烏森発牧場行き
第258便 ピロスマニ
2016.06.14
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印鑑証明をもらいに市役所へ行った5月2日、そこから近い鎌倉駅周辺は、連休の人出でごったがえしていた。公民館の椅子で汗をふいて休み、催し物の宣伝物のある棚へと行った私は、「放浪の画家ピロスマニ」という活字にドキッとし、息を詰めてしまった。
その広告チラシを抜いて椅子に戻る。鎌倉市川喜多映画記念館で、4月30日(土)午前10時30分、5月1日(日)午後2時、5月3日(火・祝)午前10時30分、5月4日(水・祝)午後2時と、映画「放浪の画家ピロスマニ」の上映が4回あるのだ。
「ピロスマニ」
と私は3度ほど、声にはせずに言ってみた。
昔、たしか有楽町駅に近い小さな映画館で、「放浪の画家ピロスマニ」を私は見ている。その後、日本での美術展にも行き、画集を買ったが友だちに貸し、その友だちが行方不明で画集が戻らなかった。ふとピロスマニを、星のように思ってきた。
不思議なほどにピロスマニの絵のいくつが、私の頭に残っているのだ。牛の絵、静物、大草原。「女優マルガリータ」、白い家、「オルガン弾きダピコ・ゼメルとの宴」などだ。絵の題名をおぼえているのは、けっして忘れまいと思い続けていたからだ。
広告チラシの解説の文章を読んでみると、日本での映画公開は1978(昭和53)年で私は41歳、美術展があったのは1986(昭和61)年だった。
川喜多映画記念館の定員は60名である。そこにある番号の電話をかけてみると、5月4日の切符は残り22ということだ。公民館のとなりの書店がチケット販売をしていて、私は5月4日の切符を手にした。
「ピロスマニの本名はニコロス・ピエロスマナシュヴィリ(1862-1918)。コーカサス山脈の南にある国グルジアで、日々の糧とひきかえに店に飾る絵や看板を描き、貧しく孤独のうちに亡くなった。絵は人々の暮らしや人物、静物、風景など、グルジアの風土に育まれた世界を独特な素朴な筆致で描いたもので、その数は1000点から2000点といわれている。死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛されている」
と解説文を読みながら、
「おい、じいさん。ピロスマニに会えるなんて、すばらしい連休になったもんだ」
そう私は自分に笑いかけた。
5月4日、60人が集まった暗い空間で90分間、昔のグルジアの光と風、人たち、風景、ピロスマニの映像を息をのんだように見つめ、ひとり旅をしているような気分で席を立った。同じ館内で「原節子展」をやっている。ピロスマニと原節子。おれにとっては豪華な日だと、そのフロアへ入った瞬間、
「おやおやおや」
と言いながら少しのけぞった佐竹さんがいた。
5年ぐらい前までは、横浜の野毛にあった喫茶店「サンパウロ」で、よく週末の半日をいっしょに過ごした馬券仲間である。「サンパウロ」が閉店してしまってからは、佐竹さんは引っ越しをして新横浜のウインズが近くなったとか、賀状のやりとりだけになっていた。
普通には歩けない人出の通りを避けて、佐竹さんと私は、人の姿がめったにない路地から路地へ抜ける。
「かみさんが転んで腰を痛めて、だいぶよくなったが外へ出ない。あなたは競馬がないと外へ行かないわね。世間は連休なんだし、どこか眺めてきなさいよなんて言うから、かみさんに見栄はって出てきたわけ。理由もなく鎌倉へ来て、案内所で原節子展のチラシを見て」
「おれはおふくろや姉さんにくっついて原節子の映画を見てるけど、たしかおれより10才若い佐竹さんは見てないよね」
「見てない。ずうっとあとになって、名画座で小津安二郎作品の特集なんかやっていて、晩春とか東京物語とかで原節子を見た」
そういう佐竹さんは六十代半ばまで、女子短大で国語を教えていた。
市役所の近くに木陰のベンチがあり、腰をおろした。さりげなく佐竹さんが財布から一枚の馬券をつまみだし、私に見せる。
「お見事!」
と私が言った。3日前の天皇賞の、カレンミロティックのがんばれ馬券、単複を各500円の馬券である。
「キタサンブラックとカレンミロティックのゴール前のハナ差勝負、目に焼きついた」
私が言い、
「カレンは複勝で1,390円。勝ってれば単勝は99.2倍だったのになあ」
佐竹さんがくやしい顔になった。
「わかった!」
ピストルを向けるように私が佐竹さんに人差し指を突きつけ、
「佐藤洋一郎」
そう言った。
「ご名答」
佐竹さんが笑った。
私は佐竹さんがサンスポ紙の佐藤洋一郎記者の予想ファンなのを知っている。
『3200㍍の前半5ハロンを61秒4で先導し、上り3ハロンをすべて12秒0以内で踏んばる。その心臓は並大抵の強さではない』
とカレンミロティックに本命を打っていた佐藤洋一郎の予想を私も読んでいて、レース後に読みかえしたものだ。
「天皇賞の日、ウインズで、自分は佐藤洋一郎のコラムを何年読んできたのだろうと考えたの。そうしたらカレンミロティックを買おうと決めた。
でも、1,000円買えなくて、500円というのが、わたしの悲しさだなあ」
馬券を財布に戻した佐竹さんが小さく息を吐いた。
佐竹さんが黙り、私も黙った。私の脳裏に、映画「放浪の画家ピロスマニ」の、男たちがテーブルを囲んで酒をのんでいるシーンが映った。
