烏森発牧場行き
第269便 石井さんの話
2017.05.17
Tweet
4月3日、月曜日の夜8時すぎ、海辺にあるカフェバーのマスターから電話がきて、
「今日はもう歩いたんですか?」
と言うのだ。私がなるべく毎日、健康のために6,000歩ぐらい歩くようにしているのを60歳のマスターは知っているのだ。
「まだ今日は歩数ゼロ」
そう私が言うと、
「では、これから3,500歩ほど歩きましょう。歩かないと長生きできませんよ。ああ、そうか、もう長生きしてるのか」
とマスターが笑った。そのカフェバーまで私の家から3,500歩なのもマスターは知っている。
ワケがなければ電話をしてこないマスターなので、
「何か、あるの?」
私が聞き、
「ちょっと相談に乗ってほしいという人がここにいるの。ま、遊びごとなんだけど」
またマスターが笑った。
ビールをのみ、夕食を済ませたあとなので面倒な気もしたが、声のかかるうちがハナと自分に声をかけ、私は3,500歩、動いた。カフェバーに着くまで、いくつかさくら並木があり、いつもなら散りはじめのころだが、今年は3月下旬の天気の具合で、まだ殆ど3分咲きだった。
カフェバーのカウンターにいた白髪の老人をマスターが、
「石井さん。10年前まで商社マン。2年前に奥さんに死なれ、娘さんはドイツにいて、只今ひとり暮らし。去年の有馬記念をわたしが買わせたの。
サトノダイヤモンドとキタサンブラックの馬連を5,000円買い、当たり。幸か不幸か、それ以来、日曜日はウインズに出勤。競馬場は中山と東京にわたしが添乗員になって行きました」
と私に紹介し、
「飼い犬のボンだけが頼りだったけど、マスターが競馬を教えてくれて、今はボンと馬券を頼りにしてます」
と石井さんが笑顔になった。
初対面の乾杯をしたあと、
「ぼくの知りあいに、やはり商社マンだった人がいて、老後に飼った柴犬にルートンという名をつけた。彼はイギリス滞在が長くて、ルートンという土地で暮らしていたとか。
ひょっとして石井さんの犬のボンも、ドイツの地名からですか?」
そう私が言うと、目をまるくした石井さんは何も言わずに、私に握手をしてきた。
ゆっくりとしたピアノ曲が店に流れている。
「おれ、生きていて、ピアノの音を聞いている。ああ、じいさんになると、そんな意識をして、まるでピアノの曲が恋びとみたいだ」
そんなこと言うわけにもいかないと、黙ってウイスキーをのんでいる80歳になった私に、
「石井さんの話、聞いてやってください」
と言ってマスターは、カウンターの隅に移ってほかの客の話相手になった。
「じつはですね」
石井さんは財布から2枚の馬券を出して、
「昨日、船橋市市制施行80周年記念というレースがありました。わたしの両親は、もうとっくにいませんが、船橋市の出身なんですよ。
それでいろいろ昔の船橋のことなんか思いだしていたんですが、わたし4月1日が誕生日で、七十三歳になったんです。
なんだか記念に、七十三歳記念馬券を買わなければと、馬単の⑦-③と馬連の③-⑦を500円ずつ買ったんですね。
おどろきました。フナバシという神さまがいたのか、わたしの両親が恵んでくれたのか、的中したんですから、ほんとにおどろきました。
両方で配当が7万4,800円あるんです。馬券でこんなお金は、人によっては小さな事かもしれませんが、わたしには凄い大きな出来事です。おまけに七十三歳の誕生日馬券ということで。
この配当で、何か、思い出を作りたいなあと、マスターに相談をしたわけなんですよ」
と言うのだった。
目の前に並んだ馬券を見ながら私は、
「勝手なことを言わせてもらうけど、この誕生日馬券の配当で石井さんが、来週の桜花賞を見に行って、阪神競馬場のさくらを眺めたら、石井さんの話というのがぼくにも生まれるなあ」
そう言い、石井さんが黙ったままなので、どんなふうに聞いてくれたのかわからなかった。
4月9日、午後2時すぎのことだった。ウインズ横浜にいた私のケイタイが鳴り、カフェバーのマスターの声がした。
「今、阪神にいるんですよ。朝早くに石井さんと新幹線に乗って。どうにか雨はやんでいて、さくら、すごくきれいです」
聞いて私は、いきなり知ったことにおどろき、
「石井さん、桜花賞へ行ったんだ」
と声がふるえそうになった。
ケイタイの声が石井さんに変わり、
「初めはひとりでと思ったんだけど、ちょっと自信がなくて、マスターに来てもらいました」
そこで声がマスターに戻り、
「ソウルスターリングが断トツ人気なんだけど、石井さん、桜花賞を見にきた思い出にと、出走する17頭の単勝を、500円ずつ、全頭買ったんですよ。それをノートに貼ったら、ものすごいアルバムになって、最高の思い出になるって」
と楽しそうだ。
石井さんが阪神競馬場にいることに感動した私は、さらにその馬券の買い方にも感動して、第77回桜花賞のゲートに、イシイサンという馬も入ってくるような気がした。
