烏森発牧場行き
第219便 ちち、はは、ははちち
2013.03.14
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私は競馬が大好きな若い人と酒をのむことが多い。若いといっても20代ではなくて、30代の人がほとんどだけれども。
2013年2月8日、金曜日の晩も、江の島の片瀬海岸に近い小さなバーで、大工のクボちゃん、税理士のミヤちゃん、デパート勤務のノダちゃんとのんでいた。3人とも30代の後半で、同じ高校の剣道部の仲間だ。競馬がとりもつつきあいである。
その日に私は午後3時から、頭部MRI単純+MRA単純、頚部MRA単純というのを病院でしていた。予約票に書いてある「単純」の意味を聞かなくてはと思っていたのだが、MRI検査の、あのものすごい音に耐えているうち、そんなことはどうでもいいやと、聞かなかった。
「あんなバケモノのおどしみたいな音に耐えてね、金をもらえるのかと思ったら、払うわけ?」
と会計へ行く書類を渡した女子職員にとぼけて言ってみると、
「頭が変なの?」
とは言わなかったが、そういう顔をして私を見た。ときどき私は意識的に、場所を間違えて冗談を言ってみせる病気を持っている。
「レントゲン室の前で新聞を読んでいて、本の広告に目がいったんだ。佐藤優という人の、同志社大学神学部、という本の広告に、まえがきよりってな、(2年前、50歳になった頃から、人生の残り時間が気になりはじめた。そこで現在抱えている仕事をもう一度見直して、若い世代への伝言となる作品を優先して出すことにした)と書いてある」
と新聞のそこだけちぎったのを手に読んだ。
「50歳で人生の残り時間と、そんなこと、MRIの前に読みたくなったなあ、ジイさんとすれば」
と私が笑い、
「さあさあさあ、そんなことは忘れて」
とノダちゃんがビールを注いでくれた。
「明日の京都の10R、宇治川特別に、アルティシムスというのが出るんだ。父ディープインパクト、母アルーリングアクト、母の父エンドスウィープ、牡5歳。
ぼくね、大学を出た年、おふくろの実家に葬式があって福岡に行ってて、小倉競馬場が近いので入ってみたんだな。
小倉3歳ステークス(旧年齢表記)というのがあって、そのころ好きだった彼女が秋山だったんで、なんにも知らないんだけど、秋山という騎手のアルーリングアクトの単勝を、近くにいたおっさんに買い方を教えてもらって、2000円買ったんだ。
びっくりしたよ。アルーリングアクトが勝って、2000円が9000円になって、それで競馬にはまった。
アルーリングアクトの馬券も買い続けたけど、引退してアルーリングアクトの最初の子がアルーリングボイスで、母と同じに小倉2歳ステークスを勝ったんだ。そうなると、血統というか、自然と競馬が馬券だけでなくて、父、母、母父とかの興味が出てきたわけ」
とミヤちゃんが、競馬ファンになって間もないノダちゃんに言っている。
「競馬は血統だって言うよね」
ノダちゃんがつぶやき、
「人間も血統なんじゃないの。おれなんかね、おやじは女好き、母親は男好き、めちゃくちゃ。おれはスケベのほうは面倒くせえから、おかあちゃんでいいやのほうだけど、ときどき思うよ。あんなおやじとおふくろの子だもの、おれなんざ、ろくなもんじゃないのはあたりまえだって」
そう言ったクボちゃんが、
「リョウさんのおやじって、どんな人?」
と私を見た。
しっかりと顔を見られたので、
「マジメに答える?」
私もしっかりクボちゃんを見ると、
「マジな質問」
と声が返った。
「おれのおやじは、小学校もちゃんと出たのか出なかったのか、十歳のころに田舎の薬店の小僧になって、十七歳ぐらいのときに東京の薬問屋に来たのかな。
がんばって小さな薬品問屋として独立したんだけど、酒大好きなはたらき者。休まずにはたらいて、あんまり口をきかない。
だから、たまに酔っぱらったときなんかに口をきくと、めずらしいから、しっかり聞いた。
おやじが言うのは簡単明瞭。人間には2種類しかいなくて、ハタラキモノとナマケモノ。なるべく、ハタラキモノになれって。
そしてね、人間にはアタマのいいのと悪いのという2種類もある。アタマのいい奴はいいけど、アタマの悪い奴は、カラダを使え。
カラダをめいっぱい使うと、不思議なことにアタマがよくなってくる。
でも、もともとアタマのよくない奴は、目的をひとつにしろ。ヒトにメイワクをかけずにメシを食うこと。
おかげさんで、おれ、おやじの言うとおりに生きた。たいしたことは何ひとつ出来ないけど、ハタラキモノになり、カラダを使い、ヒトにメイワクをかけずにメシを食ってきた」
私の演説がおわると、その晩はめずらしく、ミヤちゃんもノダちゃんも、競馬の話よりも、自分の父親や母親、兄や弟、姉や妹の話、それに生まれ育った故郷の話に花が咲いた。
「いいねいいね、たまには自分の血統の話をしなくちゃね。しかし、それにしても、みんな平凡な血統だなあ」
とミヤちゃんが言い、
「だからつきあっていられるんだよ」
とクボちゃんが言い、
「名血の奴は名血の奴と気が合ってるんじゃないのかなあ」
とノダちゃんが言った。
みんなの話を聞きながら、私の頭にはちらちらと、父や母や姉や、この世にはいない身うちの姿が動いていた。
