烏森発牧場行き
第197便 元気かい?
2011.05.11
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『ヤスさん,元気かい?と書かせてくれよ。
おれ,ヤスさんに手紙を書くとき,たいてい書きだしは,元気かい? だったような気がする。
昨夜,横になって眠る前に,ヤスさんからの最後の手紙を読んだ。
その手紙の消印は2011年2月22日。ヤスさんがおれに馬券を頼んできたフェブラリーSの,1着トランセンド,2着フリオーソ,3着バーディバーデイの3連単を当ててビックリ。今年あたり,いい女にあたるんじゃねえべか,そんな予感が,と書いてあった。
眠れなくなって仕事部屋へ行き,デパートの袋に集めてるヤスさんからの手紙をかぞえたら,63通あった。いちばん古いのは1999年12月で,10年間で63通だから,計算してみたら,だいたい2ヵ月に1通の割合で,陸前高田から鎌倉へ,ヤスさんの手紙が来ていたのだ。
ますます眠れそうもなくなって,記録ノートをめくったら,バー「りんどう」のカウンターでヤスさんが,いなかに帰らなくちゃなんねえな,と言ったのは,1999年ダービーでアドマイヤベガが勝った次の日。岩手を離れて,なんとなく湘南に流れ住んで,長距離トラックではたらいて,好き勝手に遊んできたけど,父親が病気で倒れて,母親と妹に面倒を見ろってわけにもいかねえと。
それで30歳のヤスさんは,おれの家の近くのアパートでの4年間の暮らしにケリをつけ,岩手に帰ったんだよな。
おれに金を預けておいて,GⅠレースは1万円ずつ馬券を買い,ダービーは2000年から2010年まで,欠かさず東京競馬場へ来たよなあ。
1年に1度,ダービーをナマで見る。それがヤスさんの,何かを守る決め事だったけど,その何かって何だろうって,はっきりと答えがないんだけど,それをヤスさんと語りあう酒は,うれしい酒だった。
それにヤスさんは,下手くそな字で手紙を書いてきたわけだけど,それも何かを守るための決め事だったみたいな気がするなあ。
どうにか眠った。
おはよう,ヤスさん。今日は2011年4月12日です。
先ず新聞を手にしたら,「聞こえますか」という見出しの活字に目がいった。「がれきで覆われた岩手県陸前高田市。佐々木瑠璃さん(17)は11日,自宅跡に立ち,行方不明者の捜索が続く海に向かって,ZARDの「負けないで」を吹いた。津波で母親の宣子さん(43),祖母の隆子さん(75)を亡くし,祖父の廣道さん(76)は行方不明のままだ。「私は元気だから,心配しないで」。涙をふきながら,祖母が買ってくれたトランペットを抱きしめた」と説明がつき,がれきの山の前で,トランペットを胸もとで手にしている佐々木瑠璃さんのカラー写真だ。
あの3月11日の午後2時46分から昨日で1か月。「祈りのとき」という活字が大きい。
「地震発生時刻に避難先の高校の体育館で黙祷する人たち」という説明つきの写真は,宮城県亘理町の人たち。
「児童が犠牲になった大川小学校。多くの人たちが学校に向かって手を合わせ,花を手向けた」と説明のある写真は,花を手にして泣いている黒いコートの女性だ。宮城県石巻市である。
「1年生の時,大川小学校に通っていた佐藤蓮君(9)。友達が犠牲になり,花を手に大川小学校を訪れた」と説明された写真は,花を手にした青いダウンジャケットの蓮君だ。
岩手県釜石市の写真になる。4人の子供が1枚の毛布を膝にかけて並んでいる。「避難所で黙祷する小林祥子さん(17)と龍一くん(11)は津波で父を亡くした。祥子さんはお父さんが大好きだった。「将来は美容師になって,一番にお父さんの髪を切ってあげるねって,約束してた。今でも,祥ちゃんただいま,って帰ってきてくれるようで,信じられないけど,私が笑顔で家族を支えようって思っている」という説明だ。
