烏森発牧場行き
第218便 前へ進む
2013.02.15
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正月の二日と三日は、わが家へ遊びにきた連中と、東京箱根間往復大学駅伝をテレビで見る。
「必死に走ってる選手をさ、酒をのみながら眺めて、好き勝手なことを言ってるんだから、ほんと、申しわけないよね」
なんぞと言いながらだ。
どうにか走りきって次の走者へタスキを渡し、前のめりに路上へ倒れる選手を見ながら、私の頭には6歳上の兄貴が出てくる。
昭和20年代後半のことだ。当時の私の家は神田駅の近くで、この駅伝のスタート地点である大手町にも近い。大学生の兄貴と中学生の私は自転車で出てスタートを見て、それから裏道を抜けては表通りで走者を見おくり、芝の増上寺あたりまで行ったりするのが正月の楽しみだった。
私の家は小さな薬品問屋で、数人の住み込み店員が家族とほとんどいっしょくたにいて、駅伝を追いかけ、また次の日はむかえる兄貴と私の自転車に、彼らも自転車で参加していた。
その彼らが、私の父と母には浅草に映画とか嘘を言い、兄貴と私を、中山や府中の競馬場へ連れて行ったのだ。それで私は中学生のころから競馬場をうろうろしていて、たぶんそのことが私を、競馬のことを書く人生にしたのだろう。
小田原から箱根への往路5区は20.8キロ。東洋大の選手を抜き、早稲田の選手との競り合いをしのいで日体大の服部翔大選手が山を走ってのぼっている。
東京都千代田区は箱根の強羅に区の保養施設「ちよだ荘」があり、まるで自分の別荘みたいにおふくろが利用し、よく私も同行したし、仲間との遊びも箱根が多かったので、私がいちばん知っている観光地は箱根だろう。だからどんな坂道か知っていて、
「あの坂を走ってのぼるなんて人間じゃない」
なんぞと私は言ってしまうのだ。
「服部翔大選手は、2011年12月に、肺がんのために、お父さんの重夫さんを、まだ50歳だったお父さんを亡くしました。天国にいるお父さんに、この姿、この走りを、見てほしい」
とアナウンサーの声が聞こえる。
「がんばれ、ハットリ!」
客のひとりがテレビへ叫んだ。
私の頭に喜多村寿信さんが出てきた。
2012年12月24日のこと、私はウインズ銀座にいて、阪神11Rの阪神カップの発走を待ち、
「キタさん、もうすぐサンカルロが走るよ」
とサンカルロの単勝馬券を握るようにして、誰にも聞こえないように言った。
喜多村さんは社台のクラブ会員でサンカルロの40分の1口馬主。サンカルロを深く深く愛して、いわば「サンカルロの酒」を人生の道づれのようにし、その酔っぱらった日、ほとんど私はいっしょにいたようである。
2011年12月17日のこと、喜多村さんは虎の門病院のベッドでほとんど眠っていた。
「勝った。勝ったよ。父さん、サンカルロが勝ったよ。父さん、父さん、サンカルロが、勝った」
ラジオで阪神カップを聞いて息子の太郎さんが父親の耳もとで伝えた。
「ぼくには、父さんの顔が変わったので、伝わったように思えました」
とのちに私は太郎さんから聞いた。
2011年12月22日、喜多村さんは生涯を閉じた。
「もう1年が過ぎちゃったよ。どう、キタさん、気に入ったバー、見つかった?」
そう心で声をかけながら私は、喜多村寿信の誕生日は1936年12月25日だ、と思い、ゲートに入ろうとしているサンカルロに、
「そんなわけなんだ。いいとこ、見せてくれ」
と願った。
4コーナーで後方から5頭目ぐらいにいたサンカルロが、しっかりと馬群を割り、外に出てから12頭を抜こうとし、抜いて、1着。
