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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第312便 サラ系セイシュン

 コロナ禍の年の8月、家のなかで激しく転倒。左手首を粉砕骨折して10日間の入院をした私は、11月になってもリハビリで週に2日の通院をし、ほかにも月に一度の循環器科の診察もあるので、病院にいる時間が多い。

 病院でのさまざまな情景を目にしながら、
 「この人、たぶん、営業で」
 とたいていは紺系統の背広を着て、重そうなカバンをさげて歩いている硬い表情の人を見かけると、その人に私は注目してしまうのだ。
 私は30歳代から40歳代はじめにかけての10年間、医薬品と医療器具を扱う問屋の営業マンで、ほとんどの日、病院との取引で一喜一憂していたのだった。病院経営陣や部長医師や看護婦長たちとのつながりの苦労。いわば、わが戦いの日日。
 その戦略の、武器のひとつが、私の場合、競馬だった。それとなく競馬の話をし、医師が少しでも競馬に気を向けてくれればシメタモノ。人間関係へのきっかけになった。
 「あの先生、じつは競馬好き」
 などと教えてくれる看護師は天使である。「あの先生」の酒場呼びだしに成功し、いっしょに競馬場へ行って親しくなり、その先生の紹介で取引先を作ったりもする。けっこう競馬好きの医師はあちこちにいて、それを私は営業に利用した。
 ふりかえってみて私は、自分の人生においての、「つらい10年」だったと思う。なにせ休日も医師とのゴルフ、休日も医師との酒場づきあいで、重労働だった。その10年、私を励まし、なぐさめてくれたのが競馬だ。取引での武器として大いに利用したわけだが、ときどきは競馬場にひとりでいて、パドックの馬、レースでたたかう馬を見つめ、競馬場の空を眺めて、深呼吸をした。
 深呼吸するのが、人生の救いである。深呼吸をしなければ、生きていけない。
 そうした営業マン時代に、友情を深く感じた1頭の馬がいる。1971(昭和46)年のダービー馬のヒカルイマイだ。
 2020年11月、病院の予約票に83歳9か月と書かれた私は、病院から帰って、1971年の「私のノート」を、「ヒカルイマイ」と心で何度か言いながらめくった。めくりながら、1971年、昭和46年は三女が4月26日に生まれた年だなあと思う。その三女も49歳になったよなあ。

 「私のノート」の「1971年6月13日」を読む。第38回日本ダービーに、私はふたりの医師と、製薬会社の部長と、私立大薬学部教授との5人で府中へ出かけている。
 「心ひそかにおれは、ヒカルイマイの母サラ系セイシュンに惹かれて、皐月賞に続いて単勝を狙うと決めている。おれは自分の母親に悪いなあと思いながら、自分もサラ系の出身だという気があるのだ。
 おれは毎日、医師を相手にした仕事をしている。医師は人間としての、社会の中でのエリート意識を持っているのが自然だろう。そのエリート意識にたいして、劣等感を持つ必要はないが、何かに圧倒されているという意識は、自分から消えようとはしない。
 サラ系に親しみを感じ、しかもセイシュンという名に、なんだか自分の人生を感じてしまう。
 ヒカルイマイの単勝を買った。みんなにその感情的なワケは言わずに。
 4コーナーをまわって、28頭のほとんど最後方近くにいたヒカルイマイが大外に出て、ダービー初騎乗、23歳の田島良保のムチに応え、馬群の全部を抜き去るのを、14万人の観衆に見せつけた。おれ、涙をこぼしてしまった。その涙を見られたくなくて、同行者たちには分からないようにしたけれど。2番人気。単勝590円」
 と書いてある。
 「ヒカルイマイ」
 と心ではっきり言ってみる。母の「サラ系」が弱みで、2歳のときに売値は200万円ぐらいの評価。肋骨にヒビでもあるような小さなヘコミもあり、50万円まけろよという商談。勝ったら返せの商談まとまり、デビュー勝ちしたので、値引きの50万円は返ってきた。

 ダービー勝利で神話が生まれた。第1回日本ダービーの勝者はワカタカ。その母の種信はサラ系だ。1899年にオーストラリアから輸入されたサラ系の繁殖牝馬ミラの系列だ。
 ヒカルイマイがサラ系母の2頭目ダービー馬。1974(昭和49)年、サラ系でも8代にわたりサラブレッドと交配して生まれたものは、サラブレッドと認められることになった。
 ダービー後のヒカルイマイは夏の札幌でオープン3着のあと、削蹄ミスからか体調を崩し、京都新聞杯9着、菊花賞は断念し、屈腱炎を発症、引退に追いこまれ、北海道新冠郡新冠町の大栄牧場で種牡馬として供用された。
 私は1979(昭和54)年から競馬のことを文章にして生活するようになり、北海道の牧場を取材することになったので、先ずはヒカルイマイに会おうと大栄牧場を訪ねたのだったが、1978(昭和53)年10月にヒカルイマイは、鹿児島県曾於郡大崎町野方の服部文男牧場へ移っていた。
 サラ系セイシュンの子のダービー馬ヒカルイマイに会いたい。会わなければ気が済まない。
 でも鹿児島に行くの、カネかかるなあ。鹿児島への取材仕事が来ないかなあ。そんな気分の日日、1981(昭和56)年2月の目黒記念で、1着キタノリキオー、2着ファーストアモンの枠連1万2,790円を500円持っていたというマグレ当たり。春になって、国道269号線の近くの服部牧場でヒカルイマイに会うという目的を果たした。
 どんどんどんどん日が過ぎる。私はダービーの記録のヒカルイマイと一緒の、2着藤本勝彦のハーバーローヤル、3着松本善登のフィドール、4着安藤正敏のスインホウシュウ、5着吉永正人のゼンマツ、6着加賀武見のベルワイドと活字を追い、どんどんどんどん日が過ぎるけれども、言わせてもらえれば、1971(昭和46)年6月13日に、入場者13万6,839人の東京競馬場で、そのうちのひとりとして、息をのみ、胸を騒がせ、叫んでいた時間は、消えずにいるのが私の幸せだ。
 「サラ系セイシュンだなんて、なんだかおれの別名みたいな気がして、それで単勝を買うようになったのさ」と鹿児島の空の下で、ヒカルイマイにに言ったのを、今でも私は忘れないでいる。