烏森発牧場行き
第217便 イグナルファーム
2013.01.09
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オルフェーヴルとジェンティルドンナが激しい叩き合いをし、長い審議となったジャパンCの2日後の晩、佐藤くんと山沖くんが私の家へ遊びに来ていた。
佐藤くんも山沖くんも39歳、どちらも郵便局勤務である。年齢も仕事も同じなのだが、人生の流れは違った。佐藤くんは28歳で結婚し、33歳で離婚。子供はいなかった。山沖くんは32歳で結婚。4歳の娘、2歳の息子の父親だ。
2年ほど前のこと、かんぽ生命保険のことだかで佐藤くんが私の家に来て、部屋の壁にかかっている競馬カレンダーに目を止め、
「ご主人は競馬がお好きなんですか?」
とかみさんに聞いたのがきっかけで、競馬を見に行きたいと思いはじめていた佐藤くんを、私が東京競馬場へ連れて行った。そのとき、佐藤くんといっしょに来たのが山沖くんで、
「今はあんまり馬券が買えなくて泣いてる男です」
と自己紹介をした。
ふたりとも横浜市戸塚区に住んでいて、私の家まで車で20分ほどだ。佐藤くんは酒好きだが、アルコールがダメな山沖くんが専属運転手のようである。
「ぼくの人生は、あんまり運に恵まれないけど、山沖の車に乗せてもらえるのは幸運です」
と佐藤くんが笑い、
「ぼくの幸運は、佐藤がいろいろと誘ってくれて、外出がOKということ。うちの奥さん、佐藤となら、外出は仕方ないと認めてるんです」
と山沖くんが笑う。
「ジャパンカップはどうだった?」
私が聞いた。競馬場で会えなかったけど、佐藤くんが競馬場に来ていたのは知っていた。
「ジェンティルドンナが降着で3着以下になったら困るなあって、決着するまでずうっと、動かずにカカシになってましたよ」
と佐藤くんが馬券を見せた。オルフェーヴルからジェンティルドンナへ、ルーラーシップへ、フェノーメノへの馬連を各1000円買っている。
「ぼくのはただのコワガリ馬券だけど、山沖のはチャレンジ馬券ですよ」
「チャレンジでもないけど」
と山沖くんが馬券を見せた。オルフェーヴルを2着と決めて、ジェンティルドンナから、ルーラーシップから、フェノーメノからの馬単3点を、各500円買っている。
「山沖くんはウインズへ行ったの?」
「佐藤に頼みました。独身時代はね、ジャパンカップは欠かさずライブで見てたけど、今はウインズへ行くのも苦労しますよ。ま、金もないから、それでいいんだけど。
ああ、そう、佐藤が競馬を好きになってくれて、ぼくは救われてる。でないと、競馬の話もしなくなっちゃう」
と山沖くんが言い、
「離婚した男の、悲しきメリット」
と佐藤くんがグラスのビールをぐいっとのんだ。
「よかったね、ふたりとも当たって」
私が乾杯の仕ぐさをし、
「もうねえ、穴なんか買えませんよ。必死に当てに行く。でないと、次が買えない」
山沖くんもウーロン茶のグラスを高く掲げた。
「相馬の話よ」
となりの部屋でかみさんの声がした。
佐藤くんが相馬市の出身である。私たちはとなりの部屋へ移った。
テレビ画面に相馬の荒野がひろがっている。
アベサトシさんという34歳の男が映った。あの東日本大震災で、タエさんという妻、3人の子供、義母を奪われてしまったという説明。
「明日死のう」
そればかり思ってアベサトシさんは生きていた日、タエさんが夢に出てきた。
「すごく怒った顔をして」
明日死のうというのは、逃げることでしょうと、そう怒っているタエさんの顔だとサトシさんは受けとった。
「妻も子供たちも母さんも、どうしたって取りかえせない。自分に取りかえすことができるのは、何だ、って考えて考えて考えぬいたら、仕事だけだって気がついた」
アベサトシさんはどうにか土地を見つけ、仲間を見つけ、トマトを作りはじめ、気が狂ったみたいに働き、重労働に耐えた。その農場の名を、「イグナルファーム」として。
イグナル?
