書きたくなるのかもしれない。
「本当は今日は午後から、大井の東京大賞典(16時30分発走)に行って、昨日の有馬記念の無念を晴らそうと思っておりましたが、それよりも、自分でも心の動きがよくわからないのですが、自分と競馬のつきあいのことなど、書いてみることのほうが大事なことに思えました」
という書きだしの手紙は、東京の恵比寿に住み、ビルクリーニングの会社を営む藤素郎さんからである。1948(昭和23)年、大分県別府市出身だ。半年ほど前、社台グループの牧場ツアーの日の夕食会で同じテーブルになり、初対面の挨拶をし、名刺を交換した。
「競馬との出会いは、立命館大学に在学していた京都の下宿時代、西陣の真ん中、千本中立売に大学2年まで居まして、映画館が5、6軒、パチンコ店も近くにありました。
仕送り2万円、奨学金1万2千円では全く足りず、アルバイトの掛け持ち。京都五条小橋の料理旅館(弁慶楼)のフトンしき、配膳係と、週3日の競馬新聞の配達。これを3年生になってパチンコ屋のない右京区鳴滝に移ってからも続けました。(パチンコも結局、北野白梅町まで出かけて続けてましたが)。
競馬新聞は大阪の梅田地下から堂島地下を抜けたところの(競馬ニホン)で、当時は(ブック)と競争してました。金曜と土曜の新聞を新大阪から新幹線ひかりで名古屋へ運び、駅で待っている現地の人に半分を渡し、残りは名鉄で中京競馬場までの各駅売店へ届けるのが私の仕事でした。翌月曜日は週刊ニホンを同じルートで運びます。
予備で持っている見本分を自分で読み、知りあいの旅館の板前さんに渡すと喜んでくれまして、いろいろと教わって、祇園の場外で買ったり、淀の競馬場まで出かけたりしました。
これを卒業まで続け、いちどは就職でとぎれましたが、転勤で札幌に5年間(昭和56年1月から60年12月まで)いたとき、取引先に馬好きがいて感化され、東京に戻った昭和61年6月に、社台の当時の六本木の古びた事務所を、雨が降るなか、訪ねました。するとそこに吉田善哉さんと部下の人がいて、もう関東馬は全部売れて関西馬なら残ってると言われ、ビデオテープなど見せられ、ウェルネスの一口に出資しました。同期にサッカーボーイがいたかな。ウェルネスは平成元年の春、天皇賞に出走して、イナリワンの8着。京都まで見に行きました。
あれから30年ちかくが過ぎていると思うと、少し茫然としてしまいました」
読んで私は、「おれも京都でバーテン生活をしていたし、札幌で宝石会社の営業マンだった」と藤さんに伝えたくなった。
「久しぶりに雑誌(優駿)を買い、読みすすめると、吉川さんの文章で、なつかしい名前、田村正光を目にすることに。ウイニングスマイル、クールハート、ワールドタイカンなど、けっこう好きな馬に乗っていたなあ。中山ダートの1800㍍を三角からマクルのだけど、勝ち切れない不思議な騎手でした。ケープポイントの柏崎正次と同じく、ハイランド牧場の馬によく乗っていたっけ。若手の横山典と、どっちを買おうか、悩んでいたのがなつかしい」
という書きだしの手紙は、広島出身で東京の出版社勤務、45歳の道面和敬さんからである。数年前から競馬友だちだ。
「ジャパンCの日、府中はさすがに混んでいて、ビギナーや若い人たちも多く、久々に活気がありました。ブルボンやテイオーの時代に、ぼくらが興奮して見ていたものを、20代の人たちが感じてくれるのはうれしいものですね。
思えばジャパンCは、私が競馬を続けるきっかけとなったレースで、タマモクロスVSオグリキャップの年に勝ったのがペイザバトラー。この馬券を1,000円取って、払い戻しが9,800円。
天皇賞、菊花賞の負けが1万円だったので、残り200円を取り戻そうと、それまで人に頼んでいたGⅠのお遊び馬券が、後楽園へ、土曜日の平場へと、どっぷりハマるきっかけでした。
ジャパンCは相性がよく、ホーリックスもベタールースンアップもゴールデンフェザントも、馬券でいい思いをしています」
そのあと、エピファネイア、ジャスタウェイ、スピルバーグの3連単を的中させたことが書いてあるのだが、
「つい手紙を書きたくなったのは、ジャパンCの馬券を的中させたからではなく、高倉健さんに続いて菅原文太さんも、と不意に「昭和は遠くになりにけり、という思いがこみあげてきたからです」
としめくくってあった。
道面和敬さんの便りも、藤素郎さんの便りも、2014年12月に私の家に届いたほかの便りも、それらを集めてタイトルをつけるとすれば、「昭和は遠くになりにけり」だなあと私は思った。
2014年12月12日、私と30年の競馬仲間だった広田伸七さんが86歳で旅立った。その2日後の阪神ジュベナイルフィリーズに出走するロカの10分の1口馬主だった広田さんは、
「ロカの応援に阪神へ行きますがね、今、その前祝いで、いっぱいやって酔っぱらってます」
と旅立つ数日前に、八王子の家から私に、ガハハガハハと、元気な笑い声を聞かせ、勝ったらいつも会う秋葉原で祝勝会だと気勢をあげていた。