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第279便 恋の12着

2018.03.12
 寒い朝、家から徒歩で20分ほどの病院へ、9時に予約の健康診断へ歩いている途中、通りかかりの小さな公園に目が行った。砂場で2歳ぐらいの男の子が遊び、砂場のへりに腰をおろした母親だろう若い女がぼんやりしている。
 その近くで、毛糸の帽子をかぶった老人がスローモーションのように身体を動かし、その周囲をまわるように老婆が、小さなベビーカーのようなものにつかまって、ゆっくりゆっくりと歩く。
 私は少し立ち止まって、その小さな公園の光景をひとつの絵のように眺め、砂場にいる男の子が、これから幼稚園へ、小学校へ、中学校へ、高校へ、大学へ行き、それから社会へ出て行くんだよなあと、そんなふうに感じ、つきそっている若い女も、だんだんと変わっていくんだよなあとか思った。
 公園を離れかけて、どうにか両腕を空へと伸ばした老人の顔を見た私は、ドキッとして立ち去りながら、「ムラさん」と心の奥で言っていた。その老人の細長い顔の目鼻立ちが、びっくりするほどに競馬友だちに似ていたのだ。
 肺のレントゲン室から声がかかるのを待ちながら私は、「恋の3着は一生の思い出だなあ」とムラさんが言ったのを思い浮かべ、それはムラさんが死ぬ数日前に、病室のベッドで言ったのだったと意識をした。
 健康診断の帰り、病院の近くの珈琲店に私が座ったのは、ムラさんの言った「恋の3着」を考えたいという気持ちもあった。それは数日後のクイーンCに出走するツヅミモンに関係していたからだ。

 もう2年ほどが過ぎているのだが、元銀行員のムラさんが杉並の病院のベッドで、息子に調べさせたというメモを手に、私に一生懸命に、声をしぼりだすように伝えたのを私は忘れていない。
 2007年4月のこと、ムラさんが40分の1口馬主だったフローラルカーヴが桜花賞出走となり、ムラさんの親友で、横浜でコーヒーショップを営むヤマさんと私の3人で阪神競馬場へ行ったのだった。そのときのことをムラさんは、息子に頼んで、いろいろと記録をメモにしたというわけである。
 1着が安藤勝己騎乗のダイワスカーレット、2着が四位洋文騎乗のウオッカ、3着が藤田伸二騎乗のカタマチボタンだった。
 むろんムラさんはフローラルカーヴが18頭立て15番人気でも単勝を買っていて、11着でも桜花賞出走ということで満足だったわけだが、ヤマさんと私をおどろかせたのは、7番人気カタマチボタンの複勝510円を3,000円、買っていたからだ。
 どうしてカタマチボタンの複勝を3,000円も買ったのか不思議なヤマさんと私は、
 「カタマチボタンはアンカツに惚れていて、必死に追いかけたのよ。恋の3着」
 とムラさんの返事を聞き、ヤマさんと私のあいだでは、ムラさんの神話として、「恋の3着」は碑のように刻まれた。
 カタマチボタンは桜花賞の前走、2月のクイーンCで2着だった。そのときに騎乗していたのがアンカツで、ダイワスカーレットを手離さないアンカツを、藤田伸二を乗せながら、必死に追いかけたというのが、文学青年でありながら銀行員を定年まで勤めたムラさんの、「競馬はロマン」をテーマにした夢想だった。
 それをムラさんは、ほとんど骨ばかりになった体力で、遺言のように私の耳に伝えたのだ。
 私は健康診断から家へ戻らず、もうすぐ古希ながらカウンターの奥ではたらくヤマさんのコーヒーショップへ、ムラさんの「恋の3着」の話をしに行った。
 カタマチボタンはツヅミモンの母である。ムラさんを偲んでツヅミモンの複勝で勝負と、私は予想紙「日刊競馬」のコラムに書き、父と同じく銀行員なった息子の哲人さんに知らせると、
 「父からも、その馬の馬券を買ってくれって、電話がかかるかもしれないですね」
 と哲人さんが言った。哲人さんは病気で衰えた父親のつきそいで何度か競馬場へ行ったようだが、競馬に特別な思いはないようである。
 2018年2月12日、私はウインズへ行くヤマさんにツヅミモンの単勝馬券を電話で頼み、仙台市のホテルでの、親戚の娘の結婚式に出かけていて、披露宴とクイーンCの出走と時間がかさなっていて、あとでビデオを見ることにした。
 マナーモードにしていたケイタイがズボンのポケットでふるえている。時計を見て、たぶんヤマさんがメールをくれたのだろうと思ったが、がまんをして見ないことにした。
 「ツヅミモン、2番人気の5倍。4角で好位置なれど、直線全くのびずに12着。1着テトラドラクマ、2着フィニフティ、3着アルーシャ。2.4倍のマウレアは5着。マウレアから買っていたオレ、バカモン」
 というヤマさんからのメールを見たのは披露宴のあとだった。
 夜、仙台駅にいた私のケイタイが鳴った。哲人さんからで
 「今朝、考えたんです。これは競馬場へ行って、ツヅミモンという馬を応援するべきじゃなかろうかって。なんだか、それが、父親の供養としては最高のことなんじゃないかって」
 と言うのだった。
 「行ったの?府中に」
 「ハイ、行きました。電車のなかで、恋の3着の話をしながら酒をのんでいる父を思いだして、ほんとうに父は競馬が好きだったなあと」
 「今、仙台にいて、家に帰ってからビデオを見るけど、ツヅミモン、ダメなレースだったとか」
 「人気があって、2番人気で500円でした。なので複勝でなくて、単勝を3,000円買ってましたけど、まあ、その馬券は仏壇に供えて、きっと父も笑ってくれたでしょう」
 「いやあ、哲人さんが競馬場へ行ってくれたので、ムラさんもだけど、ぼくもうれしいです」
 「12着はひどいですけどね」
 「恋の3着は話になるけど、恋の12着は話にならないなあ」
 「でも、ぼくにとって、いい日になりました。うれしかったです、12着でも」
 と言う哲人さんの声は明るかった。
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