おれ,どういうつもりでヤスさんに,悲しすぎる写真のことを書いているのだろう。
わからない。おれ,わからない。この写真たちを,どう見て,どう感じていいのか,わからない。
思いだしたけど,10年前に,ヤスさんがいなかへ帰らなければと言いだしたとき,こっちを離れるのでいちばんつらいのは,東京とか中山とか大井とかで,簡単に競馬を見られなくなることだなあって。
それでヤスさんは,そうか,東京方面まで来るトラックの仕事を見つければいいんだって笑ったんだ。
でも,そんなにうまく,仕事の途中で競馬場へ行けるような仕事があるわけもなし,せめてダービーだけは見てやろうって,ダービーの前後だけはトラックの仕事を休みにしてたな。
おぼえてるかい,ヤスさん。あの戸塚のスナックのアヤコ。ヤスさんに惚れてて,岩手だろうとどこだろうとツイていくよって言ってたのに,ヤスさん,アヤコから逃げた。連れて帰るには,もうちっとビジンでないととか言いやがって,バカヤロ。
おぼえてるかい,ヤスさん。去年のダービーの晩,酔っぱらって海辺へ行って,でっかい声で,ペルーサ,って叫んだのを。
ヤスさんはペルーサから買っていたのに,ペルーサはしっかり出遅れてくれた。
あとで雑誌でペルーサに乗った横山典弘が,コメントの中で,馬券を買ってくれた人に申し訳ない,と言っていて,それを読んでうれしくなり,陸前高田の星空へ,ペルーサ,と叫んだと,ヤスさんは手紙に書いてきたよな。
ヤスさん,おれに,知らせてきたのは,おっ母さんだ。仕事で月に半分は外にいるのに,どうしてあの日に息子は家にいたんだろうって。どうしていつお呼びに来られても不思議でないわたしでなくて,息子が呼ばれてしまったんだろうって。
おれ,おっ母さんに,息子のためにいろいろありがとう,いつも手紙をくれてってお礼を言われたけど,おれもヤスさんから手紙をいっぱいもらって,ありがとうって。
ヤスさん,手紙を書いたぞ。こういう場合,どこへ出せば届くんだ。切手は80円でいいのか。
千の風になんかなるなよ。ヤスさんはヤスさんの風だ。ヤスさんの風の便り,待ってるぞ。
おれ,ヤスさんに手紙を書くとき,たいてい書きだしは,元気かい? だったような気がする。
昨夜,横になって眠る前に,ヤスさんからの最後の手紙を読んだ。
その手紙の消印は2011年2月22日。ヤスさんがおれに馬券を頼んできたフェブラリーSの,1着トランセンド,2着フリオーソ,3着バーディバーデイの3連単を当ててビックリ。今年あたり,いい女にあたるんじゃねえべか,そんな予感が,と書いてあった。
眠れなくなって仕事部屋へ行き,デパートの袋に集めてるヤスさんからの手紙をかぞえたら,63通あった。いちばん古いのは1999年12月で,10年間で63通だから,計算してみたら,だいたい2ヵ月に1通の割合で,陸前高田から鎌倉へ,ヤスさんの手紙が来ていたのだ。
ますます眠れそうもなくなって,記録ノートをめくったら,バー「りんどう」のカウンターでヤスさんが,いなかに帰らなくちゃなんねえな,と言ったのは,1999年ダービーでアドマイヤベガが勝った次の日。岩手を離れて,なんとなく湘南に流れ住んで,長距離トラックではたらいて,好き勝手に遊んできたけど,父親が病気で倒れて,母親と妹に面倒を見ろってわけにもいかねえと。
それで30歳のヤスさんは,おれの家の近くのアパートでの4年間の暮らしにケリをつけ,岩手に帰ったんだよな。
おれに金を預けておいて,GⅠレースは1万円ずつ馬券を買い,ダービーは2000年から2010年まで,欠かさず東京競馬場へ来たよなあ。
1年に1度,ダービーをナマで見る。それがヤスさんの,何かを守る決め事だったけど,その何かって何だろうって,はっきりと答えがないんだけど,それをヤスさんと語りあう酒は,うれしい酒だった。
それにヤスさんは,下手くそな字で手紙を書いてきたわけだけど,それも何かを守るための決め事だったみたいな気がするなあ。
