烏森発牧場行き
第220便 今年の弥生賞
2013.04.15
Tweet
左足の親指の爪を切っていて失敗し、小さな傷から菌が入ったのか腫れて痛みだし、夜中に目がさめたりした。
こっちの皮膚科はダメ、あっちの皮膚科に行きな、と娘が言うので、足を引きずってアッチノ皮膚科へ行くと、待合室は満員。
そこにあった新聞を読んで待つ。
『気持ちは、ずっと変わっていません。1人だけ残ってしまった。自分だけ生き残ってしまって、よかったのだろうか。思いは、いまも消えません。
落ち着ける場所がないんです。家がなくなってしまったからではない。いるべきはずの家族がいないから。
ただただ、家族に会いたい。それだけです』
38歳の男は、当時36歳の妻、当時14歳の長女、当時10歳の次女を津波で失った。あの日、3人は宮城県名取市閖上の自宅に、男は亘理町の職場にいた。
2011年3月11日から2年が過ぎようとするまでのあいだの、男の生活が書かれていて、読んでいる私は医院の待合室にいることを忘れてしまった。
『周りの方からは、「奥さんや娘さんのお墓を守るのがあなたの役目だよ」と言われることがあります。でも、いまはまだ、道筋が見えないんです。
あれから2年がたち、みんなが復興に向かって動いてます。でも、私は家族を失ったという思いにとどまっている。そんな気持ちを口にすることも難しくなっているように思う』
男は、時間があれば、閖上の自宅があった場所に行くという。
『いまは更地です。でも、仕事から帰ってきたあと、夜にでも行く。
そこに行くと、家族と暮らした日々を感じることができるんです』
と記事は終わった。
私は、何を、どう考えていいのかわからずに、目をつぶり、しばらくそのまま目をつぶり、
「あなたのことを読んで、何をどう考えていいのかわからず、ただ仕方なく目をつぶっています」
と閖上の更地に立ち尽くしている男に言った。
目をあけて、そこにいる人たちを見る。さっぱり顔ぶれが変わらない。あと、どのくらい待ったら名前を呼ばれるのだろうか。
また、そこにある新聞に手をのばす。
金色の台座にのった金色の左足の写真に目がとまる。
『サッカーのリオネル・メッシ選手=FCバルセロナ=の左足をかたどった実物大のオブジェ(純金製、重さ25キロ)が売り出された。1個だけの限定販売で、台座と合わせた参考価格は4億8,650万円。売り上げの一部は東日本大震災で被災した子どもの支援のため寄付されるという』
と記事を読む。
これから診断されるのを待っているおれの、と思いながら私は左足を見つめ、1銭にもならない足だと笑いたくなった。
オブジェになったメッシの黄金の左足が4億8,650万円で、その売り上げの一部は東日本大震災で被災した子どもの支援のため寄付されるというのが、私に嫌な気分をつくったのだ。
どうして嫌な気分になったのか。それを考えたいのだが、頭の整理はまるでつかずに、ぼんやりしてしまうだけだった。
90分待って名前を呼ばれた。
「消毒してクスリをつけてればすぐに治ります」
そう言う初老の女医に、家族を津波で奪われてしまった閖上の男のことを、メッシの黄金の左足のことを言ってみたいなぁと思ったが、常識がはたらいて黙った。
サンダル履きのまま電車に乗って蒲田へ行き、公務員で38歳のクニさんが待っている駅の近くの居酒屋に入った。
弥生賞を3日後にひかえた木曜日のこと、
「びっくりしました。うちの近所の飲み屋でね、となりにいた男が、2011年の弥生賞の、1000円買って当たってる馬単馬券をぼくに見せるんですよ。
1着サダムパテック。2着プレイ。馬単⑥-③、3130円。
コピーじゃないんです。払い戻しをしてないんですよ。
聞いたら、福島の相馬市にいた競馬好きの父親に電話で頼まれて、中山競馬場で買った馬券なんです。
当たり馬券、皐月賞を見に行くから、そのまま持っててくれやって言われて。
その弥生賞の5日後、3月11日、⑥-③を当てたおやじさん、津波で流されちゃった。
聞いて、おれ、ふるえがとまらなかった。
その男、聞いたら、はたちの大工なんです。大工の息子のぼくとしては親しみを感じました」
という電話をクニさんからもらい、
「はたちの大工に会いたいなあ」
と私が言い、会う段どりをクニさんがしてくれたのだ。
「今やってる現場が町田市で、どうしても8時すぎにと、さっきケイタイにかかって」
とクニさんが言う。はたちの大工が来るまでに、まだ、小一時間はかかりそうだ。
「おやじさん、死んで、何年になる?」
「もう6年。今年は7回忌をやらにゃ」
と言うクニさんの父親は社台グループの共有馬主クラブの会員だった人で、中学生だったクニさんを連れて牧場ツアーに来たりして私と知り合った。クニさんは5歳のときに、母親を病気で失っている。
「はたちの大工、ユウキという名前なんです。いろいろと話をしたら、ユウキも子供のころから父親とふたりの生活だったみたい。ぼくと似てる。
父親がいなくなって、ひとりになった。この世の中にひとりでいる。おんなじなんだけど、ぼくは父親を病気で、と納得がいくけど、ユウキは、津波に奪われたというのが、どうしても納得がいかないって。
今年の弥生賞、ぼくもユウキもあたらなかった。でもね、ぼくとしては、ユウキと知りあった弥生賞というわけで、すばらしいレースになりました。ユウキと会えてよかったです」
