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第202便 カツーン,カツーン

2011.10.20
 『今でも思い出す原風景がある。少年時代,岩手県花巻市の実家の前にある田んぼで,石をボール代わりにバットを振って遊んでいた。
 「コツーン,コツーンって。打った石ころが田んぼを越えるようになったとか,目に見える変化が面白くてやっていた。気づくと,真っ暗になっていることもあった」
 日本人離れした長打力は,この時から磨かれてきた。東日本大震災で故郷の風景が様変わりしてしまった今こそ,東北地方に元気を届けたいと思っている』
 ヤクルト対広島戦。29歳の誕生日にダメ押しになる18号2ランを打ったヤクルト畠山和洋内野手のことを書いた,サンケイスポーツ長崎右記者の一文を読み,
 「そうなんだよ。原風景。コツーンコツーンが問題なんだ」
 と私は思い,勝手に花巻の田んぼを想像し,勝手にコツーンコツーンという音を頭に作った。

 昨日,私の家に24歳のAクンが訪ねてきた。Aクンの実家は北海道で競走馬の生産をしている。
 Aクンの祖父と私は親しかった。Aクンの父とのつきあいはそんなに深くないが,「息子の話を聞いてやってくれないか」という電話をもらったのだ。

 Aクンも半年前まで,実家で両親といっしょに,繁殖牝馬が10頭いる牧場の仕事をしていたのだが,将来の希望がないとか言って北海道を離れ,大宮市のアパートにいる友だちの部屋に仮住まいして仕事を探しているらしい。

 「大井競馬場でお父さんといっしょの君に会ったことがあるよね。たしか君は中学生だった」
 せっかく訪ねてきたのにAクンは,自分からは口をきかないので私から喋るしかない。
 「はっきり聞いちゃうけど,君がおれに会いたいと思ったわけじゃなくて,お父さんが会ってみろって言ったの?」
 すぐに返事はなかったが,
 「ハイ」
 と小声が聞こえた。

 私の家に3時間ほどいたAクンが,「けっこう喋るんじゃないか」と私に思わせたのは,
 「どうして実家の仕事を続けないの?」と私が聞いたときだった。
 「ダメですよ,うちの父親は。やる気ないし,ツブれるのを待ってるだけだから。無理もないんだけどね,でっかい牧場の馬しか売れない時代だし。うちみたいな小さな牧場は,今の馬主さん,見向きもしてくれないし」
 「馬は好きでなかったの?」
 「そういう問題でないし」
 「馬の仕事は好きでなかったの?」
 「そういう問題でないし」
 「競馬は好きでなかったの?」
 「だから,そういう問題でないし」
 「おれはね,そういう問題,と思ってるわけよ」
 「それは外部の人の考え方じゃないですか」
 「そうかあ。そういうことになるのかあ」
 と私がだんだんと追いこまれているような気分になり,口をひらきにくくなってしまった。

 「コツーン,コツーン」
 ガキだった畠山和洋が石をバットで打つ音を心で聞きながら,昨夜のAクンに,
 「原風景というか,ガキのころの,いちばん心に残っていることって,何?」という質問をしなかったのは失敗で,Aクンに申しわけなかったなあと私は思った。

 Aクンにダブって,数日前の新橋駅でのことが浮かんできた。
 地下の横須賀線からの,かなり長いエスカレーターがある。最上部に,昇っている私の方を向いて何やら動けない若者がいた。
 リュックを背負った大柄な若者が,スニーカーのゆるんだ紐がエスカレーターに食いこんでしまったのだ。エスカレーターの途中だったら危険だけど,最後の部分に食いこんでいるので,エスカレーターの回転は変らない。スニーカーを脱がないまま若者は,なんとか紐を抜こうとして苦戦している。
 「靴を脱いだらいい」
 ネクタイ姿のおじさんが若者に言い,どこかのおばさんが心配そうに覗き,
 「脱いだほうがいいよ」と私が若者の腰を叩いた。

 やっとという感じで若者はスニーカーを脱ぎ,ネクタイおじさんがしゃがみこんで紐を抜いた。ネクタイおじさんとおばさんと私が顔を見合わせたのは,そのあとである。若者は口をひらこうともしないで,紐がゆるんだままのスニーカーを引きずるようにして人ごみにまぎれ,改札口の方へと行ってしまったからだ。

 「ありがとうのひとことがあってもね」
 おばさんが呆れ,
 「はずかしかったんですな」
 ネクタイおじさんが言い,
 「あいつ,上野のお山にいるサイゴウさんに似てたね」
 と私が笑った。

 「カツーン,カツーン」
 また私に音が聞こえる。新橋駅にいたサイゴウさんにも,カツーンカツーンの話をしたいなあと思い,そんなふうに思うのが,まったくおまえさんの余計なところ,と私は自嘲した。

 「息子,行ったかね?」Aクンの父から電話がきた。
 「あいつも可哀そうなんだ。牧場の景気がよければ苦労しなかったのにな」
 「何の力にもなれないよ」そう言って私は電話を切った。

 カネとヒマがあったら,嘆いてばかりいる牧場をめぐり,「原風景こそがエネルギーだよ。あなたのカツーンカツーンは何?」
と言って歩きたいなあと思ったのだが,どこへ行っても,「そういう問題でないし」と言われそうな気もして,

 「カツーン,カツーン,カツーン」私はつぶやいてみるのだった。
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