烏森発牧場行き
第234 となりの声
2014.06.11
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よく晴れた日の朝、メーンレースがプリンシパルSの東京競馬場へ行く電車で座り、目を閉じていると頭のなかに、昨夜のテレビで見たシリアやウクライナやタイの紛争が映って、
「どうしてニンゲンはニンゲンと、殺しあったり奪いあったりしなければならないのかなあ。だったらオリンピックとかサッカーのワールドカップとか、盛りあがることもないじゃないか」
「おれは相変わらずに競馬だよ。うれしいな」
と誰かに言っていた。
競馬場へ着いてコーヒーショップに行き、ひと息ついてぼんやりすると、
「しばらくでした」
と目の前に宮下さんが立っていた。
「いいですか?」
「どうぞ」
と私が言い、テーブルをはさんで宮下さんが座った。
宮下さんは私の友だちの会社の同僚だった。その友だちは社台グループの共有馬主クラブ会員で、牧場ツアーに宮下さんを連れてきたことがある。何度か東京でも3人で酒をのんだが、その友だちが3年前に、62歳で死んでしまった。
「2年ぶりぐらいかなあ。銀座のウインズでお会いしましたよね。ライオンビヤホールへ行った」
と宮下さんが笑った。石油会社を定年退職してヒマになり、妹が営むレストランのレジ係をしているとか宮下さんが言っていたのを私は思いだした。
「そうそう、ヨシカワさんに見せたいなあって思ったものがあるんですよ」
「写真判定で紙屑になった超大穴券」
「いやあ、それが、ちがうんです」
宮下さんが財布から出した馬券を私の前に置いた。
先週の青葉賞で勝ったショウナンラグーンの単勝馬券で、500円買っている。
「凄い。いくらついたっけ?」
「18頭立て10番人気。5,310円」
「大久保洋吉調教師と吉田豊騎手の涙のドラマ」
「聞いてくれますか。青葉賞のパドックで、となりにいた老人が、いっしょの青年に、なんだか一生懸命に喋ってたんですよ。
この11番のショウナンラグーンはな、メジロドーベルの孫なんだ。メジロドーベルといえば洋吉と豊コンビの代表作だよ。
大久保洋吉は大久保末吉の息子。末吉はメジロムサシとかメジロオーとかメジロボサツを走らせた調教師。その一族にはナリタブライアンの大久保正陽調教師もいるんだ。
時代は流れてなあ、大久保洋吉も来年2月で定年だよ。今年のダービーが最後ってわけだ。ちょっと無理だろうけど、ショウナンラグーンをダービーのゲートに入れたいなあって思ってるだろうね。思ってるんじゃなくて、祈ってるかもしれないな。しかもドーベルの孫だし、なおさら。
その老人、ほんとに一生懸命、青年に喋ってるんですよ。それでわたしは、大久保洋吉と吉田豊のサンカルロのことを思いだしたんです。来週のマイラーズCを走るサンカルロは、デビューからの44戦だか45戦、横典がいちどだけ乗ってるけど、あとは全部、吉田豊が乗ってる。最近ではめったにないですよね、そういうの。
ネット時代に置いてけぼりの自分としては、洋吉と豊とサンカルロに感動して、この5戦くらい、サンカルロの単勝を買ってたんです。
買ったんですよ、ショウナンラグーンの単勝。
3コーナーもうしろにいて、4コーナーをまわっても、どこにいるのかわからなかったのに、じりじりじりじり追いあげてきたのが11番で、びっくりしちゃって、見てるのか見てないのかわからなくなっちゃって、1着と知ったときはふるえちゃって、ふるえがとまらなくて。
あくる日の新聞に、大久保洋吉調教師が引きあげてくるラグーンをむかえながら、涙をぬぐったと読んで、また少しふるえちゃった。ラグーンの母のメジロシャレードがドーベルの娘で、この血統がどうしても欲しいと大久保洋吉が、セレクトセールでオーナーに頼んだというのも書いてあった。シャレードは2戦しただけで事故で引退したから、調教師にはシャレードのリベンジもしたかったって。レースにふるえて、ドラマにふるえて」
「パドックのとなりの老人がいなかったら、買わなかった?」
「買わなかった。」
と宮下さんはその単勝馬券を手にはさみ、合掌をし、神妙な顔で財布に戻した。
「わたし、もうひとつ、となりの人の声で、というか言葉で、夢みたいな馬券を持ってたことがあるんですよ。
去年の秋、中山で、2歳未勝利のパドックを見てたんですよ。こうして何十年も馬を見てるけど、なんにもわからないよなあって思っていたら、となりにいたおばさんどうしのひとりが、14番がいい、名前がレッツサッチャーだし、なんだか走りそうという風を感じるって言ってる。
そのおばさん、ふっくらして、かわいくて、わたしのタイプなんですよ。
それでわたし、200円、レッツサッチャーを買ったんです。勝浦が乗っていて、ずうっと5番手くらいにいて、直線で抜けだして、サッチャーって叫んじゃった。
勝っちゃったんですよ。あとで知ったんですけど、芝のマイル戦の16頭立て12番人気で、1万5,320円でした。
トイレへ行っておしっこしながら、笑いがとまらない。あれも、となりの声だった」
「今日のプリンシパル、何を狙う?」
私が聞いた。
「おれのとなりの声は、このコーヒーショップでの宮下さんの声」
「ダメです。となりの声というのは、見ず知らずの人の声というわけですよ。
最近は、競馬場も場外も関係なく、ネットとかで馬券を買うのが主流なんですよね。