とクニさんが言い、私はうれしくなった。
こっちの皮膚科はダメ、あっちの皮膚科に行きな、と娘が言うので、足を引きずってアッチノ皮膚科へ行くと、待合室は満員。
そこにあった新聞を読んで待つ。
『気持ちは、ずっと変わっていません。1人だけ残ってしまった。自分だけ生き残ってしまって、よかったのだろうか。思いは、いまも消えません。
落ち着ける場所がないんです。家がなくなってしまったからではない。いるべきはずの家族がいないから。
ただただ、家族に会いたい。それだけです』
38歳の男は、当時36歳の妻、当時14歳の長女、当時10歳の次女を津波で失った。あの日、3人は宮城県名取市閖上の自宅に、男は亘理町の職場にいた。
2011年3月11日から2年が過ぎようとするまでのあいだの、男の生活が書かれていて、読んでいる私は医院の待合室にいることを忘れてしまった。
『周りの方からは、「奥さんや娘さんのお墓を守るのがあなたの役目だよ」と言われることがあります。でも、いまはまだ、道筋が見えないんです。
あれから2年がたち、みんなが復興に向かって動いてます。でも、私は家族を失ったという思いにとどまっている。そんな気持ちを口にすることも難しくなっているように思う』
男は、時間があれば、閖上の自宅があった場所に行くという。
『いまは更地です。でも、仕事から帰ってきたあと、夜にでも行く。
そこに行くと、家族と暮らした日々を感じることができるんです』
と記事は終わった。
私は、何を、どう考えていいのかわからずに、目をつぶり、しばらくそのまま目をつぶり、
「あなたのことを読んで、何をどう考えていいのかわからず、ただ仕方なく目をつぶっています」
と閖上の更地に立ち尽くしている男に言った。
目をあけて、そこにいる人たちを見る。さっぱり顔ぶれが変わらない。あと、どのくらい待ったら名前を呼ばれるのだろうか。
また、そこにある新聞に手をのばす。
金色の台座にのった金色の左足の写真に目がとまる。
『サッカーのリオネル・メッシ選手=FCバルセロナ=の左足をかたどった実物大のオブジェ(純金製、重さ25キロ)が売り出された。1個だけの限定販売で、台座と合わせた参考価格は4億8,650万円。売り上げの一部は東日本大震災で被災した子どもの支援のため寄付されるという』
と記事を読む。
これから診断されるのを待っているおれの、と思いながら私は左足を見つめ、1銭にもならない足だと笑いたくなった。
オブジェになったメッシの黄金の左足が4億8,650万円で、その売り上げの一部は東日本大震災で被災した子どもの支援のため寄付されるというのが、私に嫌な気分をつくったのだ。
どうして嫌な気分になったのか。それを考えたいのだが、頭の整理はまるでつかずに、ぼんやりしてしまうだけだった。
90分待って名前を呼ばれた。
「消毒してクスリをつけてればすぐに治ります」
そう言う初老の女医に、家族を津波で奪われてしまった閖上の男のことを、メッシの黄金の左足のことを言ってみたいなぁと思ったが、常識がはたらいて黙った。
サンダル履きのまま電車に乗って蒲田へ行き、公務員で38歳のクニさんが待っている駅の近くの居酒屋に入った。
弥生賞を3日後にひかえた木曜日のこと、
「びっくりしました。うちの近所の飲み屋でね、となりにいた男が、2011年の弥生賞の、1000円買って当たってる馬単馬券をぼくに見せるんですよ。
1着サダムパテック。2着プレイ。馬単⑥-③、3130円。
コピーじゃないんです。払い戻しをしてないんですよ。
聞いたら、福島の相馬市にいた競馬好きの父親に電話で頼まれて、中山競馬場で買った馬券なんです。
当たり馬券、皐月賞を見に行くから、そのまま持っててくれやって言われて。
その弥生賞の5日後、3月11日、⑥-③を当てたおやじさん、津波で流されちゃった。
聞いて、おれ、ふるえがとまらなかった。
その男、聞いたら、はたちの大工なんです。大工の息子のぼくとしては親しみを感じました」
という電話をクニさんからもらい、
「はたちの大工に会いたいなあ」
と私が言い、会う段どりをクニさんがしてくれたのだ。
「今やってる現場が町田市で、どうしても8時すぎにと、さっきケイタイにかかって」
とクニさんが言う。はたちの大工が来るまでに、まだ、小一時間はかかりそうだ。
「おやじさん、死んで、何年になる?」
「もう6年。今年は7回忌をやらにゃ」
と言うクニさんの父親は社台グループの共有馬主クラブの会員だった人で、中学生だったクニさんを連れて牧場ツアーに来たりして私と知り合った。クニさんは5歳のときに、母親を病気で失っている。
「はたちの大工、ユウキという名前なんです。いろいろと話をしたら、ユウキも子供のころから父親とふたりの生活だったみたい。ぼくと似てる。
父親がいなくなって、ひとりになった。この世の中にひとりでいる。おんなじなんだけど、ぼくは父親を病気で、と納得がいくけど、ユウキは、津波に奪われたというのが、どうしても納得がいかないって。
今年の弥生賞、ぼくもユウキもあたらなかった。でもね、ぼくとしては、ユウキと知りあった弥生賞というわけで、すばらしいレースになりました。ユウキと会えてよかったです」
とクニさんが言い、私はうれしくなった。