烏森発牧場行き
第221便 「らくや」のひと晩
2013.05.23
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2013年4月5日、金曜日の夜8時、
「おいでなんですけど」
と居酒屋「らくや」のママ、多恵さんから電話がきた。医師を引退した83歳のモネ先生が来たので、リョウさんも来てくれなければ困るというのが、多恵さんの「おいでなんですけど」である。
モネ先生は趣味で油絵を描く。フランスの画家オスカル・クロード・モネの「睡蓮」や「舟遊び」が夢の絵。モネが神さまで、「モネ先生」が愛称になった。
私は家から歩いて25分の「らくや」へ出かけた。たぶんモネ先生といっしょに、50歳の看護師のサザエさんがいるだろう。サザエさんもモネ先生から声がかかると、「らくや」をことわれない。というより、犬を相手のひとり暮らしのモネ先生が、サザエさんの仕事の都合を聞き、「らくや」へ同伴してもらうと言ったほうが正確だ。
モネ先生とサザエさんは、大きな病院での医師と看護師として同僚だったわけだが、「サザエさん」の愛称はモネ先生の命名だ。理由は単純。彼女の姓が長谷川で、あの「サザエさん」の原作者が長谷川町子だからである。
「らくや」は小さなカウンターに、テーブル席がふたつ。モネ先生とサザエさんと、調剤薬局を営む55歳のテラさんがテーブル席にいて、私はカウンターに腰かけた。
「ダルビッシュ、惜しかったね、あとひとりで」
乾杯したあと、テラさんが言った。
「でも、パーフェクトをやるより、あとひとりで、マーウィン・ゴンザレスにヒットを打たれたというほうが、ドラマとして深いよ」
そう私が言うと、
「その考え方が、リョウさんの出世を阻んでいるんです」
とモネ先生が笑い、
「だいいち、そのヒットを打った奴の名前までおぼえて言ったろ。つまり、どうでもいいことに必死になるんです。そういう人、出世しないんですね」
アハハ、アハハと声を立てた。
東スポの競馬の紙面を前に置き、「お願い」とサザエさんがメモと500円玉を1個、テラさんに渡し、私がメモを見せてもらった。
「4月6日。中山5Rモシモシ。11Rモグモグパクパク。12Rハシルヨミテテ。阪神3Rヨゾラニネガイヲ。福島12Rボタモチ」
と書いてある。
「今年、馬券を買うの、3度目」
と言うサザエさんは、日本人として意味がしっかりわかる馬名を選び、単勝を100円ずつ5頭買って遊ぶのだ。
サザエさんは私に手帳を見せてくれた。これまでの2度の結果を記録している。
「2月2日。東京8R春麗ジャンプS、ワシャモノタリン、セイエイ、ヒカルアカツキ。10Rボーイフレンド。京都10Rタンスチョキン」
セイエイが勝ち、なんと単勝9250円だった。
「3月17日。中山4Rセツナ。8Rボタモチ。11Rシンネン。阪神10Rモズ。中京6Rハシルヨミテテ」
この日は3勝。セツナ(290円)モズ(4950円)。ハシルヨミテテ(750円)。
「セイエイの単も凄いけど、3月17日の3勝というのも凄い。サザエさん、何か、持ってる」
と私がグラスを高く掲げると、サザエさんは腰をあげ、宙に投げキッスをしてテレた。
「この店でリョウさんに会わなければ、競馬なんか知らないで済んだ」
とモネ先生が言った。古希を過ぎたころにモネ先生は私と会い、馬券に誘われ、ハマったのだ。それでサザエさんも、モネ先生の馬券をウインズへ買いに行くテラさんも、馬券を知った。
「酔っぱらって眠っちゃう前に、リョウさん、エリオット、エリオット」
モネ先生が言うと、サザエさんもテラさんも、多恵さんも拍手をした。
