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第183便 夢のような日

2010.04.06
 「マイコ。カネトシマイコ」
 ウインズ横浜3階の人ごみのなかで,声を出さずに私はつぶやいた。京都の第6R新馬戦,16頭のなかに,カネトシマイコサンという3歳牝馬がいる。2010年1月30日のことだ。
 予想のシルシがまるで付いていない。でも,100円だけでも買おうかなと思ったのは,3人いる私の娘のまんなかの名がマイコだからだ。
 単勝馬券には名前が入る。ジョークで渡そうか。車の運転をするので,ハズレ馬券が,アタラナイというお守りにもなるし。狙いの馬単を買い,べつにカネトシマイコサンの単を100円買い,テレビのレースを見上げた。いつもどおりに狙いはハズれて,「クソッ」なのだが,「アリャ!」,私はたまげた。勝ったのが,渡辺騎乗のカネトシマイコサンなのだ。

 「ナンダコリャ」たまげて,呆れて,ヘソが笑った。単勝の配当が1万4630円。どうしておれは500円でも,せめて200円でも買っておかなかったのか。間違いだらけの人生なのに,そういう間違いだけは,間違いなくしないんだよなあ。

 私は少しなさけなかったが,娘に粋なプレゼントが手に入ったものだと,10秒ほど目をつぶって何かに感謝した。そのときである。私の目の前にひょろりと背の高い若者がいて,「あのう,あのう」と言葉が続かずに,ぴょこんとお辞儀をした。

 お辞儀を返して,
 「ごめん。わからない」私は笑みを浮かべるしかなかった。
 「あのう,ぼく,2年前まで」その次に若者が横浜市にある孤児院の名を言ったので私はうなずき,人のいない窓ぎわへ行こうと手で言った。

 「ヒカルイマイの話,おぼえてますか?」窓ぎわで若者が言い,
 「ヒカルイマイの話?忘れてる」と私は言った。
 「ぼくは,そのときの話を聞いてから,ヒカルイマイが頭に入ったんです。競馬のことはなんにも知らなかったけど,ヒカルイマイ,ヒカルイマイって,何かあると,頭に浮かべて,がんばれました。ヒカルイマイって,ぼくにとっての,おまじないみたいなものになって,ヒカルイマイって,心のなかで言ってみると,なんだか元気が出てくるんです」

 「どんな話をしたのかなあ?」
 「生まれがよくなくて,骨がへこんでいて,安くて,バカにされて,性格が素直でなかったのに,ダービーを勝ったという話です。それで,お母さんが,純粋なサラブレッドでなくて,名前がセイシュンというのがすばらしくて,ダービーを勝ったときはうれしくてたまらなかったという話です」

 「いやあ,ヒカルイマイ」うれしくて私は若者に握手を求めた。
 競馬好きな孤児院の職員がいて,そのAさんが伊勢佐木町の酒場で,「うちの子供たちを笑わせにきてくれませんか。子供たちといっても,もうハタチってのもいるんだけど」そんなふうに私に言ったのは10年ほど昔である。
 それから1年に2度くらい,とにかく話で笑わせるのを目的にして,私は孤児院へ行っているのだ。ギャラは,その行った日に,孤児院院長夫妻がごちそうをしてくれる,横浜元町でのフランス料理だ。

 ちょっと馬券は休憩と,私は若者とコーヒーショップへ行った。
 「ヒカルイマイの話ともうひとつ,ぼくがおぼえているのは,一所懸命に仕事をして,馬券ぐらい買う楽しみを持てなかったらダメだっていう話です」
 「青年部相手の話だな。そんな話をしてるのかね,おれ。とんでもないことを言ってるなあ」

 「ぼくには,すごい刺激的な話で,いつかお金を稼げるようになったら,ぜったいに馬券を買ってやろうと思ったんです」
 「とんでもない話だ」
 「そう言ってた人もいました」若者が笑った。
 「それで塗装会社から話があって,寮に入らせてもらって,初めて給料をもらったあとの土曜日に,ウインズへ来たんです。受付みたいなところの女の人にマークシートの買い方を教えてもらって,初めて買ったのが,函館競馬場の大森浜特別というので,ビギナーズラック。クサタロウとスズカライアンの馬連で2660円。それが500円,当たってた。忘れないようにおぼえました。」

 若者の話を聞きながら私は,夢のような話だなあと思い,カネトシマイコサンの単勝といい ヒカルイマイの話といい,今日は夢みたいなことが,いっぺんに二つも起きたなあと,雲の上にいる気分だった。

 私と若者はウインズへ戻った。
 「今日,1頭,どうしても買いたい馬がいるんですよ。間にあいました」と若者は中京第9R,4歳上500万下のダート1700メートル,16頭立てのレースを見あげた。
 「よしっ,よしっ,差せ。差せ,差せ」小声だけれども,若者の声は迫力があった。この人,どんな事情があって孤児院にいたのだろう。それにしても,ヒカルイマイが頭に染みこみ,ぜったいに馬券を買ってやろうだなんて,そんなふうに聞いてくれた奴がいたのだと,やはり今日は夢の日と感じている私の肩を,ポン,と若者が叩いた。若者の馬券が当たったのだった。

 「ヨクバリ,買ったの?」
 「ハイ。ヨクバリの単勝を取りたかったんです。会社の先輩にも,つきあっている彼女にも,もっと欲張りになれみたいなこと言われるんだけど,なれそうにもなくて,だから馬券でヨクバリを買って当てたかった」
 「男はヨクバリでなくちゃダメなのかなあ」
 「どうなんですか」
 「わかりません。ビール,のみましょう」私はジョッキを手にした仕ぐさをして笑った。

JBBA NEWS 2010年3月号より転載
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