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第370便 労働

2025.10.10

 東京に用事があって出かける。帰りはJR東京駅から60分。横須賀線に乗ってJR鎌倉駅下車。それから京浜急行バスの鎌倉山行きに乗り、笛田というバス停でおりると、すぐに私の家。
 ところが最近、鎌倉山行きバスの本数がかなり減ってしまって困っている。調べたわけじゃないが、たぶん運転手不足が原因だろう。
 JR鎌倉駅から江の電バスの藤沢行きがある。こちらはそんなに本数は減っていない。鎌倉山行きも藤沢行きも、バス停笛田のひとつ手前の常盤口までは一緒。でも鎌倉山行きはそこから急カーブを曲がって山道をのぼるが、藤沢行きは曲がらずに次のバス停梶原口へ。
 常盤口から私の家へはほとんど急坂ののぼり。バス停笛田からは坂のくだり。私は3回も手術している心臓のゴキゲンをとりながら生きているので、常盤口から急坂ののぼりは無理。で、鎌倉山行きでないとアウトなのだ。
 どこでもバスの運転手不足は深刻のようだ。
 ウインズ横浜の近くの酒場で知りあった競馬友だちのナルセくんは30歳。植木職人である。仕事熱心がすばらしい。
 手を抜かない。ズルくない。それで誰かに紹介したくなる。ナルセくんはヒマがない。たまの休みにウインズ横浜。馬券が楽しみの人生。
 「話をしに行っていいですか」
 とナルセくんは、休みの日に私の家へ来るのも楽しみにしている。
 「ときどき若い見習いさんと一緒に仕事していたみたいだけど、うまく行ってる?」
 「この2年ほど、ぼくひとりでやってます。このごろの若い人、いっしょに仕事していて、仕事以上に気を使わなくちゃならないんで、ひとりのほうが仕事しやすい。
 どうなるんですかね。この先、植木職人になろうなんて若い人、どこにもいなくなっちゃうんじゃないですかね。今の若い人、みんな、身体を使う仕事、嫌いますよね。
 植木屋もそうだけど、大工の世界も若い人が入ってこなくて、この先、どうなるかなあって、けっこう聞きます。
 みんな、ネットとか、画面に向かってする仕事をしたいんじゃないですか。子供のころからネットと生きているし。
 ぼくは馬券をやりながら、けっこう思うことがあるんですけど、ジョッキーって、それは頭も使うにきまってるけど、身体にしみこんでるもので戦っている仕事じゃないですか。
 ナマイキな感じ方かもしれないけど、植木屋もジョッキーに似たところがあるなあって」
 とナルセくんはそんな話を聞かせてくれる。
 植木職人や大工さんの人手不足を思うと、やはりウインズ横浜に近い酒場で知りあった競馬友だちのタキタさんの顔が浮かんだ。タキタさんは68歳。入れ歯や差し歯を作る歯科技工士である。ナルセくんと同じく、歯科技工士のなり手不足が深刻なんです、という話を私にしたことを思いだしたのだ。 
 入れ歯には保険診療と自由診療の2種類がある。国のルールで総入れ歯でも製作費用に上限があり、3割負担の患者なら1万数千円、1割負担なら数千円で。見た目や付け心地にこだわる自由診療なら、総入れ歯で十数万円から数百万円。当然、保険診療の入れ歯を選ぶ人が多い。
 「歯科技工士のなり手不足が深刻なんですよ。作業も1日で10時間ぐらい続くし、時給もね、1,000円にいかないぐらいなんですよ。
 ひとつひとつが手作業だし、ネットで育つ今の若い人が苦手な仕事。
 高齢化がすすんで、入れ歯はますます必要になるのに、その作り手はどんどん少なくなってる」
 そういう話をしたタキタさんは、後日、公益社団法人「日本歯科技工士会」が2024年に行った調査結果を書いた書類を私に見せてくれた。
 それによると、年収400万円未満が44.6パーセント、約3割が1日の労働時間が11時間以上という現実。仕事上の問題について73パーセントの人が、「低価格、低賃金」と答えている。


 2025年8月31日の夕方、スマホが鳴ってタキタさんからだった。
 「今、ナルセくんと、野毛で飲んでます。ウインズでナルセくんと会ったの久しぶりでした。ヨシカワさん、いるかなあって探したけどいなかった」
 「おれ、ころんで、左の肩を骨折しちゃって、手術して入院してね、退院したばかりでさ、アウト」
 「それは大変でした」
 「今日は新潟記念」
 「夢のようなことが起きて、それで電話したくなって。わたしとナルセくんが、シランケドから殆ど          同じの馬単を買っていて、レース後に見せあってびっくり。
 いやあ、なんだか、なんだか世の中が変わって、なんだかシランケド、とシランケドという馬名に気分がハマって買ったら、ナルセくんも、わたしと同じような気分でシランケドから買ったって。
 それで乾杯ですよ。2着が1番人気で馬単も1,170円だったけど、ナルセくんと、万馬券を当てたような気分だねって」
 「すばらしい」
 と私もなんだか感動してしまった。
 タキタさんとの電話のあと、ひとり暮らしの無音とつきあいながら、タキタさんもナルセくんも、その人生を支えているのは労働だよなあと思い、おれも文章を書いて生活しているけれども、やはり労働だよなあと思うと、新潟記念を勝ったシランケドも、2着だったエネルジコも、競走馬としての労働に打ちこんでいるのだよなあと考えた。
 「労働」
 と言ってみる。シランケドの父はデクラレーションオブウォー、母はフェアブルーム。先ずは、その 父と母のタネつけに関わった人の労働、そのお産に立ち会った人の労働、その牝馬を育てた人の労働、シランケドと名づけられて厩舎に入ってからの厩務員や、調教に関わった調教助手の労働とか、いくつもいくつもの労働があるのだと、あたりまえのことを考えた。
 どうしてそんなふうに考えたのか。私が心配しても仕方ないのだが、これからどんどん労働に背を向ける人が増えると、競走馬生産の現場はどんなことになるのだろうと不安になるのだ。

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