烏森発牧場行き
第285便 札幌開幕
2018.09.12
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札幌に佐藤行夫という友だちがいた。2014年10月に、突然のように病魔に襲われ、62歳で旅立ってしまったのだが、それから夏が来て、競馬が函館から札幌に移ると、よく私は佐藤行夫の影とビールをのんでいる。
佐藤行夫は青森県上北郡の生まれ。中学を卒業して姉の嫁ぎ先の札幌に来て大工になった。
「おれはよ、ガクはネエけどウデがアル」
というのが佐藤行夫のコマーシャルだ。
横山典弘のタスカータソルテが、前年のグランプリホースで蛯名正義のマツリダゴッホを差し切った札幌記念の日の札幌競馬場で、私と佐藤行夫は食堂で顔が合い、奇声をあげて握手をした。
その前夜、ススキノの酒場で他人どおし、酔っぱらって冗談をとばしあった。それが一夜あけて、競馬場でバッタリだったのである。どうしたってその日、競馬場から一緒にススキノへ向かわねばならない。2008年のことだった。
なんだか気が合った。それから毎年のように、私は札幌へ行くと佐藤行夫と酔っぱらった。
2015年の夏、佐藤行夫の家へ線香をあげに行くと、ひとり息子の正之がいた。札幌の大学を出たばかり。就職はしないで、配送会社でバイトしながら、絵を描き続けるのだという。画家志望なのだ。
「ぼくは親父が38歳のときの子なんです。結婚して10年目にやっとできた。だから甘やかされただろうって、よく言われるんだけど、おれは職人だからなって、親父、きびしかったです。
絵じゃ食えないって誰もが言うけど、親父はね、絵で食ってみせろって。おまえが他人より得意なのは絵しかないんだから、イノチガケでがんばれって。そう言ってくれる親父、ありがたかったです。
去年の夏、競馬に興味のないぼくに、競馬場へついてこいってキカないんです。おれは競馬場にいるときが、最高に幸せなんだ。自分の父親が最高に幸せだと思っている所が、どういう所か、ちゃんと見ておいてほしいんだ。そう言うんです。
親父のリクツ、合ってる、とぼくは思いました。それで行ったんです。札幌記念というレースの日で、ゴールドシップという人気馬が、ハープスターに負けました。
親父、ホエールキャプチャの複勝を当てて得意でした。配当が690円で、それを3,000円買ってたんです。どうしてあまり人気のないホエールキャプチャを買ったのかと聞いたら、乗った蛯名騎手は、札幌の大工の子だとか言って」
そのときの正之くんの話を私が忘れないのは、自分が最高に幸せだと感じている場所を、息子に見ておいてほしいと願う佐藤行夫の思いに感動したからである。
ゴールドシップやハープスターやホエールキャプチャのレースを見て、正之くんも競馬が好きになってしまい、札幌に競馬が来るのが待ちどおしくなった。2016年のネオリアリズムがモリースを破った札幌記念のときも、2017年のサクラアンプルールが勝った札幌記念のときも、正之くんは観戦記のような手紙をおくってきてくれ、
「親父がホエールキャプチャの蛯名騎手が札幌の大工の息子だと買って馬券を当てたことを思いだし、蛯名騎手のサクラアンプルールの単複を千円づつ買ったら、単勝が1,990円、複勝が430円。うれしくてふるえて、空を見上げて親父に報告しました」
と書いてあった。
災害的な暑さ、危険な暑さと、しきりにテレビから聞こえてくる2018年8月、正之くんから手紙がきた。
「7月27日、金曜日の夜、仕事の帰りに競馬新聞を買い、それを家の食卓に置いて、明日、2018年の札幌競馬の開幕だと思い、さっぽろけいば、とひとりごとを言って、缶ビールで乾杯をしました。
