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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第262 ありがとう

 2年前の夏の日の夕方のこと、鎌倉市大船の大型スーパーマーケットに隣接する回転寿し店で、テーブル席にいた時枝さんと目が合って私は面食らった。時枝さんといっしょにマスダさんがいたからである。

 大船の町はずれに、私の長女の友だちのメグさんが営む小さなバーがあり、もう10年になるだろうか、ふた月に一度くらい、私は客になる。そこで何度か、常連客の時枝さんと会っているのだ。
 時枝さんは横浜にある大きな病院のベテラン看護師だ。結婚して数年後に夫と死別し、男の子と女の子の二人を、女手ひとつで育ててきたと、本人ではなく、メグさんから私は聞いた。
 自分のことは語らない静かで明るい時枝さんが、外は土砂降りだったか、店にメグさんと私と三人しかいなかった晩のこと、
 「わたし、お酒が好きで救われてきたの。仕事して疲れても、お酒が待っていてくれるって思うわけ。もう嫌だ、なにかも嫌だって、自分を捨てそうに何度もなったけど、お酒のんで眠って、嫌なことを忘れた」
 とひとりごとのように語ったのを私はおぼえている。
 その時枝さんが回転寿し店で、
 「父です」
 とマスダさんのことを言い、
 「嘘だろう」と私はびっくりして笑った。
 ウインズ横浜に近いコーヒーショップのカウンターで、土曜か日曜の朝、並んで競馬予想紙を読んでいるのがマスダさんで、店のマスターが「マスダさん」と呼ぶから、私も「マスダさん」と話しかけているのだ。べつにつきあいがあるわけではないけれど、ずいぶん長い月日、私とマスダさんは同じ店のコーヒーをのんでいる。
 どうして時枝さんとマスダさんが親子なのだ。
 なんだか変で、おかしくて、ボーゼンとしてしまった私に、
 「大穴馬券みたいだな」
 とマスダさんが笑ってつぶやいた。
 その席にはどちらも高校生だという時枝さんの二人の子がいて、私の席にはどちらも大学生の孫娘と孫息子がいた。
 去年7月、マスダさんが死んだ。七十四歳だった。メグさんから電話が来て通夜へ行き、マスダさんは深夜に心筋梗塞に襲われ、不運にも同居していた時枝さんは仕事で夜勤、孫たちはキャンプへ行っていて不在だったのを知った。
 「亡くなる前の日にはいていたズボンのポケットに入っていたですって」
 とメグさんが、時枝さんから渡されたという馬券を私に見せた。馬券は3枚あって、七夕賞のグランデッツアの単勝、プロキオンSのベストウォーリアの単勝、マリーンSのソロルの単勝を各500円買っている。
 調べてみるとマスダさんは2015年7月12日、福島と中京と函館のメーンレースの単勝を、すべて的中させていたのだ。さらに調べてみるとグランデッツアが4.5倍、ベストウォーリアが6.7倍、ソロルが6.3倍だった。
 マスダさんは酒をのまないので、7月12日、ウインズからコーヒーショップに行き、コーヒーをのみながら単勝の三つの的中に乾杯をし、大船の家に帰って、そうしてひとりで静かに夜を過ごし、三つのメーンの単勝を当てたのはうれしいと眠りにつき、人生にさようならをしたのだなと私は勝手に思った。

 2016年7月10日、横浜市戸塚の寺でマスダさんの一年忌をした。日曜日でメグさんの店は休みだったけれど、ゆっくりマスダさんの話をしようよと、時枝さん、私、植木屋だったマスダさんの仕事仲間だった人、マスダさんが通ったコーヒーショップのマスターのために店をあけた。
 「母さんが死んだの、父さんが還暦の年だった。それまでも競馬はやっていたけど、母さんがいなくなってからの父さんは競馬だけ。競馬をやることだけが父さんの生活だったなあ。
 六十三歳ぐらいまでは、まるで若いときのように仕事していた。六十五歳のときに病気して、もう引退してと言ったんだけど、おれから仕事を取ったらカラッポだって、無理して働いてた。
 それって、競馬をやりたいという、そのことなのよ。おれから競馬を取ったらカラッポだっていうことなのよ。
 部屋に閉じこもって、失語症になって、競馬の新聞を読んでた。競馬やるために生きてるなんてバカみたい。そうわたしが言ったの。父さん、聞こえないふりをしてた」
 そんなふうに時枝さんが言い、献杯をした。
 「いちど、時枝さんに、ウインズ横浜ってとこに行ってほしいな。で、行っただけじゃどうにもならないから、馬券を買って何時間か、そこで時間をつぶしてもらいたい。
 まぁ、8Rから12Rまでの5つのレースの、1番人気の馬の単勝を200円ずつでも買ってもらって、それでマスダさんの供養にしてほしいなって、おれはそんなことを考えるんですよ」
 ひとことずつスピーチをというので、そう私は言った。

 8月21日の日暮れどき、
 「メグさんに番号を聞きました」
 と時枝さんがケイタイしてきて、
 「今日、ウインズへ行ったんです。行ったら新潟の第7Rの前で、案内係の人に1番人気の単勝の買い方を聞いて、200円買ったら当たっちゃいました。それで新潟の12Rまで、同じように買ったら、8Rと11Rはダメで、ほかは当たりました。
 ちがうんです。馬券のことじゃないんです。わたしは競馬をやりにきている人たちを、ずうっと見ていたの。
 老人が多くて、ここにいる人、みんな、ひとりになったら、とても孤独なんだろうなって思ったんです。
 うちの父も、ここでこうして、土曜日と日曜日を過ごしていたんだと思ったら、なんだか胸がいっぱいになって、父さんに助けてもらったこともたくさんあったし、ありがとうって、父さんに頭を下げてました。ありがとうです」
 ひとことずつ噛みしめるように言うのである。私もちょっと緊張して、その声を聞いていた。