烏森発牧場行き
第184便 船橋の酒
2010.04.13
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もう40年近く昔のことだが,薬品会社に勤務していた私は,秋田市の大きな病院の院長に,とてもよくしてもらった。
そのころに中学生だった院長の三男坊が,私の家に近いホテルでの結婚式に出るとか,ひょいと電話してきて,式の翌日に顔を見せ,酔っぱらってしまって私の家に泊まった。野猿のようだった少年が,初老の白髪男になっている。
「兄貴がふたりとも医者になって,医者になれなかった三男坊としては,遠慮っぽい人生になってしまって,農家の婿になったんだわ。でもな,おかげで,土とか草とか,嘘つかん相手と暮らしてる生活で,わたしとしては,幸せだったかもしれないね」
と彼は笑顔で酒をのんだ。そういう思い方というのか,自分自身とのつきあい方というのか,彼に品格を感じて,私もうれしい酒になった。
その彼が火曜日の朝,「お願いがあるんだわ。もう何年も前から,競馬場というところに行ってみたいと思っていたけど,なかなか機会がなくて」と言いだした。
3月9日。船橋競馬をやっている。雨だし,風も強いし,雪がちらついたりしているけれども,「あの院長の息子の頼みではことわれないよ」と私は彼と船橋へ向かった。
「どうして競馬場へ行きたかったの?」電車で私が聞いた。しばらく返事をしなかった彼が,「はずかしいようなことなんだけど」そうつぶやき,
「若いころ,好きになって,気が違いそうになるほど好きになった女がいたんです。その女が,わたしともけっこう気が合ってたようなんだけど,岩手の競馬の騎手と結婚してしまって。それと関係あるかないかわからんけど,競馬場ってとこが,わたしには特別なところで,未だに行ったこともないんだけど,こんどの,この旅行で,吉川さんに頼んでみようって」と硬い表情になっていた。
寒くて,天気は荒れていて,パドックを見るのがつらい船橋競馬だった。第8R,第9R,第10R,私も彼も馬券がアウト。第11R春音特別が決着したとき,
「わたし,ずうっと,自分の名前が椎橋で,地元では,シーさんシーさんと呼ばれてるもんで,ずうっと④-③というのを混ぜてたけど,これ,当たってない?」と彼が馬券を見せるのである。
「馬単④-③。シーさんだ。当たってる。とんでもない馬券だよ,これ。大変だ」200円買っているのだ。私の目がまんまるになった。④トモノリンカーンは14頭立て10番人気,2着の③ケンチャナは9番人気で,馬単9万8120円なのである。超ラッキーの彼と興奮している私の背中をノックした青年がいた。浦河で父親と牧場を営んでいるSくんで,南関東の馬主と交渉事があって来ていたのだという。
椎橋さんのおごりで私が知っている船橋の料理屋へ行き,Sくんも一緒だった。
「うちの経営なんて,追いつめられているというのが現実ですよね。そんな毎日のなかで,何をどう考えたらエネルギーとか闘争心が生まれるのかって,わからない。それでネットとかの,情報と遊んでごまかしたりしてる」とSくんが悩みを口にした。
そのとき私は,スピードスケートのメダリスト,清水宏保さんが新聞で語っていたことを思いだした。清水さんは試合当日,3時間半ぐらい前に会場入りして,観客席に坐るという。
「自分のちっぽけさがわかるんです。地球には戦争をしている場所もある。地震で壊滅している都市もある。地球温暖化で沈もうとしている島もある。自分はこんな小さなリンクで,レースなどという小さなことに悩んでいる。なんとちっぽけな存在か。そう感じられるようになれば,すっと楽になれるんです。プレッシャーなんてどうでもいいことだと」
そういう清水さんの語りだった。つまりは,自分自身を客観視しなければならない,と私は読みとり,心に残った語りだったので,Sくんの悩みとつながるかどうかわからなかったが,それを伝えた。「自分のちっぽけさがわかるというの,とても人生で大切なことだと思うなあ」椎橋さんが言った。
「なんとなく,どこかで,意味もなく,自分はちっぽけじゃないぞなんて思ってるよね」 「そうかもしれない」とSくんがうなずいて椎橋さんに酒を注いだ。
「例えば今日,船橋競馬場に,2500人ぐらいの客がいた。その現実を,たまたま来ていたSくんは見た。それを見たということで,Sくんが感じたことは何だろう。
例えば今日,9万なんぼの馬券を取った秋田の椎橋さん,おれと,こうして船橋で酒をのんでる。これも人生の時間で,ちっぽけな時間かもしれないけど,Sくんが感じることは何だろう。というふうに考えてみると,自分自身を客観視できるんじゃないか。それでは,自分自身を客観視しないと,どういうことになるかって問題になる。すると,どうして自分が競走馬を生産しているのか,どうして強い馬が出てほしいと思うのか,なにがなんだかわからなくなっちゃう。ちょっと理屈っぽくなっちゃうけど,今ね,自分自身を客観視するというのが,面倒になっちゃう時代なんだよ」言いながら私は,自分の言っていることが,Sくんの悩みにつながっているのかわからなくなっていた。
それでも,雨風の荒れる日,たまたま椎橋さんの頼みがあって船橋へ行き,そこでSくんと会い,こうして酒をのみ,言葉を交わすことで,私も,Sくんも,椎橋さんも,明るくなれそうなのは幸せなのだと思った。