どうにか眠った。
おはよう,ヤスさん。今日は2011年4月12日です。
先ず新聞を手にしたら,「聞こえますか」という見出しの活字に目がいった。「がれきで覆われた岩手県陸前高田市。佐々木瑠璃さん(17)は11日,自宅跡に立ち,行方不明者の捜索が続く海に向かって,ZARDの「負けないで」を吹いた。津波で母親の宣子さん(43),祖母の隆子さん(75)を亡くし,祖父の廣道さん(76)は行方不明のままだ。「私は元気だから,心配しないで」。涙をふきながら,祖母が買ってくれたトランペットを抱きしめた」と説明がつき,がれきの山の前で,トランペットを胸もとで手にしている佐々木瑠璃さんのカラー写真だ。
あの3月11日の午後2時46分から昨日で1か月。「祈りのとき」という活字が大きい。
「地震発生時刻に避難先の高校の体育館で黙祷する人たち」という説明つきの写真は,宮城県亘理町の人たち。
「児童が犠牲になった大川小学校。多くの人たちが学校に向かって手を合わせ,花を手向けた」と説明のある写真は,花を手にして泣いている黒いコートの女性だ。宮城県石巻市である。
「1年生の時,大川小学校に通っていた佐藤蓮君(9)。友達が犠牲になり,花を手に大川小学校を訪れた」と説明された写真は,花を手にした青いダウンジャケットの蓮君だ。
岩手県釜石市の写真になる。4人の子供が1枚の毛布を膝にかけて並んでいる。「避難所で黙祷する小林祥子さん(17)と龍一くん(11)は津波で父を亡くした。祥子さんはお父さんが大好きだった。「将来は美容師になって,一番にお父さんの髪を切ってあげるねって,約束してた。今でも,祥ちゃんただいま,って帰ってきてくれるようで,信じられないけど,私が笑顔で家族を支えようって思っている」という説明だ。
おれ,どういうつもりでヤスさんに,悲しすぎる写真のことを書いているのだろう。
わからない。おれ,わからない。この写真たちを,どう見て,どう感じていいのか,わからない。
思いだしたけど,10年前に,ヤスさんがいなかへ帰らなければと言いだしたとき,こっちを離れるのでいちばんつらいのは,東京とか中山とか大井とかで,簡単に競馬を見られなくなることだなあって。
それでヤスさんは,そうか,東京方面まで来るトラックの仕事を見つければいいんだって笑ったんだ。
でも,そんなにうまく,仕事の途中で競馬場へ行けるような仕事があるわけもなし,せめてダービーだけは見てやろうって,ダービーの前後だけはトラックの仕事を休みにしてたな。
おぼえてるかい,ヤスさん。あの戸塚のスナックのアヤコ。ヤスさんに惚れてて,岩手だろうとどこだろうとツイていくよって言ってたのに,ヤスさん,アヤコから逃げた。連れて帰るには,もうちっとビジンでないととか言いやがって,バカヤロ。
おぼえてるかい,ヤスさん。去年のダービーの晩,酔っぱらって海辺へ行って,でっかい声で,ペルーサ,って叫んだのを。
ヤスさんはペルーサから買っていたのに,ペルーサはしっかり出遅れてくれた。
あとで雑誌でペルーサに乗った横山典弘が,コメントの中で,馬券を買ってくれた人に申し訳ない,と言っていて,それを読んでうれしくなり,陸前高田の星空へ,ペルーサ,と叫んだと,ヤスさんは手紙に書いてきたよな。
ヤスさん,おれに,知らせてきたのは,おっ母さんだ。仕事で月に半分は外にいるのに,どうしてあの日に息子は家にいたんだろうって。どうしていつお呼びに来られても不思議でないわたしでなくて,息子が呼ばれてしまったんだろうって。
おれ,おっ母さんに,息子のためにいろいろありがとう,いつも手紙をくれてってお礼を言われたけど,おれもヤスさんから手紙をいっぱいもらって,ありがとうって。
ヤスさん,手紙を書いたぞ。こういう場合,どこへ出せば届くんだ。切手は80円でいいのか。
千の風になんかなるなよ。ヤスさんはヤスさんの風だ。ヤスさんの風の便り,待ってるぞ。