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第201便 通じない言葉たち

2011.09.15
 「自分にしか通じない言葉を頼りにして,それで暮らしてまいりましたわ」
 という老人の小声が,この夏,私の心に刻みこまれた。
 8月6日の朝,私は京都にいて,宿からの散歩で南禅寺に入り,壮大な三門の近くで黙祷をしていた老人に,
 「ヒロシマの原爆の日ですね」
 と声をかけ,それから日陰に並んで腰をおろし,会話をさせてもらったのだ。

 南禅寺の近くに住む老人は80歳で,京都大学に進むまでは広島にいたと言い,原爆で母と姉と兄を亡くし,父は南方の海に沈み,と話をしてくれ,私の心に刻まれる言葉を聞かせてくれたのだった。
 南禅寺にいた老人のような,人間の生死に関わる深い大きな問題でなくても,普通に目にすることでも,「自分にしか通じない言葉を頼りにして,それで暮らしている」よなあと私は思う。

 例えば,甲子園の全国高校野球の,帝京高校と花巻東高校との試合を私はテレビで見ていた。
 5対5で同点の5回表,2死一,二塁で帝京の伊藤が強い当たり(記録は強襲ヒット)を放ち,はじいたサードの橘とセカンドランナーの石川がぶつかった。

 すると球審と3人の塁審が協議をし,サードが走塁妨害をしたとして,石川の生還が認められた。
 私はテレビの前で,声にはしないが,抗議をしている。
 「サードははじいてしまったボールをふりかえっていて,べつにランナーの邪魔をしようとはしていない。そこへランナーがぶつかってきた。

 帝京ぐらい野球に強く取り組むチームなら,意識的にサードへぶつかるかもしれないじゃないか。
 このひとつの協議の決定が,ゲームを決めてしまうかもだぞ。それはね,審判は,特に高校野球の審判は神のような決定権を持たされているとしても,ずいぶんあっさり走塁妨害と決定していいのですか,と私は抗議していたのだ。

 そのモヤモヤが消えていない私は,再びテレビの前で無言の抗議をしなければならなかった。

 8対7と,1点をリードされた花巻東の9回裏の攻撃。1死後,代打の山本がヒットで出た。ピンチランナーの佐々木泉が果敢に盗塁をし,セーフ。
 凄い。これは同点に追いつくかも。そう私が思ったとき,球審が試合を止めた。佐々木泉が盗塁をした際,バントのかまえをして足を踏みだした打者の佐々木隆が,キャッチャーの送球を邪魔したとして,守備妨害でアウト。ランナーは一塁に戻された。
バッターの動き,足のはこび,守備妨害をしようとしたものと違うんじゃないか。
 さすがに花巻東の主将が球審に抗議したが,受けつけられない。マイクを握った球審が,事務的に短く,打者はアウト,走者は帰塁を言ったが,あっさり決めすぎないか,と私は悲しくなってしまった。

 私は花巻東を勝たせたいと思って見ていたわけでもないし,私の抗議が間違っているのかもしれないのだが,そのときの悲しみを消せないであろう私は,自分にしか通じないだろう言葉を見つけ出し,それを頼りにして暮らすしかないのだ,と南禅寺にいた老人を思い浮かべたのだった。

 「勇気は届いた」
 と翌日の新聞は花巻東の健闘が東日本大震災にあった地元岩手に元気と勇気を与えたという見出しをつけたけれども,その試合のなかの,ふたつのジャッジは,なかったことにしましょう,忘れましょう,ということですかと,また私は抗議をしていた。

 ナガサキの原爆記念日,差出人が島根県鹿足郡津和野町の女性から,
 「七月の半ばに八十二歳で亡くなった父の遺品を整理していて,吉川様に出そうとしていたらしい手紙がありました。年賀状で探すと,吉川様の住所がわかりましたので,字がとても読みにくいのですが,わたし(忠男の長女です)が送らせてもらうことにしました。父から何度か,吉川様のお話はお聞きしております」
 という手紙をもらった。

 25年くらい年賀状のやりとりをしていただろう忠男さんは,島根県益田市に住んで土木関係の仕事をしていた人で,益田競馬があったころに益田の居酒屋で知りあった。忠男さんが有馬記念を見に来て,わが家に泊まったこともある。

 便箋に全部が平仮名の忠男さんの文だ。
 「いまおもうとよしかわさんますだにけいばがああったのはゆめだったのかなあっておもうよ。ゆきのえるざというのいたよなあゆきのえるざみやしろすずらんというのも。けいばがなくなってからはさびしくてたまらんでたのしみがなくなってさけばっかりのんでいたからよしかわさんかあちゃんにおこられてばかりでやんなったわ」

 ひとつひとつの字を発見するようにして私は,
 「今思うと,吉川さん,益田に競馬があったのは夢だったのかなあって思うよ。ユキノエルザというのいたよなあ。ユキノエルザ,ミヤシロスズランというのも。
 競馬がなくなってから,さびしくてたまらんで,楽しみがなくなって,酒ばっかりのんでいたから,吉川さん,かあちゃんに怒られてばっかりで嫌になったわ」
 と書きなおした。

 忠男さんの字はこれだけではなしに,まだたくさん続いていた。ふるえていて,かんたんには読めない字をひとつひとつ追っている私に,南禅寺で黙祷している老人の姿が浮かんできた。
 益田競馬がなくなって元気を失ってしまったらしい忠男さんは,その空しさを引きずり,自分にしか通じない言葉を頼りにして,それで暮らしていたのだろうと私は思ったのだ。

 「忠男さん,あなたの言葉たちが,おれの心のなかにまで歩いてきたよ。おれでさえ,ときどき,どうして益田競馬が消えなければならなかったのかと思う。
 忠男さんの悲しみは,誰にも,なかなか通じないんだよな。自分にしか通じない」
 と私は忠男さんの娘がいる津和野へ手紙を書きはじめた。
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