するとおふくろが、あら、父さんと同じことをする、と笑いました。親父も札幌競馬の開幕前夜に、ひとりで、ぼくと同じようなことをしたというのです。その気持ちは、札幌で暮らしている競馬好きにしか分からないと父さんが言ってたと、おふくろが言いました。
開幕初日はバイトが休みでなくて競馬場へ行けなかったのですが、いつも親父が読んでいた競馬新聞は買っておいて、仏壇に供えました。なんでおれは死んじゃったんだって、父さん、怒ってるね、とおふくろが言いました。
開幕2日目、競馬場へ着くと第3Rで、ルメールの馬が勝ちました。第4Rのパドックで、うしろから、昨日はルメールが3勝、モレイラが3勝、1日12レースのうちの半分をふたりで勝っちゃったわけだ。ルメールとモレイラの、ルメモレまつりだな、と聞こえてきました。
ぼくはそのとき、そのルメールとモレイラの、ルメモレまつりをやってみようかと思いました。つまり、何も考えずに、ルメールとモレイラの単勝を千円ずつ買って、このふたりの騎手をじっと見ていようかと。
それで第4Rから最終レースまで、ルメモレまつりをしました。するとそれから、ルメールが3勝、モレイラが4勝しました。なんだかおもしろいのか悲しいのか、変な一日になりましたけど、たぶんルメモレまつりは、ぼくの思い出になるでしょう。
家に帰る途中のコーヒーショップで計算してみると、1万8千円使って、払い戻しが1万9千4百円。これは笑えました。
そこでふと、思いついたことがあります。今月から月に1万円ずつ積み立てして、来年は日本ダービーを見に行こう、と思ったのです。
親父はいちどは必ずダービーを見に行くぞと夢を持ちながら、見ずに死んでしまいましたので、ぜひぼくが、親父の夢を叶えてやろうと思ったのです。
ルメールもモレイラも、まさかそんな奴が、札幌競馬場で自分たちのレースを見ているなんて想像もしないでしょうね。
札幌へ来るようであれば、必ず連絡をしてください。待っています」
と読みながら私は、手紙の返事に、競馬場にいる佐藤行夫を絵に描いてほしいと書こうと思い、ひと息ついて、札幌に行きたいなあと思った。
佐藤行夫は青森県上北郡の生まれ。中学を卒業して姉の嫁ぎ先の札幌に来て大工になった。
「おれはよ、ガクはネエけどウデがアル」
というのが佐藤行夫のコマーシャルだ。
横山典弘のタスカータソルテが、前年のグランプリホースで蛯名正義のマツリダゴッホを差し切った札幌記念の日の札幌競馬場で、私と佐藤行夫は食堂で顔が合い、奇声をあげて握手をした。
その前夜、ススキノの酒場で他人どおし、酔っぱらって冗談をとばしあった。それが一夜あけて、競馬場でバッタリだったのである。どうしたってその日、競馬場から一緒にススキノへ向かわねばならない。2008年のことだった。
なんだか気が合った。それから毎年のように、私は札幌へ行くと佐藤行夫と酔っぱらった。
2015年の夏、佐藤行夫の家へ線香をあげに行くと、ひとり息子の正之がいた。札幌の大学を出たばかり。就職はしないで、配送会社でバイトしながら、絵を描き続けるのだという。画家志望なのだ。
「ぼくは親父が38歳のときの子なんです。結婚して10年目にやっとできた。だから甘やかされただろうって、よく言われるんだけど、おれは職人だからなって、親父、きびしかったです。
絵じゃ食えないって誰もが言うけど、親父はね、絵で食ってみせろって。おまえが他人より得意なのは絵しかないんだから、イノチガケでがんばれって。そう言ってくれる親父、ありがたかったです。
去年の夏、競馬に興味のないぼくに、競馬場へついてこいってキカないんです。おれは競馬場にいるときが、最高に幸せなんだ。自分の父親が最高に幸せだと思っている所が、どういう所か、ちゃんと見ておいてほしいんだ。そう言うんです。