エリオットの長編詩「荒地」の冒頭の4行を、暗記していて朗読し、そのあと、「この世であなたとお会いしたのが、幸運だったのか不運だったのか」とつぶやいてみせるのが私の芸のひとつなのだ。
その芸を初めて会ったモネ先生の前で演じ、それを気に入ったモネ先生は、それから私と会うと、忘れずにリクエストするのだった。
私はカウンターからおり、グラス片手に、
「四月はいちばん無情な月
死んだ土地からライラックを育てあげ
記憶と欲望とを混ぜあわし
精のない草木の根元を春の雨で掻きおこ す」
と深瀬基寛訳の詩句を言い、
「この世であなたとお会いしたのが」
神妙な顔になってみせると、
「幸運でしたわ」
と60歳の多恵さんが私の手を握り、恋人役を演じてくれた。
「らくや」から帰って布団に入り、「どうでもいいことに必死になるんだ」とモネ先生のセリフを思いだしながら眠った。
4月6日、阪神3R3歳未勝利、ダート1200㍍、16頭立て。テレビの前で発走を待ち、サザエさんが買った馬の名、「ヨゾラニネガイヲ」を私は心で言ってみた。
サザエさんは、娘が5歳で息子が2歳のときに、夫が交通事故死。誰の助けもなしに、子供を育てられたのは不思議、と私に話したことがある。
夜空に願いを。この意味をサザエさんはしっかりわかっている。そう私が思ったとき、ゲートがあき、4番人気のヨゾラニネガイヲが福永祐一の手綱で勝ち、私は泣きそうになってしまった。
4月7日、午後4時、私のケイタイが鳴った。
「モネ先生が桜花賞の馬連を2000円も当てました。武豊と幸四郎のワンツーがあるかもという予想を読んで、おれはデムーロ兄弟でいくとひねったのが図星。わたしはタケの兄弟馬券でいったので、アウト」
テラさんからだった。
「デムーロ!」
モネ先生に電話をかけ、私はいきなりそう言った。私だとわかってモネ先生は笑い声を聞かせ、馬券のことではなしに、「らくやのひと晩、ありがとう」と言った。なんだか私は感激して、電話で少し黙ってしまった。
「おいでなんですけど」
と居酒屋「らくや」のママ、多恵さんから電話がきた。医師を引退した83歳のモネ先生が来たので、リョウさんも来てくれなければ困るというのが、多恵さんの「おいでなんですけど」である。
モネ先生は趣味で油絵を描く。フランスの画家オスカル・クロード・モネの「睡蓮」や「舟遊び」が夢の絵。モネが神さまで、「モネ先生」が愛称になった。
私は家から歩いて25分の「らくや」へ出かけた。たぶんモネ先生といっしょに、50歳の看護師のサザエさんがいるだろう。サザエさんもモネ先生から声がかかると、「らくや」をことわれない。というより、犬を相手のひとり暮らしのモネ先生が、サザエさんの仕事の都合を聞き、「らくや」へ同伴してもらうと言ったほうが正確だ。
モネ先生とサザエさんは、大きな病院での医師と看護師として同僚だったわけだが、「サザエさん」の愛称はモネ先生の命名だ。理由は単純。彼女の姓が長谷川で、あの「サザエさん」の原作者が長谷川町子だからである。
「らくや」は小さなカウンターに、テーブル席がふたつ。モネ先生とサザエさんと、調剤薬局を営む55歳のテラさんがテーブル席にいて、私はカウンターに腰かけた。
「ダルビッシュ、惜しかったね、あとひとりで」
乾杯したあと、テラさんが言った。
「でも、パーフェクトをやるより、あとひとりで、マーウィン・ゴンザレスにヒットを打たれたというほうが、ドラマとして深いよ」
そう私が言うと、
「その考え方が、リョウさんの出世を阻んでいるんです」
とモネ先生が笑い、
「だいいち、そのヒットを打った奴の名前までおぼえて言ったろ。つまり、どうでもいいことに必死になるんです。そういう人、出世しないんですね」