でも、そういう人たちには、となりの声というのがないんじゃないかなあ」
という宮下さんのセリフがうれしく、握手したくて私は右手をのばしてしまった。
「どうしてニンゲンはニンゲンと、殺しあったり奪いあったりしなければならないのかなあ。だったらオリンピックとかサッカーのワールドカップとか、盛りあがることもないじゃないか」
「おれは相変わらずに競馬だよ。うれしいな」
と誰かに言っていた。
競馬場へ着いてコーヒーショップに行き、ひと息ついてぼんやりすると、
「しばらくでした」
と目の前に宮下さんが立っていた。
「いいですか?」
「どうぞ」
と私が言い、テーブルをはさんで宮下さんが座った。
宮下さんは私の友だちの会社の同僚だった。その友だちは社台グループの共有馬主クラブ会員で、牧場ツアーに宮下さんを連れてきたことがある。何度か東京でも3人で酒をのんだが、その友だちが3年前に、62歳で死んでしまった。
「2年ぶりぐらいかなあ。銀座のウインズでお会いしましたよね。ライオンビヤホールへ行った」
と宮下さんが笑った。石油会社を定年退職してヒマになり、妹が営むレストランのレジ係をしているとか宮下さんが言っていたのを私は思いだした。
「そうそう、ヨシカワさんに見せたいなあって思ったものがあるんですよ」
「写真判定で紙屑になった超大穴券」
「いやあ、それが、ちがうんです」
宮下さんが財布から出した馬券を私の前に置いた。
先週の青葉賞で勝ったショウナンラグーンの単勝馬券で、500円買っている。
「凄い。いくらついたっけ?」
「18頭立て10番人気。5,310円」
「大久保洋吉調教師と吉田豊騎手の涙のドラマ」
「聞いてくれますか。青葉賞のパドックで、となりにいた老人が、いっしょの青年に、なんだか一生懸命に喋ってたんですよ。
この11番のショウナンラグーンはな、メジロドーベルの孫なんだ。メジロドーベルといえば洋吉と豊コンビの代表作だよ。
大久保洋吉は大久保末吉の息子。末吉はメジロムサシとかメジロオーとかメジロボサツを走らせた調教師。その一族にはナリタブライアンの大久保正陽調教師もいるんだ。
時代は流れてなあ、大久保洋吉も来年2月で定年だよ。今年のダービーが最後ってわけだ。ちょっと無理だろうけど、ショウナンラグーンをダービーのゲートに入れたいなあって思ってるだろうね。思ってるんじゃなくて、祈ってるかもしれないな。しかもドーベルの孫だし、なおさら。
その老人、ほんとに一生懸命、青年に喋ってるんですよ。それでわたしは、大久保洋吉と吉田豊のサンカルロのことを思いだしたんです。来週のマイラーズCを走るサンカルロは、デビューからの44戦だか45戦、横典がいちどだけ乗ってるけど、あとは全部、吉田豊が乗ってる。最近ではめったにないですよね、そういうの。
ネット時代に置いてけぼりの自分としては、洋吉と豊とサンカルロに感動して、この5戦くらい、サンカルロの単勝を買ってたんです。
買ったんですよ、ショウナンラグーンの単勝。
3コーナーもうしろにいて、4コーナーをまわっても、どこにいるのかわからなかったのに、じりじりじりじり追いあげてきたのが11番で、びっくりしちゃって、見てるのか見てないのかわからなくなっちゃって、1着と知ったときはふるえちゃって、ふるえがとまらなくて。
あくる日の新聞に、大久保洋吉調教師が引きあげてくるラグーンをむかえながら、涙をぬぐったと読んで、また少しふるえちゃった。ラグーンの母のメジロシャレードがドーベルの娘で、この血統がどうしても欲しいと大久保洋吉が、セレクトセールでオーナーに頼んだというのも書いてあった。シャレードは2戦しただけで事故で引退したから、調教師にはシャレードのリベンジもしたかったって。レースにふるえて、ドラマにふるえて」
「パドックのとなりの老人がいなかったら、買わなかった?」
「買わなかった。」
と宮下さんはその単勝馬券を手にはさみ、合掌をし、神妙な顔で財布に戻した。
「わたし、もうひとつ、となりの人の声で、というか言葉で、夢みたいな馬券を持ってたことがあるんですよ。
去年の秋、中山で、2歳未勝利のパドックを見てたんですよ。こうして何十年も馬を見てるけど、なんにもわからないよなあって思っていたら、となりにいたおばさんどうしのひとりが、14番がいい、名前がレッツサッチャーだし、なんだか走りそうという風を感じるって言ってる。
そのおばさん、ふっくらして、かわいくて、わたしのタイプなんですよ。
それでわたし、200円、レッツサッチャーを買ったんです。勝浦が乗っていて、ずうっと5番手くらいにいて、直線で抜けだして、サッチャーって叫んじゃった。
勝っちゃったんですよ。あとで知ったんですけど、芝のマイル戦の16頭立て12番人気で、1万5,320円でした。
トイレへ行っておしっこしながら、笑いがとまらない。あれも、となりの声だった」
「今日のプリンシパル、何を狙う?」
私が聞いた。
「おれのとなりの声は、このコーヒーショップでの宮下さんの声」
「ダメです。となりの声というのは、見ず知らずの人の声というわけですよ。
最近は、競馬場も場外も関係なく、ネットとかで馬券を買うのが主流なんですよね。
でも、そういう人たちには、となりの声というのがないんじゃないかなあ」
という宮下さんのセリフがうれしく、握手したくて私は右手をのばしてしまった。