親父のリクツ、合ってる、とぼくは思いました。それで行ったんです。札幌記念というレースの日で、ゴールドシップという人気馬が、ハープスターに負けました。
親父、ホエールキャプチャの複勝を当てて得意でした。配当が690円で、それを3,000円買ってたんです。どうしてあまり人気のないホエールキャプチャを買ったのかと聞いたら、乗った蛯名騎手は、札幌の大工の子だとか言って」
そのときの正之くんの話を私が忘れないのは、自分が最高に幸せだと感じている場所を、息子に見ておいてほしいと願う佐藤行夫の思いに感動したからである。
ゴールドシップやハープスターやホエールキャプチャのレースを見て、正之くんも競馬が好きになってしまい、札幌に競馬が来るのが待ちどおしくなった。2016年のネオリアリズムがモリースを破った札幌記念のときも、2017年のサクラアンプルールが勝った札幌記念のときも、正之くんは観戦記のような手紙をおくってきてくれ、
「親父がホエールキャプチャの蛯名騎手が札幌の大工の息子だと買って馬券を当てたことを思いだし、蛯名騎手のサクラアンプルールの単複を千円づつ買ったら、単勝が1,990円、複勝が430円。うれしくてふるえて、空を見上げて親父に報告しました」
と書いてあった。
災害的な暑さ、危険な暑さと、しきりにテレビから聞こえてくる2018年8月、正之くんから手紙がきた。
「7月27日、金曜日の夜、仕事の帰りに競馬新聞を買い、それを家の食卓に置いて、明日、2018年の札幌競馬の開幕だと思い、さっぽろけいば、とひとりごとを言って、缶ビールで乾杯をしました。
するとおふくろが、あら、父さんと同じことをする、と笑いました。親父も札幌競馬の開幕前夜に、ひとりで、ぼくと同じようなことをしたというのです。その気持ちは、札幌で暮らしている競馬好きにしか分からないと父さんが言ってたと、おふくろが言いました。
開幕初日はバイトが休みでなくて競馬場へ行けなかったのですが、いつも親父が読んでいた競馬新聞は買っておいて、仏壇に供えました。なんでおれは死んじゃったんだって、父さん、怒ってるね、とおふくろが言いました。
開幕2日目、競馬場へ着くと第3Rで、ルメールの馬が勝ちました。第4Rのパドックで、うしろから、昨日はルメールが3勝、モレイラが3勝、1日12レースのうちの半分をふたりで勝っちゃったわけだ。ルメールとモレイラの、ルメモレまつりだな、と聞こえてきました。
ぼくはそのとき、そのルメールとモレイラの、ルメモレまつりをやってみようかと思いました。つまり、何も考えずに、ルメールとモレイラの単勝を千円ずつ買って、このふたりの騎手をじっと見ていようかと。
それで第4Rから最終レースまで、ルメモレまつりをしました。するとそれから、ルメールが3勝、モレイラが4勝しました。なんだかおもしろいのか悲しいのか、変な一日になりましたけど、たぶんルメモレまつりは、ぼくの思い出になるでしょう。
家に帰る途中のコーヒーショップで計算してみると、1万8千円使って、払い戻しが1万9千4百円。これは笑えました。
そこでふと、思いついたことがあります。今月から月に1万円ずつ積み立てして、来年は日本ダービーを見に行こう、と思ったのです。
親父はいちどは必ずダービーを見に行くぞと夢を持ちながら、見ずに死んでしまいましたので、ぜひぼくが、親父の夢を叶えてやろうと思ったのです。
ルメールもモレイラも、まさかそんな奴が、札幌競馬場で自分たちのレースを見ているなんて想像もしないでしょうね。
札幌へ来るようであれば、必ず連絡をしてください。待っています」
と読みながら私は、手紙の返事に、競馬場にいる佐藤行夫を絵に描いてほしいと書こうと思い、ひと息ついて、札幌に行きたいなあと思った。