「ビール、のみに行きませんか」
私は自分がピロスマニのように孤独だという気分になっている。
「うれしい日になった」
と佐竹さんがつぶやいた。
その広告チラシを抜いて椅子に戻る。鎌倉市川喜多映画記念館で、4月30日(土)午前10時30分、5月1日(日)午後2時、5月3日(火・祝)午前10時30分、5月4日(水・祝)午後2時と、映画「放浪の画家ピロスマニ」の上映が4回あるのだ。
「ピロスマニ」
と私は3度ほど、声にはせずに言ってみた。
昔、たしか有楽町駅に近い小さな映画館で、「放浪の画家ピロスマニ」を私は見ている。その後、日本での美術展にも行き、画集を買ったが友だちに貸し、その友だちが行方不明で画集が戻らなかった。ふとピロスマニを、星のように思ってきた。
不思議なほどにピロスマニの絵のいくつが、私の頭に残っているのだ。牛の絵、静物、大草原。「女優マルガリータ」、白い家、「オルガン弾きダピコ・ゼメルとの宴」などだ。絵の題名をおぼえているのは、けっして忘れまいと思い続けていたからだ。
広告チラシの解説の文章を読んでみると、日本での映画公開は1978(昭和53)年で私は41歳、美術展があったのは1986(昭和61)年だった。
川喜多映画記念館の定員は60名である。そこにある番号の電話をかけてみると、5月4日の切符は残り22ということだ。公民館のとなりの書店がチケット販売をしていて、私は5月4日の切符を手にした。
「ピロスマニの本名はニコロス・ピエロスマナシュヴィリ(1862-1918)。コーカサス山脈の南にある国グルジアで、日々の糧とひきかえに店に飾る絵や看板を描き、貧しく孤独のうちに亡くなった。絵は人々の暮らしや人物、静物、風景など、グルジアの風土に育まれた世界を独特な素朴な筆致で描いたもので、その数は1000点から2000点といわれている。死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛されている」
と解説文を読みながら、
「おい、じいさん。ピロスマニに会えるなんて、すばらしい連休になったもんだ」
そう私は自分に笑いかけた。
5月4日、60人が集まった暗い空間で90分間、昔のグルジアの光と風、人たち、風景、ピロスマニの映像を息をのんだように見つめ、ひとり旅をしているような気分で席を立った。同じ館内で「原節子展」をやっている。ピロスマニと原節子。おれにとっては豪華な日だと、そのフロアへ入った瞬間、
「おやおやおや」
と言いながら少しのけぞった佐竹さんがいた。
5年ぐらい前までは、横浜の野毛にあった喫茶店「サンパウロ」で、よく週末の半日をいっしょに過ごした馬券仲間である。「サンパウロ」が閉店してしまってからは、佐竹さんは引っ越しをして新横浜のウインズが近くなったとか、賀状のやりとりだけになっていた。
普通には歩けない人出の通りを避けて、佐竹さんと私は、人の姿がめったにない路地から路地へ抜ける。
「かみさんが転んで腰を痛めて、だいぶよくなったが外へ出ない。あなたは競馬がないと外へ行かないわね。世間は連休なんだし、どこか眺めてきなさいよなんて言うから、かみさんに見栄はって出てきたわけ。理由もなく鎌倉へ来て、案内所で原節子展のチラシを見て」
「おれはおふくろや姉さんにくっついて原節子の映画を見てるけど、たしかおれより10才若い佐竹さんは見てないよね」
「見てない。ずうっとあとになって、名画座で小津安二郎作品の特集なんかやっていて、晩春とか東京物語とかで原節子を見た」
そういう佐竹さんは六十代半ばまで、女子短大で国語を教えていた。
市役所の近くに木陰のベンチがあり、腰をおろした。さりげなく佐竹さんが財布から一枚の馬券をつまみだし、私に見せる。
「お見事!」
と私が言った。3日前の天皇賞の、カレンミロティックのがんばれ馬券、単複を各500円の馬券である。
「キタサンブラックとカレンミロティックのゴール前のハナ差勝負、目に焼きついた」
私が言い、
「カレンは複勝で1,390円。勝ってれば単勝は99.2倍だったのになあ」
佐竹さんがくやしい顔になった。
「わかった!」
ピストルを向けるように私が佐竹さんに人差し指を突きつけ、
「佐藤洋一郎」
そう言った。
「ご名答」
佐竹さんが笑った。
私は佐竹さんがサンスポ紙の佐藤洋一郎記者の予想ファンなのを知っている。
『3200㍍の前半5ハロンを61秒4で先導し、上り3ハロンをすべて12秒0以内で踏んばる。その心臓は並大抵の強さではない』
とカレンミロティックに本命を打っていた佐藤洋一郎の予想を私も読んでいて、レース後に読みかえしたものだ。
「天皇賞の日、ウインズで、自分は佐藤洋一郎のコラムを何年読んできたのだろうと考えたの。そうしたらカレンミロティックを買おうと決めた。
でも、1,000円買えなくて、500円というのが、わたしの悲しさだなあ」
馬券を財布に戻した佐竹さんが小さく息を吐いた。
佐竹さんが黙り、私も黙った。私の脳裏に、映画「放浪の画家ピロスマニ」の、男たちがテーブルを囲んで酒をのんでいるシーンが映った。
「ビール、のみに行きませんか」
私は自分がピロスマニのように孤独だという気分になっている。
「うれしい日になった」
と佐竹さんがつぶやいた。