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第233便 キリハヤテの日

2014.05.16
 「去年の夏に女房が死んでしまって、それからはずうっとひとり暮らし。ま、さびしいけど、仕方ないわなあ。
 仙台にいる息子も、水戸にいる娘も、そっちで暮らすわけにいかんから、よかったら近くに来たらいいって言ってくれるんだけども、ま、せめて、身体の動くうちは誰の世話にもなりたくないし、こっちで自由にしてる」
 と山形県の鶴岡市に住むヤマケンさんが電話してきた。
 「ヤマケンさんの声、何年ぶりだろう?」
 私が言い、
 「百年ぶりでねえべか」
 とヤマケンさんが笑った。
 1970年代の後半、40歳前後だった私は東京の神田の薬品問屋で働いていて、10歳年下の薬業界紙の記者だった通称ヤマケン(本名山田健一)と競馬場へよく行った。

 ヤマケンさんが薬業界紙の記者をやめ、奥さんの実家がある鶴岡市へ行ってから20年ぐらいが過ぎているだろうか。そのあいだ、賀状のやりとりはしていたが、ヤマケンさんがどんな仕事をしてきたのかも私は知らない。
 「何日か前、夕やけを見てたらね、或ることが頭に浮かんできて、なかなか消えないんだ。それをね、喋ってわかってくれるひとは、リョウさんしかいないって思ったら、どうしても会いたくなってしまったというわけよ」
 「おいでよ。百年ぶりにキリハヤテの話でもしようよ」
 そう私が言うと、
 「それ。それ、それ。その、キリハヤテの話をしないことには、死んでも死にきれんという気持ちになったわけよ。でも、どうして、どうしてリョウさん、キリハヤテが出てきた?」
 「おれのなかでは、ヤマケンといえばキリハヤテだべな」
 「いやいやいや、まいったな。まいった」
 とヤマケンさんはうれしそうな声になった。

 さくらの花が咲いている日の夕方、わが家にヤマケンさんが現われた。40代の半ばだった人が、60代の半ばになっている。
 「見たくないのはおたがいさまだ」
 と笑って私は、握手をしてヤマケンさんをむかえた。
 ビールをのんでくつろいできたヤマケンさんが、鞄から雑誌と本を出した。競馬雑誌「優駿」の1978年2月号で、テンポイントが表紙にいて、昭和52年年度代表馬と活字がある。本は「愛情69」というタイトルの、金子光晴の詩集だ。
 「優駿」のページをひらいてヤマケンさんが、私の前に置いた。赤いマジックペンで囲んであるのは、1977年12月11日の、中山競馬第10R、牝馬特別の成績である。1着キリハヤテ。騎手清水利章。馬主は本桐牧場。藤本富良厩舎。単勝8,820円。2着ボストンメリー。騎手は石神富士雄。
 その前の第9Rを見ると第29回朝日杯3歳Sで、1着がギャラントダンサー、騎手が吉永正人、馬主が吉田照哉で、松山康久厩舎だ。

 昔、秋葉原駅に近い川のほとりに、「らんぷ」という小さなバーがあり、そこで働いていた桐代という痩せた女に、独身だったヤマケンさんが惚れた。いろいろに誘ってみても乗ってくれなかった桐代が、自分から、いちど競馬場へ行ってみたいとヤマケンさんに言った。
 「桐代さんが来たので、キリハヤテという馬が歩いてる。キリハヤテのキリは桐代のキリ」
 パドックで桐代とキリハヤテを見ているヤマケンさんは夢のなかにいた。ラブレターを渡すつもりでキリハヤテの単勝馬券を買い、桐代に渡した。
 まさか。15頭立て14番人気のキリハヤテが勝ってしまったのだ。その日、ヤマケンさんと桐代は浅草で酒をのみ、ホテルで一夜を過した。
 次の日、桐代は「らんぷ」を無断で休み、それから姿を見せることなく、誰にも行方がわからない。
 「あの日のことは何だったんだろう。あの、うれしかった浅草の夜は何だったんだ。おれの頭のなかで、まぶしく光るんだ、桐代が」
 昔、ヤマケンさんは酔っぱらうと、何度も私にそれを言った。

 桐代が消えて3年ほどして、仕事の先輩が紹介してくれた郵便局勤務の女性とヤマケンさんは結婚した。その結婚祝いに私が、祝い金だけではつまらないと、いたずら半分、「愛情69」のなかの「愛情55」のページに栞をはさんで贈ったのだ。
 『はじめて抱きよせられて、女の存在がふはりと浮いて、なにもかも、男のなかに崩れ込むあの瞬間。
 五年、十年、三十年たつても、あの瞬間はいつも色あげしたやうで、あとのであひの退屈なくり返しを、償つてまだあまりがある。
 あの瞬間だけのために、男たちは、なんべんでも恋をする。
 あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、生きて来たかのやうに』
 と金子光晴は書いている。
 ヤマケンさんと私は、「らんぷ」とか「キリハヤテ」とか「桐代」の話をして酔っぱらった。
 「ごめん」
 私はあやまった。
 「これから結婚をするという友だちに、あの瞬間、と書いてある金子光晴の詩集を、お祝いに贈っただなんて、許されない。ごめん」
 「それはね、もし許されないとしても、もう時効だな。それにおれ、女房が生きてるあいだは、キリハヤテの日のことも、忘れるようにしてた。
 それがさ、最近、ひとりになってさ、夕やけなんか見てると、まぶしいくらいに、浅草のな、あのときのことが頭に出てくる。
 いやあ、不思議とも言えるんだげど、トシとって、何を頼りに生きていくべかなんて考えてるとさ、キリハヤテの日というか、浅草のことが、桐代のことが浮かんでくる」
 とヤマケンさんは何かを訴えるように喋るのだった。

 いつのまにか、おそい時間になっていた。
 「明日、中山へ行こうか?」
 と私が言い、
 「行きたい」
 とヤマケンさんが言った。
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