「よくなる、という意味」
そうサトシさんが言うのを聞いて、
「おお、凄いネーミング」
と私は声をあげた。
佐藤くんの目に涙がたまり、山沖くんの目にも涙がたまり、かみさんの目にも涙がたまり、私の目にも涙がたまった。
「笑顔があれば、なんとか生きていける。笑顔があれば」
そう言うアベサトシさんの強さがつらい。
「こんど、夢に、家族のみんなが、笑って出てきてほしい」
その笑顔のように、イグナルファームにトマトが並んだ。
私たちは元の部屋へ戻った。
「ああ、ジェンティルドンナ。ああ、オルフェーヴル。ああ、競馬。ぼくは幸せなんだなあ」
そう言って佐藤くんが、アベサトシさんのことに意識が向いたのだろう、焼酎のお湯割りをつくったグラスを見つめている。
「もちろん、おれもしっかり頭に残すけど、なんだかあきらめてしまって、もううちの牧場からジャパンカップに出る馬なんて出ないよって決めちゃってるみたいな、北海道の牧場の若い人たちに、イグナルファームのビデオを送りたいなあ。
奥さんと、3人の子供たちを失ってしまって、明日死のうと思っていた男のイグナルファーム」
そう言って私は黙った。
佐藤くんも黙った。山沖くんも黙った。この、黙ったひとときが、とてもいい時間なのだと、そう感じて私は、うれしい日になったと思った。
佐藤くんが焼酎をのむ。山沖くんがミカンの皮をむいている。「イグナルファーム」と私が心で言い、テレビで見た赤いトマトのひとつを思いだした。
佐藤くんも山沖くんも39歳、どちらも郵便局勤務である。年齢も仕事も同じなのだが、人生の流れは違った。佐藤くんは28歳で結婚し、33歳で離婚。子供はいなかった。山沖くんは32歳で結婚。4歳の娘、2歳の息子の父親だ。
2年ほど前のこと、かんぽ生命保険のことだかで佐藤くんが私の家に来て、部屋の壁にかかっている競馬カレンダーに目を止め、
「ご主人は競馬がお好きなんですか?」
とかみさんに聞いたのがきっかけで、競馬を見に行きたいと思いはじめていた佐藤くんを、私が東京競馬場へ連れて行った。そのとき、佐藤くんといっしょに来たのが山沖くんで、
「今はあんまり馬券が買えなくて泣いてる男です」
と自己紹介をした。
ふたりとも横浜市戸塚区に住んでいて、私の家まで車で20分ほどだ。佐藤くんは酒好きだが、アルコールがダメな山沖くんが専属運転手のようである。
「ぼくの人生は、あんまり運に恵まれないけど、山沖の車に乗せてもらえるのは幸運です」
と佐藤くんが笑い、
「ぼくの幸運は、佐藤がいろいろと誘ってくれて、外出がOKということ。うちの奥さん、佐藤となら、外出は仕方ないと認めてるんです」
と山沖くんが笑う。
「ジャパンカップはどうだった?」
私が聞いた。競馬場で会えなかったけど、佐藤くんが競馬場に来ていたのは知っていた。
「ジェンティルドンナが降着で3着以下になったら困るなあって、決着するまでずうっと、動かずにカカシになってましたよ」
と佐藤くんが馬券を見せた。オルフェーヴルからジェンティルドンナへ、ルーラーシップへ、フェノーメノへの馬連を各1000円買っている。
「ぼくのはただのコワガリ馬券だけど、山沖のはチャレンジ馬券ですよ」
「チャレンジでもないけど」
と山沖くんが馬券を見せた。オルフェーヴルを2着と決めて、ジェンティルドンナから、ルーラーシップから、フェノーメノからの馬単3点を、各500円買っている。
「山沖くんはウインズへ行ったの?」
「佐藤に頼みました。独身時代はね、ジャパンカップは欠かさずライブで見てたけど、今はウインズへ行くのも苦労しますよ。ま、金もないから、それでいいんだけど。
ああ、そう、佐藤が競馬を好きになってくれて、ぼくは救われてる。でないと、競馬の話もしなくなっちゃう」
と山沖くんが言い、
「離婚した男の、悲しきメリット」
と佐藤くんがグラスのビールをぐいっとのんだ。
「よかったね、ふたりとも当たって」
私が乾杯の仕ぐさをし、
「もうねえ、穴なんか買えませんよ。必死に当てに行く。でないと、次が買えない」
山沖くんもウーロン茶のグラスを高く掲げた。
「相馬の話よ」
となりの部屋でかみさんの声がした。
佐藤くんが相馬市の出身である。私たちはとなりの部屋へ移った。
テレビ画面に相馬の荒野がひろがっている。
アベサトシさんという34歳の男が映った。あの東日本大震災で、タエさんという妻、3人の子供、義母を奪われてしまったという説明。
「明日死のう」
そればかり思ってアベサトシさんは生きていた日、タエさんが夢に出てきた。
「すごく怒った顔をして」
明日死のうというのは、逃げることでしょうと、そう怒っているタエさんの顔だとサトシさんは受けとった。
「妻も子供たちも母さんも、どうしたって取りかえせない。自分に取りかえすことができるのは、何だ、って考えて考えて考えぬいたら、仕事だけだって気がついた」
アベサトシさんはどうにか土地を見つけ、仲間を見つけ、トマトを作りはじめ、気が狂ったみたいに働き、重労働に耐えた。その農場の名を、「イグナルファーム」として。
イグナル?
「よくなる、という意味」
そうサトシさんが言うのを聞いて、
「おお、凄いネーミング」
と私は声をあげた。
佐藤くんの目に涙がたまり、山沖くんの目にも涙がたまり、かみさんの目にも涙がたまり、私の目にも涙がたまった。
「笑顔があれば、なんとか生きていける。笑顔があれば」
そう言うアベサトシさんの強さがつらい。
「こんど、夢に、家族のみんなが、笑って出てきてほしい」
その笑顔のように、イグナルファームにトマトが並んだ。
私たちは元の部屋へ戻った。
「ああ、ジェンティルドンナ。ああ、オルフェーヴル。ああ、競馬。ぼくは幸せなんだなあ」
そう言って佐藤くんが、アベサトシさんのことに意識が向いたのだろう、焼酎のお湯割りをつくったグラスを見つめている。
「もちろん、おれもしっかり頭に残すけど、なんだかあきらめてしまって、もううちの牧場からジャパンカップに出る馬なんて出ないよって決めちゃってるみたいな、北海道の牧場の若い人たちに、イグナルファームのビデオを送りたいなあ。
奥さんと、3人の子供たちを失ってしまって、明日死のうと思っていた男のイグナルファーム」
そう言って私は黙った。
佐藤くんも黙った。山沖くんも黙った。この、黙ったひとときが、とてもいい時間なのだと、そう感じて私は、うれしい日になったと思った。
佐藤くんが焼酎をのむ。山沖くんがミカンの皮をむいている。「イグナルファーム」と私が心で言い、テレビで見た赤いトマトのひとつを思いだした。