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第222便 さらさらいくよ

2013.06.18
 2013年2月下旬、
 「きびしい寒さもようやくゆるみ、早春の気配の待たれるこの頃、皆様元気にお過ごしのことと存じます。
 敗戦後間もなく、それぞれが戦火を逃れての先々から三々五々と今川小学校の門をくぐり、学び、遊び、泣き、笑い、卒業して64年。皆、数え、満の七七、喜寿の爺婆(ジジババ)と相成りました。
 前々回で話が出され、2年前の同期会で決まりました『今川小学校37回卒業最終同期会』を次のとおり企画させていただきました」
 という案内が届いた。日時は4月21日、午後12時半。
 小学校のラストクラス会は行きたい。皐月賞とぶつからなくてよかった。出席ハガキを出した。

 4月14日、第73回皐月賞。快晴だが強風の中山競馬場。午前11時、パドック近くのハイセイコー(第33回皐月賞1着)の像の前で知人と会う約束があった。5分過ぎても知人が来なくて、いらいら。
 「ヨシカワさん、ですよね」
 アゴひげをはやした中年の男に声をかけられたが、誰かわからない。
 「昔、大学の友だちが早来にいて、遊びに行った夏、音楽祭、フモンケ音楽祭へ行ったんです。高倉健と春の小川、今でも忘れません」
 アゴひげ男に握手を求められたとき、「すみません、すみません、すみません」と知人が2人の仲間と息を切らすように現れた。
 その空気で遠慮したのか、「どうも」、ぺこりと頭を下げてアゴひげ男は立ち去ってしまった。

 翌日、「私ノート・1992年」をひらいた。「8月28日、午後1時、早来町民センターに高倉健、宇崎竜童、清水春司(ギターを弾ける博報堂のディレクター)くる。早来町職員の照明係と私の5人で、3時半までリハーサル。本番は夜」
 と記録している。
 そのころのJRAのキャッチフレーズは、「あなたと話したい競馬があります」。テレビCMの顔が高倉健。北海道勇払郡早来町、吉田牧場での映像が多く、私も少し関係していた。
 「吉田牧場の皆さんにはお世話になったので、何かお礼がしたいなあ」
 高倉健が言いだし、吉田牧場主の吉田重雄さんと私が始めて十年になる「フモンケ音楽祭」のゲスト出演となり、宇崎竜童にも声をかけてくれた。
 コンサート第2部の初め、まだ薄闇のステージに登場した高倉健が、少しずつ明るみがひろがるなか、ピアノの前にいる女性ピアニストに花束を渡す段どり。「おっ、高倉健? 本物だべ」と300人の満席がどよめいた。
 「高倉さんたちの歌が終わって引っこんだあと、その明りのまま、春の小川」
 と製作と司会役だった私は、ギタリストの榎本裕之に、数日前に伝えた。高倉健という存在の重みと、しっかり渡りあえる音の深みを頼む。高倉健がいた空気に負けない音で客席を黙らせてくれよ、と私は榎本裕之に頼んだ。
 あのときの「春の小川」はすばらしかった、とたくさんの人が言ってくれたが、20年も過ぎた日に、まさか競馬場でと、アゴひげ男を思いだし、つかまえてもっと話をしたかったと悔いた。

 4月20日の夜、蒲田に住む石井信男の奥さんの芳子さんが、
 「今までも、何度も何度も言ってたけど、2日前かな、あの旅がいちばん楽しかったって、また言って、それからほとんど意識がないの。もうダメみたい」
 と電話で言い、これもまた吉田牧場につながる話だと私は思った。
 石井信男は私と同年。10年前まで大田区羽田の町工場での旋盤工だった。唯一の楽しみが競馬。
 1984年に1年間、吉田牧場で暮らしていた私の住居に遊びに来て、私と2泊3日で馬産地の旅をした。その旅が人生で最高の旅だったと、酒をのむと言ってくれ、私もうれしかったのだ。
 「明後日、行く」
 と私は芳子さんに言った。

 4月21日、雨のち晴れ。恵比寿ガーデンプレイス内「ビヤステーション」でのクラス会でたくさん笑い、そこから歩いてすぐの角屋邸(友だちの家)で二次会。夜8時、帰りの電車に乗った。
 私が1年生になったのは昭和18年。千代田区神田紺屋町22番地の今小。私の家は紺屋町41番地。よく空襲の警報サイレンが鳴り、教室から家へ逃げて走ったのを思いだすうち、クラス会でのひとりひとりのスピーチも浮かんで
 「あらためてといいますか、ひとりひとりに姓名がある人間の重さというものを、見つめているような毎日になりました」
 という佐藤吉之輔の言葉が聞こえた。
 彼は角川書店ひとすじに働き、取締役編集長をつとめた人だから、著名人との折衝が多い人生だった。その彼が、無名の人間の重みを口にしたのが私には新鮮だった。

 「石井信男。いしいのぶお」
 と私は心で言っていた。競馬が好きだった町工場の職人。秋田県北秋田郡から集団就職で東京に来た男。大森の酒場で知り合った古い友だち。
 そう思った私は、今日のクラス会にいた15人の姓名を書いてみたくなり、紙きれとボールペンを手にした。
 「荒井良一。懸照義。小林正太郎。山崎敞一郎。吉川良。隠岐孝子。角屋カヨ(旧姓羽生)。巌和子(三村)。中村都世子(松尾)。池田梅世(武田)。原野桂子(小山)。沼田智恵子(鈴木)。志津正子(玉置)。浅野富美子(柳沢)。佐藤吉之輔」
 女性には旧姓も書き、死んでしまった小学校の友だちの大田博、寺井美奈子も書いてぼんやりすると、ギターの「春の小川」が聞こえてきて、春の小川はさらさらいくよ、と心で歌っていた。
 「雨が降ったら行けません。傘を持つと、杖がうまく使えないのです」
 とクラス会の世話人をしてくれた荒井良一の、欠席ハガキを読む声が聞こえ
 「2月25日(1945年)、須田町の角まで来たら、三方が火で。よく逃げられた」
 と山崎敞一郎の声も聞こえてきた。
 4月21日、朝8時。「ダメでした。明け方に」、と芳子さんの電話がきた。少しして私は、メモ用紙に、「石井信男」、としっかり書いた。
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