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第191便 感動なのだ

2010.11.11
 「うちの親戚にね,東大を出て銀行へ入ってな,かなり出世した奴がいるのよ。ろくな奴しかいなくて,食うや食わずの奴ばっかりの一族だもんだから,そいつはさ,うちの一族で,言ってみりゃ,イチローかイシカワリョウみたいなもんだ。
 その野郎,法事でビールをのんで,おれに,伯父さんも可哀そうな人生だよな,競馬みたいなものに引っかかっちゃってと笑いやがった。伯父さんだって競馬なんかに夢中にならなかったら,それはそれで,中小企業だけど,重役になれたんじゃないかだと。頭に来たよ」

 ウインズ後楽園の近く,JR水道橋駅の近くの居酒屋で,65歳ぐらいのハゲ頭が50歳ぐらいの刈りあげ頭に言い,ハイボールをのんだ。6人が坐れるテーブルに,そのふたりと相席の私だけがいる。他人である私はビールをのみながら,ふたりの会話を,聞いていないふりをして聞いて,それが酒の肴というわけだ。

 「冗談じゃないよなぁ,まったく。べつに何の世話もかけてないのに,あの野郎に,可哀そうな人生だなんて言われたくない」
 「その男,いくつ?」
 「あんたと同じ,49か50」
 「言い返さなかったのかい?」
 「言ったさ。おれも可哀そうな人生かもしれないが,君も可哀そうな人生かもしれないぞって」
 「ナマヌルイな。ふざけるなって,おれなら言うね。怒鳴ってやる」
 「おふくろの7回忌に喧嘩したくないよ」
 とハゲ頭はハイボールのおかわりを注文した。

 ハゲ頭の話は法事の席のことでだが,その日の私は大田区蒲田の寺での友人の法事に朝から出て,夜に新宿で人に会うまでの時間,ウインズ後楽園で東京11RペルセウスSと12Rの馬券をやっていた。どちらもハズしたが。
 「しかしシブトイよなあ,ヤギさん」
 刈りあげ頭が尻ポケットに差してあった競馬新聞をテーブルに置いた。このハゲ頭の人の顔,動物で言えばヤギに似ているなあと思っていたので,名前をヤギさんと知って私は,見つからないように笑った。

 「武士沢を狙うって言ってたから,ナオさんも取ったなって思ったよ」そうヤギさんが言ったので,東京12Rの大穴馬券をヤギさんが的中させたのだとわかった。何も言わずに私は腰をあげ,腕をのばしてビールのグラスをヤギさんに向け,

 「最終レース,すごい」と突きつけた。なんだ,この人,という目が返ってきたが,
 「万馬券に乾杯しなきゃ」私が言うと,
 「当てたといっても,馬連の200円ですよ」ヤギさんの顔が笑い,ハイボールのグラスが持ちあがって,ビールのグラスとで音をたてた。東京12Rは3歳上500万下,芝2000,18頭立て。7番人気の武士沢騎乗トモロマイスターが1着,9番人気の松岡騎乗エーブチェアマンが2着。馬連は1万1100円である。

 「ああいう馬券を取ったら感動だよね」ナオさんが私に言い
 「さっきの,出世した銀行員の人の話を盗み聞きしちゃったけど,その感動は,どう話をしたって,その人には伝えられないよね」と私がヤギさんに言った。

 それから私はヤギさんとナオさんと友だちのように酔い,「感動がなければ生きてられないよね」と言うナオさんとも乾杯をした。
 「感動といえば,競馬と関係ないけど,最近,おれが感動した話があるんだ」

 私は財布に入れておいた新聞記事の切り抜きを出した。朝日新聞に「おやじのせなか」という欄があり,神田京子という講談師の語りのなかの一節が,強く心に残ったばかりだったのだ。

 神田京子さんのおやじは,祖父の代からの家業で,町工場に溶接用のガスや機械を卸す仕事をしている。『私のだんなは食えない詩人なんです。結婚前,実家に連れてきた時の父は怖かった。黙りこくり,目も合わせず,全身から怒りのオーラが出てた。びびった彼が,「一緒に住めば家賃が浮くし......」って口を滑らせたら,「そんな軽い理由じゃいかん。娘はやれん」。空気が凍りついた時,突然彼が,「では,詩を朗読します」と立ち上がり,用意していたプロポーズの詩を読み上げたんです。

 私も母も泣きました。父は,「君の言ってる意味はまったく分からんが,気に入った!」って言って彼の手を握り,「すぐ結婚しなさい」。極端なんですよ。それ以来,実の息子以上にかわいがっちゃって』この語りに,どうして私が感動したのか,いろいろに考えてみようと思って新聞を切り抜いたのだ。

 その切り抜きを,先ずヤギさんが読み,ナオさんも読んだ。「よくわからないけど,プロポーズの詩を読んだ男に,そのおやじさん,感動したんだよ。人を動かすのは感動だ。感動なのだ」そうヤギさんが言い,
 「それより,さっきまで他人だったわたしらに,新聞の切り抜きを読ませるあんたも,変な人だなあ。変だよ」とナオさんが笑った。
 
 「いや,もし自分が,競馬なんかに夢中になって,可哀そうな人生だなあって言われたら,競馬へのプロポーズの詩を読むか,7番人気と9番人気との馬連を取った人のことを言うしかないような気がするんですよ。出世した銀行員の話を聞いていて,この切り抜きを読んでほしくなったんです」そう私は言いたかったのだが,そのテーブルに3人づれの若者が案内されてきたのとぶつかって言えなかった。

 満員になったテーブルで,私はヤギさんとナオさんと仲間のように肩をならべた。若者たちは,バイトの打ち上げの乾杯のようだった。

 「結婚に限らず,仕事にしても,先ず,プロポーズの詩がなくてはならないのかも」そんなふうに思って私は黙った。
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