「キタさん!キタさん!」
と私は声にはしなかったけれど叫んだ。
私は夢の中を歩いているようだった。喜多村さんと何度も坐った銀座通りのライオンビヤホールへ行き、いっしょに坐ったことがあるテーブルが空いていたので、そこでビールをのんだ。
1月3日もテレビで箱根駅伝を見た。平塚から戸塚への21.5キロの復路8区の、神奈川大は吉川了選手で、私と同じヨシカワリョウとうれしくなったら、大東大は吉川修平選手で、私のイトコにヨシカワシュウヘイがいるので笑ってしまった。
「2011年3月11日、東日本大震災で自宅が津波で流され、姉の沙織さんを、22歳の沙織さんを失いました。
去年はメンバーから漏れ、姉さんの墓前で、次は絶対に走ると誓い、今、実現しました」
アナウンサーが8区を走る青学大の、宮城県東松島市出身の高橋宗司選手のことを言った。
「タカハシ、がんばれ!」
客のひとりがテレビへ叫んだ。
高橋宗司選手は1時間6分46秒と、区間賞の走りだった。
「真っ白だった。奇跡が起きました。姉は僕が箱根を走ることを夢見ていました。いい報告ができます」
と翌日のスポーツ紙で、私は高橋宗司選手のコメントを読んだ。
その夜、テレビの報道番組で、大学のグラウンドを走る高橋宗司選手が映り、「走っているときだけ、姉さんのことを忘れることができた」という語りが聞こえた。
画面は箱根駅伝を走る高橋選手と、道ばたで声援する両親に変わった。お母さんは娘の遺影を抱いている。息子さんにどんな声を?とマイクを向けられたお父さんが、
「前へ進んでほしい。しっかり前へ進んでほしい。とにかく前へ進んでほしいだけです。それはわたしたちもおんなじなんですけど」
と静かに答えた。
「わたしたちも」
お父さんのコメントのなかの、そのひとことが私に強く伝わってきた。お父さんの心のたたかいはどんなかと、必死に走っている高橋宗司選手の画面を見ながら思い、「前へ進む」と心のなかでつぶやいていた。
「必死に走ってる選手をさ、酒をのみながら眺めて、好き勝手なことを言ってるんだから、ほんと、申しわけないよね」
なんぞと言いながらだ。
どうにか走りきって次の走者へタスキを渡し、前のめりに路上へ倒れる選手を見ながら、私の頭には6歳上の兄貴が出てくる。
昭和20年代後半のことだ。当時の私の家は神田駅の近くで、この駅伝のスタート地点である大手町にも近い。大学生の兄貴と中学生の私は自転車で出てスタートを見て、それから裏道を抜けては表通りで走者を見おくり、芝の増上寺あたりまで行ったりするのが正月の楽しみだった。
私の家は小さな薬品問屋で、数人の住み込み店員が家族とほとんどいっしょくたにいて、駅伝を追いかけ、また次の日はむかえる兄貴と私の自転車に、彼らも自転車で参加していた。
その彼らが、私の父と母には浅草に映画とか嘘を言い、兄貴と私を、中山や府中の競馬場へ連れて行ったのだ。それで私は中学生のころから競馬場をうろうろしていて、たぶんそのことが私を、競馬のことを書く人生にしたのだろう。
小田原から箱根への往路5区は20.8キロ。東洋大の選手を抜き、早稲田の選手との競り合いをしのいで日体大の服部翔大選手が山を走ってのぼっている。
東京都千代田区は箱根の強羅に区の保養施設「ちよだ荘」があり、まるで自分の別荘みたいにおふくろが利用し、よく私も同行したし、仲間との遊びも箱根が多かったので、私がいちばん知っている観光地は箱根だろう。だからどんな坂道か知っていて、
「あの坂を走ってのぼるなんて人間じゃない」
なんぞと私は言ってしまうのだ。
