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第257便 カラジによろしく

2016.05.19
 昭次は18歳のときに高知県四万十市から神奈川県小田原市に来て大工の親方の家に住みこみ、大工の腕をつけてから藤沢市、鎌倉市へと移り住んだ。鎌倉にいた10年ほどのあいだ、私とは酒場友だち、競馬友だちだった。
 50歳の昭次をふたつの死が襲った。半年のあいだに妻の幸江と、高知にいた兄を病魔に奪われたのだ。横浜の病院で看護師をしていたひとり娘が結婚をした翌年のことである。
 「どうしたらいいのだろう」
 ひとり暮らしになった昭次が、私と草野球チームの仲間で仲よしの戸倉に相談をした。
 「離婚して子もいなかった兄がおふくろと同居してたんだが、おふくろがひとりになってしまった。76歳になるおふくろは、いろいろ悪くて、病院通いをしている。おれがおふくろをこっちへ呼ぶか、おれが高知へ戻っておふくろと暮らすか」
 という相談である。
 それは昭次自身が決めることで、他人がどうこう言える問題ではない、というのが私と戸倉の答えだった。
 何日かして、高知でおふくろと暮らす、仕事もどうにかなるさ、と昭次が結論を出し、私と戸倉と3人で、「昭次の鎌倉さよなら記念」と称して中山競馬場へ行った。2006年4月15日である。
 「なんだろう、この偶然。去年、おれ、一度だけ中山へ来てる。その日もメーンは中山グランドジャンプ。おれ、ブレット・スコット騎手のカラジの単勝5,000円、1点勝負で的中したんだ。1番人気で340円だったけど、うれしかったなぁ。
 今年もいるぞ、スコットのカラジ。11歳の騸馬だなんて、まるでおれだ。単勝1万円。1点勝負。鎌倉さよなら記念ジャンプ」
 と昭次はレース中、何度も何度も、「カラジ!」と叫んだ。
 2番人気で単勝320円のカラジは、4コーナーで先頭に立ち、1番人気テイエムドラゴンをクビ差しのいだ。
 昭次が鎌倉を離れる朝、羽田空港行きのバスが来る大船駅前のバス乗り場に、私と戸倉が見送りに行った。
 そこから見える山の上の白い大きな観音さまを見ながら昭次が、
 「おれ、32年、こっちにいたんだけど、中山の、カラジのレースが、その32年を、ひとつの絵みたいにしてくれて、頭に残った」
 そう言い、バスが来て私と握手をし、
 「カラジによろしく」
 と笑ってみせた。
 そのバス乗り場での昭次の笑顔は私にもひとつの絵になり、「カラジによろしく」は戸倉と私の大切な思い出のセリフになった。

 昭次が高知に戻って3年後に母親が亡くなった。ひとり暮らしになった昭次に、「こっちに移って来いや」と戸倉が声をかけたようだが、けっこう仕事が順調なのだと、昭次は高知を動かなかった。
 ときどき昭次は私に手紙を書いてきた。楽しみは高知競馬で、高知競馬場での時間が生活の救いになっているというふうなことが書いてある。
 2016年3月、鉄骨会社を定年退職したばかりの戸倉が脳出血に襲われ、どうにか快復へ向かったころ、病院へ見舞いに行った私が、昭次の「カラジによろしく」の思い出ばなしをすると、
 「おれは、さよならするとき、昭次によろしく、って言わなくちゃね」
 と戸倉が小声で言ったので、私は泣きそうになり、そのことを昭次に手紙で知らせた。
 それで昭次が4月1日、川崎の病院へ戸倉の見舞いに来て、私の家に泊まった。昭次は10年ぶりの鎌倉だった。
 「べつに隠していたわけじゃなく、そのうち手紙に書こうと思ってたんだけど、娘が離婚してね、5歳の息子と高知に戻ってきて、半年前からいっしょに暮らしてるんだ。
 人生、いろいろなことになるなあって、つくづく思う。これは言えないけどな、娘が離婚してくれて、おれにとっては幸運だ。
 さっき、病院で戸倉さんにそれを言ったら、うらやましいなあ、うちの娘はふたりとも離婚してくれないって笑ってた」
 と昭次が言い、
 「おれも、その幸運組のひとりさ」
 と私が笑った。
 4月2日、昭次と中山競馬場へと出かけた。
 「高知にいてね、よく思うんだけど、おれ、ほんとに、高知競馬に感謝してる。
 昔、競馬場があって、それがなくなってしまったところ、いくつもあるよね。その土地で競馬が好きで、競馬が張りあいだった人って、どんな気持ちだったかなあって、おれ、高知競馬場のスタンドに座って考えることがあるんだ。
 だってね、もし高知競馬がなかったら、おれみたいな奴、ずうっと高知にいられたかどうかわからない」
 と電車で座って昭次が言うので、
 「それこそ、高知競馬によろしく、ってことになるよね」
 そう私が言うと、
 「あのさ、10年前、おれが高知に戻ってすぐのころ、ヨシカワさんが、カラジによろしくっていうのは凄い祈りの言葉だ、と手紙に書いてきてくれたんだ。それから、おれ、ほんとに、何かあって、さびしかったり、どうにもならん気持ちになったときなんか、カラジによろしくって言って自分を落ち着かせてた。今でもそうだよ」
 昭次が笑った。

 中山競馬場へ着いた。第6R3歳未勝利の16頭がパドックを歩いていた。
 「10年ぶりのご挨拶として、1番人気の単と、1番人気と2番人気での馬単2点を買いますよ。それでハズれても、自分のせいじゃない」
 1番人気④タンサンドール。2番人気⑭ロードゼフィール。④の単、馬単④-⑭、⑭-④を各1,000円買ってスタンドへ歩きながら昭次が、
 「カラジ、頼みますよ」
 とつぶやいた。
 なんと、④の単390円。馬単④-⑭1,630円が的中した。
 「カラジによろしく」
 私が言って昭次と握手をした。
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