烏森発牧場行き
第359便 私的競馬史
2024年9月29日、第58回スプリンターズSは、西村淳也騎乗、16頭立て9番人気のルガルが勝った。馬名はシュメル語で「王」。シュメルは、メソポタミアにおこり、バビロニア、アッシリア文明の母胎となった最古の都市文明となった名。
24度目のGⅠ挑戦で初めて勝った西村騎手はゴール後のルガルの背で泣き、ヒーローインタビューで何度も、「レースのことは何もおぼえていません」とコメントし、「幸せです」も連発した。競馬は、そういうことでもあるよなあと、私も少し息詰まるように西村騎手の声を聞いた。
その日の夜、明日は「日本中央競馬会創立70周年記念式典」に出かけるので、夏だか秋だか分からない日の背広はどれかと苦心して用意し、食卓のテーブルで落ち着いて、70年というと設立は1954(昭和29)年で、おれ17歳、ダービー馬は岩下密政騎乗のゴールデンウェーブ。競馬大好きの二人の兄にくっついて、競馬場で見てるんだよなあと思った。
中央競馬会の初代理事長は安田伊左衛門(その名を冠にしたのが安田記念)、次の理事長が有馬賴寧(その名を冠にして中山グランプリが、のちの有馬記念)になったとか思いながら、私の場合、自分と競馬のつながりの来し方を思うと、社台ファームを作った吉田善哉の声が聞こえてこる。
前にも書いたことだが、私は1966(昭和41)年から3年間、札幌で貴金属会社の営業マンをし、休日には3歳の娘をつれて、白老の社台ファーム白老の外から牧場の景色を見ながら遊んでいた。
1983(昭和58)年、東京に戻って競馬のことを書くようになり、加藤和宏騎乗アンバーシャダイが春の天皇賞を勝った祝いの会で、それまで言葉を交わしたことのなかった吉田善哉に「あなたをどこかで見かけてるなあ」と声をかけられたのがきっかけで交流が始まった。
社台ファームは千葉の富里に牧場があり、よく吉田善哉のお供で東京から一緒に車で行った。
車に電話がついた時の吉田善哉のうれしさを忘れられない。吉田善哉はいつだって社台ファームの馬の状況を知っていたくて、白老へ日に何度も電話するのだ。その連絡が思いどおりに出来るのがうれしくてたまらないのだ。
吉田善哉のうれしさといえば、ファックスが事務所に登場した時も、「こいつは偉い」とご機嫌だった。吉田善哉の何よりの値打ちは、白老から富里から、美浦トレセンから栗東トレセンからの、生産馬の今日の状態だった。
その連絡について思いだしていると、富里で女番頭と言われた大野きよが浮かんでくる。
大野きよの家に遊びに行った私に、
「これ、見てよ。わたしの大切なもので捨てられないのよ」
と見せたのは、ダンボール箱にぎっしりの大学ノート。
「白老にいても親分(吉田善哉のこと)は、日に何度か電話してきて、馬のことを聞いてくるの。でね、電話代はバカにできないから、聞かれたことをすらすら返事しないと怒りだすの。それで何を聞かれても、すぐに答えられるように、質問を予想して、準備して書いておくのよ。
わたしには怒鳴ってばかりだけど、かげでは、きよは大した番頭だって言ってたらしいから許せるの」
と大野きよは笑っていた。
その大学ノートを思いだすと、松山吉三郎の手帳も目に浮かんでくるなあ。調教師を引退して美浦から府中に移り住んだ松山吉三郎を訪ねた時、
「これ、見てくれよ。昔はなあ」
と見せられたのは、大野きよと同じくダンボール箱に詰めこまれた黒い表紙の手帳だった。
「気が小さいのかね、わたしは、その日のことや、馬主に連絡しなければならないことなんかを、どんなに小さなことでも、手帳に書きとめないと落ち着かないしね、それが自分の、とても大事な仕事と思っていたんだね。
いらなくなったら捨てればいいのだが、これがね、何年か過ぎてから読むのも自分の楽しみで」
と笑顔になった。
松山吉三郎から聞いた話で私が忘れられないのは、靴と髪の毛の思い出である。まだ何もかも見習い修業中の松山吉三郎が、ある日、師匠の尾形藤吉に頭を殴られた。
「めったに怒らなかった師匠が、よほど怒ったのは、わたしのよほどの失敗だったんだなあ」
玄関先で外出する師匠の靴を、吉三郎少年がそろえておいたのだが、それが間違った靴を並べておいたようだ。
吉三郎少年は、殴られた頭の髪の毛をハサミで切り、自分が苦心して買った靴に、新聞紙に包んだ髪を詰め、そこに、「今に立派な騎手になってみせる」と書いた半紙も詰め、自分の持ち物のなかに入れておいたというエピソードを聞いた時、その靴からスウヰイスーやフェアーウィンやモンテプリンスやダイナガリバーといった名馬たちが、その靴から誕生したのではないかと思ってしまった。
ああ、競馬会創立70周年は、私にもさまざまな思い出を作ってくれたものだなあと息を吐くうち、コップ酒が目の前に置かれる夜がよみがえった。シンボリ牧場の和田共弘は、私が遅い時間までシンボリ牧場をうろうろしていると、いつからだったか奥さんに言って、事務所の机にコップ酒を持ってこさせた。
この人に馬の話をしても仕方ないと思っていたのか、和田共弘は私と二人だけの時間になると、海軍にいた時の思い出話をすることが多く、仲間のほとんどは海で死んで、自分が生き残ったのは不思議なことだという思いを、ありがたくコップ酒を啜っている私に伝えた。
ああ、明日、競馬会創立70周年の式典がと思って、吉田善哉、大野きよ、松山吉三郎、和田共弘と思いだしていると、サクラが冠名の馬主の、全演植の笑顔もよみがえってきた。何とはなしに親しくなって、競馬場のレストランで会って、コーヒーをのむのを楽しみにしてくれた。そう、全演植の告別式の2日後、小島太騎乗のサクラバクシンオーがスプリンターズSを勝ったのだった。
9月30日、創立70周年式典の会場からパーティー会場へと移動する人の波のなかで、顔が合った吉田善哉の長男の吉田照哉が、にっこりと笑って手を振ってくれた。この人、いつも笑顔だな。その笑顔、救いになるなあ、と私はうれしかった。