アハハ、アハハと声を立てた。
東スポの競馬の紙面を前に置き、「お願い」とサザエさんがメモと500円玉を1個、テラさんに渡し、私がメモを見せてもらった。
「4月6日。中山5Rモシモシ。11Rモグモグパクパク。12Rハシルヨミテテ。阪神3Rヨゾラニネガイヲ。福島12Rボタモチ」
と書いてある。
「今年、馬券を買うの、3度目」
と言うサザエさんは、日本人として意味がしっかりわかる馬名を選び、単勝を100円ずつ5頭買って遊ぶのだ。
サザエさんは私に手帳を見せてくれた。これまでの2度の結果を記録している。
「2月2日。東京8R春麗ジャンプS、ワシャモノタリン、セイエイ、ヒカルアカツキ。10Rボーイフレンド。京都10Rタンスチョキン」
セイエイが勝ち、なんと単勝9250円だった。
「3月17日。中山4Rセツナ。8Rボタモチ。11Rシンネン。阪神10Rモズ。中京6Rハシルヨミテテ」
この日は3勝。セツナ(290円)モズ(4950円)。ハシルヨミテテ(750円)。
「セイエイの単も凄いけど、3月17日の3勝というのも凄い。サザエさん、何か、持ってる」
と私がグラスを高く掲げると、サザエさんは腰をあげ、宙に投げキッスをしてテレた。
「この店でリョウさんに会わなければ、競馬なんか知らないで済んだ」
とモネ先生が言った。古希を過ぎたころにモネ先生は私と会い、馬券に誘われ、ハマったのだ。それでサザエさんも、モネ先生の馬券をウインズへ買いに行くテラさんも、馬券を知った。
「酔っぱらって眠っちゃう前に、リョウさん、エリオット、エリオット」
モネ先生が言うと、サザエさんもテラさんも、多恵さんも拍手をした。
エリオットの長編詩「荒地」の冒頭の4行を、暗記していて朗読し、そのあと、「この世であなたとお会いしたのが、幸運だったのか不運だったのか」とつぶやいてみせるのが私の芸のひとつなのだ。
その芸を初めて会ったモネ先生の前で演じ、それを気に入ったモネ先生は、それから私と会うと、忘れずにリクエストするのだった。
私はカウンターからおり、グラス片手に、
「四月はいちばん無情な月
死んだ土地からライラックを育てあげ
記憶と欲望とを混ぜあわし
精のない草木の根元を春の雨で掻きおこ す」
と深瀬基寛訳の詩句を言い、
「この世であなたとお会いしたのが」
神妙な顔になってみせると、
「幸運でしたわ」
と60歳の多恵さんが私の手を握り、恋人役を演じてくれた。
「らくや」から帰って布団に入り、「どうでもいいことに必死になるんだ」とモネ先生のセリフを思いだしながら眠った。
4月6日、阪神3R3歳未勝利、ダート1200㍍、16頭立て。テレビの前で発走を待ち、サザエさんが買った馬の名、「ヨゾラニネガイヲ」を私は心で言ってみた。
サザエさんは、娘が5歳で息子が2歳のときに、夫が交通事故死。誰の助けもなしに、子供を育てられたのは不思議、と私に話したことがある。
夜空に願いを。この意味をサザエさんはしっかりわかっている。そう私が思ったとき、ゲートがあき、4番人気のヨゾラニネガイヲが福永祐一の手綱で勝ち、私は泣きそうになってしまった。
4月7日、午後4時、私のケイタイが鳴った。
「モネ先生が桜花賞の馬連を2000円も当てました。武豊と幸四郎のワンツーがあるかもという予想を読んで、おれはデムーロ兄弟でいくとひねったのが図星。わたしはタケの兄弟馬券でいったので、アウト」
テラさんからだった。
「デムーロ!」
モネ先生に電話をかけ、私はいきなりそう言った。私だとわかってモネ先生は笑い声を聞かせ、馬券のことではなしに、「らくやのひと晩、ありがとう」と言った。なんだか私は感激して、電話で少し黙ってしまった。