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第256便 ふたりの友だち

2016.04.11
 私の家からバスと電車で一時間かかる海辺の町の病院へ出かけた。
 「会いたいなあって言ってます」
 おととい、森井氏の娘さんから電話をもらったのだ。森井氏は病気に追いこまれている。
 森井氏は銀行に四十年間勤務。転勤が多く、退職してようやく私と同じ住宅地に落ち着いた。不運にも落ち着いて間もなく奥さんをガンで奪われ、その後に私と町会の集まりで知りあい、私の誘いで競馬を知り、競馬場へも行くようになった。
 ひとり暮らしが八年ほど続いた森井さんだったが、2015年の夏、膵臓に異常ありと診断され、あわただしく家を売却。娘さんの嫁ぎ先の近くの、ワンルームマンションに引っ越した。

 昨夜、私は自分の競馬ノートをめくった。
 2015年8月26日、私は森井氏と大井競馬場のナイターに行っている。東京とか中山には何度か行ったが、大井とか川崎とかには行ったことがないので、入院する前に行ってみたいと森井氏が言ってきて、それで「アフター5スター賞」がメーンの大井へ一緒に行ったのだった。
 大井競馬場のパドックに近いベンチで、
 「たぶん、これでしばらく、ビールともお別れですよ」
 と森井氏がひとりごとのように言ってビールの紙コップを、私の紙コップに寄せてきて、私は悲しい顔になるのを隠した。
 「アフター5スター賞」は15頭立て。1着は6番人気のジョーメテオ。2着がドンケツ人気のコアレスピューマで馬連が13万2,050円、馬単が21万4,620円。
 「あんな馬券を持ってたら気が狂っちゃいますね」
 と言った森井氏が、立会川駅へ歩きながら、
 「コアレスピューマは11歳で、最低人気で2着でしょう。わたしもあやかって、予想をくつがえして病気全快といきたいものだなあ」
 とこれもひとりごとのように言った。
 そうした去年の夏の、とりわけ紙コップの乾杯を思いだしながら海辺の町を歩き、会った森井氏はいくつものチューブにつながれて昏睡状態のままだった。
 「明日が誕生日なんです、父の。七十三歳」
 森井氏の眠りにつきあっただけとなった私を送るエレベーターの中で娘さんが言い、
 「そうだ。お父さんに渡してください」
 とエレベーターを出て私は、
 「大井、11歳馬、ドンケツ人気の2着」
 そう書いた手帳のページを引きちぎって娘さんに渡した。

 帰りの電車で私は線路ぎわの家の、空へひろがるコブシの花が咲いた白い景色を目にし、
 「去年だったか、町内会の集まりの帰り、山道で、大きなコブシの木が、まっ白に咲いているのを、いっしょに眺めた」
 と心のなかで森井氏に言った。
 寄り道をした大きな駅の近く、たくさんの人が行き交う道ばたで、
 「誰かに当たる6億円」
 と張りあげた声が聞こえてきた。
 ほんと、誰かに当たるんだよな、6億円、と私がその声の方を見ると、「6億円」と染めぬいた旗を持った男がいて、すぐ近くにあるジャンボ宝くじ売り場の宣伝だった。
 「当たれば天国6億円」
 と大声がし、そこへ目がいった私はびっくりして立ち止まり、「トノヤマタイジ」と思った。
 「おぼえてる?」
 私が声をかけた。男は私を見て、何秒か見つめて、困ったようなテレたような顔になり、
 「あれぇ!」
 とのけぞってみせた。
 10日ほど前、2月末のこと、ウインズ横浜で、阪神10R伊丹Sが、1番人気ラインルーフと2番人気ミツバで1着2着となったとき、
 「こんなのはカネモチしか買えないよ。馬連370円だって、10万円買ってた人もいるんだよな。
 10万円買ってりゃ凄いけどさ、おれみたいに200円だ300円だって買ってる奴には、こんなカタイのは買えないよね」
 ととなりにいた男が私に話かけてきたのだ。
 「ほんとだ。買えない」
 私が言い、
 「おれの言ってること、わかるだろ?」
 と男が笑いかけてきた。
 男のセリフも面白かったが、もっと私に面白かったのは、たぶん六十歳代後半と思えるその男が、昔の俳優、殿山泰司によく似ていて、声とか喋り方まで似ているような気がしたことだ。
 阪神11R阪急杯や中山11R中山記念を私は「トノヤマタイジ」といっしょに見たあと、阪急杯の馬連1,510円を300円当ててキゲンがよくなった「トノヤマタイジ」に、
 「殿山泰司という映画俳優がいたの、知ってる?」
 と私が聞き、
 「知らない」
 と声が返ってきた。
 ウインズでない場所で「トノヤマタイジ」にもういちど会うなんて不思議。そう思いながら、
 「ごめん。仕事の邪魔して」
 私が言うと、
 「誰かに当たる6億円。当たれば天国6億円」
 と「トノヤマタイジ」は声をはりあげた。
 「誰かに当たる3連単。当たれば天国WIN5」
 そう私がつぶやいてみると、
 「言ってみるかい、ここで」
 「トノヤマタイジ」はアハハと笑った。

 そこを離れた私は、駅前デパートの8階にあるレストランでビールをのんだ。
 スクリーンで笑う殿山泰司の顔を思いだし、「愛妻物語」、「裸の島」、「人間」、「ひめゆりの塔」、「黒い雨」、「楢山節考」とか、殿山泰司が出ていた映画の題名を思いだすまま、紙きれに書いてみた。
 「映画館で殿山泰司を見ているころは、まだ若かったよなあ、おれも。しかし、ずいぶん、じいさんになってしまったもんだ。
 今日は言葉を交わせなかったけど、森井氏に会ってきた。その帰りに、びっくり、トノヤマタイジに会ってしまった。
 ふたりの友だちに会った一日だったなあ」
 と誰かに手紙を書くようにしてビールをのんだ。
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