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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第255便 野深卯助

 正月2日、年賀ハガキといっしょに届いた封筒の差出人が、岩手県紫波郡の野深卯助となっていた。

 ノブカウスケ?と読んで私は、ノブカは北海道浦河郡浦河町野深のノブカ、ウスケはそこにあった萩伏牧場の創業者である斉藤卯助のウスケだろうと思った。
 『盛岡に住む友人の家に、吉川良の競馬夢景色という本があって、作者の略歴のあとに住所が書いてあり、手紙を書こうと考えました』
 という書き出しの手紙の主は、1983年3月に牧場めぐりの旅をしていた青年で、私が滞在していた萩伏牧場で会い、二日間ほどのつきあいがあった人だった。
 言われてみれば、そんなことがあったかもと思うけれど、私の記憶では薄い影絵のようで、かえってなつかしかった。
 『厩舎の近くで吉川さんと話をしていたとき、通りかかった老人が、ぼくに何かを言ったのです。
吉川さんがぼくのことを、馬が好きで岩手から牧場を見にきたのだと老人に説明したら、老人がどう思ったのか、いきなり怒ったように喋りだし、ぼくには何を言ったのかわかりませんでした。
 それをあとで吉川さんが解説してくれたのです。若いのが牧場見物をして判ったようなことを言うけど、見ただけで牧場のことなんか判らない。どんな事も、身体を使って働いてみないで、頭でだけ判ったようなことを言う奴は人間のクズだと』
 そう言った老人は萩伏牧場を作った斎藤卯助さんで明治生まれ。杖をつかねば歩けなくなり、口も不自由になって、喋ると怒ったようになった。
 『しかし、この野深で卯助さんの言ったことは大切。あなたは、いわば野深卯助という老人と会った思い出を捨てないほうがいいと、牧場の雪道を歩きながら、吉川さんが言ったのです。
 野深卯助はぼくの貴重な思い出となり、高校の教師になってからの30年以上も、ときどき頭に浮かんできます。
それでこの手紙・野深卯助、という名前で出そうと思いつきました』

 手紙を読みながら私は、そうだ、その青年が乗っていたレンタカーで、「紋」という喫茶店へいっしょに行ったことも思いだした。
 1980年の桜花賞を勝ったハギノトップレディが繁殖牝馬となってイギリスへ渡り、ダービー馬グランディと種付けして萩伏へ戻り、桜花賞馬の初産を書く雑誌「優駿」の取材仕事で、1983年3月、私は萩伏牧場の寮に滞在していたのだった。
 差出人が野深卯助の手紙には、その人の本名と住所が書いてあったので、
 『人生でのありがたい手紙をいただき、うれしさこみあげました。
 野深卯助という名を差出人とした最高のユーモアもうれしく、人生での幸せを感じました。
 野深卯助からの手紙はぼくに、自分の父親を連れてきてくれました。ぼくの父親は、あまり喋らない人でしたが、酒をのみながら、頭が普通の人間は、めいっぱい身体を使って働けばいいのだ、と言ったのをぼくは忘れず、それでどうやら生きてこられたようなのです。
 たぶん卯助さんがあなたにいらいら、怒ったような言い方をしたとき、ぼくは自分のおやじと同じことを言いたいのだろうと感じていたのでしょう。
 チャンスあればお会いしたいですね。ぼくが岩手に出かけてもいいです。人生でのうれしい旅になりそうですし、それにあなたが、どんなふうに競馬とつきあってきたのかにも興味がありますし、盛岡競馬場で会うのもシャレてますし』
 と私は返事を書いた。

 その手紙に切手を貼って、しばらくぼんやり宙を見ていて、
 「ヤマピット、イットー、ニッポーキング、ハギノトップレディ、ハギノカムイオー、ノアノハコブネ」
 と心で呟いていた。卯助さんから長男の隆さんにつないだ萩伏牧場が生産した名馬たちだ。
 浦河の日赤病院のベッドで天井を見ていた卯助さんが浮かんだ。
 「おやじのとこに辻さんが見舞いに来てさ、ふたりとも無言で手を握りあって、どっちの目にも涙がたまって」
 と言っていた隆さんも浮かんだ。辻さんは辻牧場の辻芳雄さんで、ハイレコード、ヒロキミ、ニホンピロムーテー、タイセイホープ、ニホンピロエース、インターグロリアといったクラシック馬を生産している。
 その辻芳雄さんの死を知らせる電話を隆さんが受けたときも、私は萩伏牧場の居間にいた。電話を切ってずいぶん黙っていた隆さんが、
 「だんだん馬くさい人間がいなくなっちゃうなあ」
 と誰にともなしに言ったのを私はおぼえている。
 辻さんを追うように卯助さんも旅立った。そのときに私は北海道勇払郡早来の吉田牧場で暮らしていて、吉田重雄さんの車で告別式に向かった。
 「諸行無常」
 と運転しながら重雄さんが何度かつぶやいたのを私は記憶しているけれど、重雄さんももういない。
 まだ私は手紙に貼った切手を見ていた。調教師だった武田文吾さんが浮かんできた。卯助さんの告別式の写真を見上げて立っている姿だ。
 「君とはずいぶん長いつきあいだったなあ。.........やるだけやった。ぼくといっしょで、.........ムコウッキの強い、テキの多い、.........人生だった。」
 武田文吾さん、タケブンさんの弔詞である。
 そのずいぶん長いつきあいのなかに、シンザンがいる。
 1961年の夏のこと、
 「見せたい馬がいる」
 と卯助さんが浦河町姉茶の松橋吉松さんが営む牧場へタケブンさんを誘った。
 小さな牧場にいた骨格がたくましい当歳馬の牡は、曽祖母がバツカナムビユ―チーで、タケブンさんが騎手時代に騎乗していた馬だった。縁を感じてタケブンさんは、その血統名松風(のちのシンザン)を手元に置きたくなったという。
 私は手紙を持ってポストへ歩きながら、なんだかうれしい気分で、「ヤッホー!」とどこかへ、誰かへ、声をあげたくなっていた。