「今日の酒,うれしいです。元気出ます」とSくんがコップを持ちあげて言ったので,私の胸のうちに安心がひろがった。
JBBA NEWS 2010年4月号より転載
そのころに中学生だった院長の三男坊が,私の家に近いホテルでの結婚式に出るとか,ひょいと電話してきて,式の翌日に顔を見せ,酔っぱらってしまって私の家に泊まった。野猿のようだった少年が,初老の白髪男になっている。
「兄貴がふたりとも医者になって,医者になれなかった三男坊としては,遠慮っぽい人生になってしまって,農家の婿になったんだわ。でもな,おかげで,土とか草とか,嘘つかん相手と暮らしてる生活で,わたしとしては,幸せだったかもしれないね」
と彼は笑顔で酒をのんだ。そういう思い方というのか,自分自身とのつきあい方というのか,彼に品格を感じて,私もうれしい酒になった。
その彼が火曜日の朝,「お願いがあるんだわ。もう何年も前から,競馬場というところに行ってみたいと思っていたけど,なかなか機会がなくて」と言いだした。
3月9日。船橋競馬をやっている。雨だし,風も強いし,雪がちらついたりしているけれども,「あの院長の息子の頼みではことわれないよ」と私は彼と船橋へ向かった。
「どうして競馬場へ行きたかったの?」電車で私が聞いた。しばらく返事をしなかった彼が,「はずかしいようなことなんだけど」そうつぶやき,
「若いころ,好きになって,気が違いそうになるほど好きになった女がいたんです。その女が,わたしともけっこう気が合ってたようなんだけど,岩手の競馬の騎手と結婚してしまって。それと関係あるかないかわからんけど,競馬場ってとこが,わたしには特別なところで,未だに行ったこともないんだけど,こんどの,この旅行で,吉川さんに頼んでみようって」と硬い表情になっていた。
寒くて,天気は荒れていて,パドックを見るのがつらい船橋競馬だった。第8R,第9R,第10R,私も彼も馬券がアウト。第11R春音特別が決着したとき,
「わたし,ずうっと,自分の名前が椎橋で,地元では,シーさんシーさんと呼ばれてるもんで,ずうっと④-③というのを混ぜてたけど,これ,当たってない?」と彼が馬券を見せるのである。
「馬単④-③。シーさんだ。当たってる。とんでもない馬券だよ,これ。大変だ」200円買っているのだ。私の目がまんまるになった。④トモノリンカーンは14頭立て10番人気,2着の③ケンチャナは9番人気で,馬単9万8120円なのである。超ラッキーの彼と興奮している私の背中をノックした青年がいた。浦河で父親と牧場を営んでいるSくんで,南関東の馬主と交渉事があって来ていたのだという。
椎橋さんのおごりで私が知っている船橋の料理屋へ行き,Sくんも一緒だった。
「うちの経営なんて,追いつめられているというのが現実ですよね。そんな毎日のなかで,何をどう考えたらエネルギーとか闘争心が生まれるのかって,わからない。それでネットとかの,情報と遊んでごまかしたりしてる」とSくんが悩みを口にした。
そのとき私は,スピードスケートのメダリスト,清水宏保さんが新聞で語っていたことを思いだした。清水さんは試合当日,3時間半ぐらい前に会場入りして,観客席に坐るという。
「自分のちっぽけさがわかるんです。地球には戦争をしている場所もある。地震で壊滅している都市もある。地球温暖化で沈もうとしている島もある。自分はこんな小さなリンクで,レースなどという小さなことに悩んでいる。なんとちっぽけな存在か。そう感じられるようになれば,すっと楽になれるんです。プレッシャーなんてどうでもいいことだと」
そういう清水さんの語りだった。つまりは,自分自身を客観視しなければならない,と私は読みとり,心に残った語りだったので,Sくんの悩みとつながるかどうかわからなかったが,それを伝えた。「自分のちっぽけさがわかるというの,とても人生で大切なことだと思うなあ」椎橋さんが言った。
「なんとなく,どこかで,意味もなく,自分はちっぽけじゃないぞなんて思ってるよね」 「そうかもしれない」とSくんがうなずいて椎橋さんに酒を注いだ。
「例えば今日,船橋競馬場に,2500人ぐらいの客がいた。その現実を,たまたま来ていたSくんは見た。それを見たということで,Sくんが感じたことは何だろう。
例えば今日,9万なんぼの馬券を取った秋田の椎橋さん,おれと,こうして船橋で酒をのんでる。これも人生の時間で,ちっぽけな時間かもしれないけど,Sくんが感じることは何だろう。というふうに考えてみると,自分自身を客観視できるんじゃないか。それでは,自分自身を客観視しないと,どういうことになるかって問題になる。すると,どうして自分が競走馬を生産しているのか,どうして強い馬が出てほしいと思うのか,なにがなんだかわからなくなっちゃう。ちょっと理屈っぽくなっちゃうけど,今ね,自分自身を客観視するというのが,面倒になっちゃう時代なんだよ」言いながら私は,自分の言っていることが,Sくんの悩みにつながっているのかわからなくなっていた。
それでも,雨風の荒れる日,たまたま椎橋さんの頼みがあって船橋へ行き,そこでSくんと会い,こうして酒をのみ,言葉を交わすことで,私も,Sくんも,椎橋さんも,明るくなれそうなのは幸せなのだと思った。
「今日の酒,うれしいです。元気出ます」とSくんがコップを持ちあげて言ったので,私の胸のうちに安心がひろがった。
JBBA NEWS 2010年4月号より転載