「明日、アルティシムス、買ってみよう」
ミヤちゃんのひとりごとである。
2月9日、宇治川特別でアルティシムス1着。単勝3670円だった。
2013年2月8日、金曜日の晩も、江の島の片瀬海岸に近い小さなバーで、大工のクボちゃん、税理士のミヤちゃん、デパート勤務のノダちゃんとのんでいた。3人とも30代の後半で、同じ高校の剣道部の仲間だ。競馬がとりもつつきあいである。
その日に私は午後3時から、頭部MRI単純+MRA単純、頚部MRA単純というのを病院でしていた。予約票に書いてある「単純」の意味を聞かなくてはと思っていたのだが、MRI検査の、あのものすごい音に耐えているうち、そんなことはどうでもいいやと、聞かなかった。
「あんなバケモノのおどしみたいな音に耐えてね、金をもらえるのかと思ったら、払うわけ?」
と会計へ行く書類を渡した女子職員にとぼけて言ってみると、
「頭が変なの?」
とは言わなかったが、そういう顔をして私を見た。ときどき私は意識的に、場所を間違えて冗談を言ってみせる病気を持っている。
「レントゲン室の前で新聞を読んでいて、本の広告に目がいったんだ。佐藤優という人の、同志社大学神学部、という本の広告に、まえがきよりってな、(2年前、50歳になった頃から、人生の残り時間が気になりはじめた。そこで現在抱えている仕事をもう一度見直して、若い世代への伝言となる作品を優先して出すことにした)と書いてある」
と新聞のそこだけちぎったのを手に読んだ。
「50歳で人生の残り時間と、そんなこと、MRIの前に読みたくなったなあ、ジイさんとすれば」
と私が笑い、
「さあさあさあ、そんなことは忘れて」
とノダちゃんがビールを注いでくれた。
「明日の京都の10R、宇治川特別に、アルティシムスというのが出るんだ。父ディープインパクト、母アルーリングアクト、母の父エンドスウィープ、牡5歳。
ぼくね、大学を出た年、おふくろの実家に葬式があって福岡に行ってて、小倉競馬場が近いので入ってみたんだな。
小倉3歳ステークス(旧年齢表記)というのがあって、そのころ好きだった彼女が秋山だったんで、なんにも知らないんだけど、秋山という騎手のアルーリングアクトの単勝を、近くにいたおっさんに買い方を教えてもらって、2000円買ったんだ。
びっくりしたよ。アルーリングアクトが勝って、2000円が9000円になって、それで競馬にはまった。
アルーリングアクトの馬券も買い続けたけど、引退してアルーリングアクトの最初の子がアルーリングボイスで、母と同じに小倉2歳ステークスを勝ったんだ。そうなると、血統というか、自然と競馬が馬券だけでなくて、父、母、母父とかの興味が出てきたわけ」
とミヤちゃんが、競馬ファンになって間もないノダちゃんに言っている。
「競馬は血統だって言うよね」
ノダちゃんがつぶやき、
「人間も血統なんじゃないの。おれなんかね、おやじは女好き、母親は男好き、めちゃくちゃ。おれはスケベのほうは面倒くせえから、おかあちゃんでいいやのほうだけど、ときどき思うよ。あんなおやじとおふくろの子だもの、おれなんざ、ろくなもんじゃないのはあたりまえだって」
そう言ったクボちゃんが、
「リョウさんのおやじって、どんな人?」
と私を見た。
しっかりと顔を見られたので、
「マジメに答える?」
私もしっかりクボちゃんを見ると、
「マジな質問」
と声が返った。
「おれのおやじは、小学校もちゃんと出たのか出なかったのか、十歳のころに田舎の薬店の小僧になって、十七歳ぐらいのときに東京の薬問屋に来たのかな。
がんばって小さな薬品問屋として独立したんだけど、酒大好きなはたらき者。休まずにはたらいて、あんまり口をきかない。
だから、たまに酔っぱらったときなんかに口をきくと、めずらしいから、しっかり聞いた。
おやじが言うのは簡単明瞭。人間には2種類しかいなくて、ハタラキモノとナマケモノ。なるべく、ハタラキモノになれって。
そしてね、人間にはアタマのいいのと悪いのという2種類もある。アタマのいい奴はいいけど、アタマの悪い奴は、カラダを使え。
カラダをめいっぱい使うと、不思議なことにアタマがよくなってくる。
でも、もともとアタマのよくない奴は、目的をひとつにしろ。ヒトにメイワクをかけずにメシを食うこと。
おかげさんで、おれ、おやじの言うとおりに生きた。たいしたことは何ひとつ出来ないけど、ハタラキモノになり、カラダを使い、ヒトにメイワクをかけずにメシを食ってきた」
私の演説がおわると、その晩はめずらしく、ミヤちゃんもノダちゃんも、競馬の話よりも、自分の父親や母親、兄や弟、姉や妹の話、それに生まれ育った故郷の話に花が咲いた。
「いいねいいね、たまには自分の血統の話をしなくちゃね。しかし、それにしても、みんな平凡な血統だなあ」
とミヤちゃんが言い、
「だからつきあっていられるんだよ」
とクボちゃんが言い、
「名血の奴は名血の奴と気が合ってるんじゃないのかなあ」
とノダちゃんが言った。
みんなの話を聞きながら、私の頭にはちらちらと、父や母や姉や、この世にはいない身うちの姿が動いていた。
「明日、アルティシムス、買ってみよう」
ミヤちゃんのひとりごとである。
2月9日、宇治川特別でアルティシムス1着。単勝3670円だった。