「服部翔大選手は、2011年12月に、肺がんのために、お父さんの重夫さんを、まだ50歳だったお父さんを亡くしました。天国にいるお父さんに、この姿、この走りを、見てほしい」
とアナウンサーの声が聞こえる。
「がんばれ、ハットリ!」
客のひとりがテレビへ叫んだ。
私の頭に喜多村寿信さんが出てきた。
2012年12月24日のこと、私はウインズ銀座にいて、阪神11Rの阪神カップの発走を待ち、
「キタさん、もうすぐサンカルロが走るよ」
とサンカルロの単勝馬券を握るようにして、誰にも聞こえないように言った。
喜多村さんは社台のクラブ会員でサンカルロの40分の1口馬主。サンカルロを深く深く愛して、いわば「サンカルロの酒」を人生の道づれのようにし、その酔っぱらった日、ほとんど私はいっしょにいたようである。
2011年12月17日のこと、喜多村さんは虎の門病院のベッドでほとんど眠っていた。
「勝った。勝ったよ。父さん、サンカルロが勝ったよ。父さん、父さん、サンカルロが、勝った」
ラジオで阪神カップを聞いて息子の太郎さんが父親の耳もとで伝えた。
「ぼくには、父さんの顔が変わったので、伝わったように思えました」
とのちに私は太郎さんから聞いた。
2011年12月22日、喜多村さんは生涯を閉じた。
「もう1年が過ぎちゃったよ。どう、キタさん、気に入ったバー、見つかった?」
そう心で声をかけながら私は、喜多村寿信の誕生日は1936年12月25日だ、と思い、ゲートに入ろうとしているサンカルロに、
「そんなわけなんだ。いいとこ、見せてくれ」
と願った。
4コーナーで後方から5頭目ぐらいにいたサンカルロが、しっかりと馬群を割り、外に出てから12頭を抜こうとし、抜いて、1着。
「キタさん!キタさん!」
と私は声にはしなかったけれど叫んだ。
私は夢の中を歩いているようだった。喜多村さんと何度も坐った銀座通りのライオンビヤホールへ行き、いっしょに坐ったことがあるテーブルが空いていたので、そこでビールをのんだ。
1月3日もテレビで箱根駅伝を見た。平塚から戸塚への21.5キロの復路8区の、神奈川大は吉川了選手で、私と同じヨシカワリョウとうれしくなったら、大東大は吉川修平選手で、私のイトコにヨシカワシュウヘイがいるので笑ってしまった。
「2011年3月11日、東日本大震災で自宅が津波で流され、姉の沙織さんを、22歳の沙織さんを失いました。
去年はメンバーから漏れ、姉さんの墓前で、次は絶対に走ると誓い、今、実現しました」
アナウンサーが8区を走る青学大の、宮城県東松島市出身の高橋宗司選手のことを言った。
「タカハシ、がんばれ!」
客のひとりがテレビへ叫んだ。
高橋宗司選手は1時間6分46秒と、区間賞の走りだった。
「真っ白だった。奇跡が起きました。姉は僕が箱根を走ることを夢見ていました。いい報告ができます」
と翌日のスポーツ紙で、私は高橋宗司選手のコメントを読んだ。
その夜、テレビの報道番組で、大学のグラウンドを走る高橋宗司選手が映り、「走っているときだけ、姉さんのことを忘れることができた」という語りが聞こえた。
画面は箱根駅伝を走る高橋選手と、道ばたで声援する両親に変わった。お母さんは娘の遺影を抱いている。息子さんにどんな声を?とマイクを向けられたお父さんが、
「前へ進んでほしい。しっかり前へ進んでほしい。とにかく前へ進んでほしいだけです。それはわたしたちもおんなじなんですけど」
と静かに答えた。
「わたしたちも」
お父さんのコメントのなかの、そのひとことが私に強く伝わってきた。お父さんの心のたたかいはどんなかと、必死に走っている高橋宗司選手の画面を見ながら思い、「前へ進む」と心のなかでつぶやいていた。