ゲートがあいて私の目は、単勝1.4倍のソウルスターリングにばかり向いた。馬群が直線に殺到し、変、とソウルスターリングが思わせ、レーヌミノルとリスグラシューに先着を許してしまった。
石井さんとマスターはどうしているだろう。5分ほど待って私がマスターにケイタイをかけると、
「桜花賞を見ました。すばらしい」
と石井さんの声がし、
「石井さん、レーヌミノルの単勝を取ったわけ。これ、すごいよね」
マスターの何かがこみあげるような声に変わった。
「今日はもう歩いたんですか?」
と言うのだ。私がなるべく毎日、健康のために6,000歩ぐらい歩くようにしているのを60歳のマスターは知っているのだ。
「まだ今日は歩数ゼロ」
そう私が言うと、
「では、これから3,500歩ほど歩きましょう。歩かないと長生きできませんよ。ああ、そうか、もう長生きしてるのか」
とマスターが笑った。そのカフェバーまで私の家から3,500歩なのもマスターは知っている。
ワケがなければ電話をしてこないマスターなので、
「何か、あるの?」
私が聞き、
「ちょっと相談に乗ってほしいという人がここにいるの。ま、遊びごとなんだけど」
またマスターが笑った。
ビールをのみ、夕食を済ませたあとなので面倒な気もしたが、声のかかるうちがハナと自分に声をかけ、私は3,500歩、動いた。カフェバーに着くまで、いくつかさくら並木があり、いつもなら散りはじめのころだが、今年は3月下旬の天気の具合で、まだ殆ど3分咲きだった。
カフェバーのカウンターにいた白髪の老人をマスターが、
「石井さん。10年前まで商社マン。2年前に奥さんに死なれ、娘さんはドイツにいて、只今ひとり暮らし。去年の有馬記念をわたしが買わせたの。
サトノダイヤモンドとキタサンブラックの馬連を5,000円買い、当たり。幸か不幸か、それ以来、日曜日はウインズに出勤。競馬場は中山と東京にわたしが添乗員になって行きました」
と私に紹介し、
「飼い犬のボンだけが頼りだったけど、マスターが競馬を教えてくれて、今はボンと馬券を頼りにしてます」
と石井さんが笑顔になった。
初対面の乾杯をしたあと、
「ぼくの知りあいに、やはり商社マンだった人がいて、老後に飼った柴犬にルートンという名をつけた。彼はイギリス滞在が長くて、ルートンという土地で暮らしていたとか。
ひょっとして石井さんの犬のボンも、ドイツの地名からですか?」
そう私が言うと、目をまるくした石井さんは何も言わずに、私に握手をしてきた。
ゆっくりとしたピアノ曲が店に流れている。
「おれ、生きていて、ピアノの音を聞いている。ああ、じいさんになると、そんな意識をして、まるでピアノの曲が恋びとみたいだ」
そんなこと言うわけにもいかないと、黙ってウイスキーをのんでいる80歳になった私に、
「石井さんの話、聞いてやってください」
と言ってマスターは、カウンターの隅に移ってほかの客の話相手になった。
「じつはですね」
石井さんは財布から2枚の馬券を出して、
「昨日、船橋市市制施行80周年記念というレースがありました。わたしの両親は、もうとっくにいませんが、船橋市の出身なんですよ。
それでいろいろ昔の船橋のことなんか思いだしていたんですが、わたし4月1日が誕生日で、七十三歳になったんです。
なんだか記念に、七十三歳記念馬券を買わなければと、馬単の⑦-③と馬連の③-⑦を500円ずつ買ったんですね。
おどろきました。フナバシという神さまがいたのか、わたしの両親が恵んでくれたのか、的中したんですから、ほんとにおどろきました。
両方で配当が7万4,800円あるんです。馬券でこんなお金は、人によっては小さな事かもしれませんが、わたしには凄い大きな出来事です。おまけに七十三歳の誕生日馬券ということで。
この配当で、何か、思い出を作りたいなあと、マスターに相談をしたわけなんですよ」
と言うのだった。
目の前に並んだ馬券を見ながら私は、
「勝手なことを言わせてもらうけど、この誕生日馬券の配当で石井さんが、来週の桜花賞を見に行って、阪神競馬場のさくらを眺めたら、石井さんの話というのがぼくにも生まれるなあ」
そう言い、石井さんが黙ったままなので、どんなふうに聞いてくれたのかわからなかった。
4月9日、午後2時すぎのことだった。ウインズ横浜にいた私のケイタイが鳴り、カフェバーのマスターの声がした。
「今、阪神にいるんですよ。朝早くに石井さんと新幹線に乗って。どうにか雨はやんでいて、さくら、すごくきれいです」
聞いて私は、いきなり知ったことにおどろき、
「石井さん、桜花賞へ行ったんだ」
と声がふるえそうになった。
ケイタイの声が石井さんに変わり、
「初めはひとりでと思ったんだけど、ちょっと自信がなくて、マスターに来てもらいました」
そこで声がマスターに戻り、
「ソウルスターリングが断トツ人気なんだけど、石井さん、桜花賞を見にきた思い出にと、出走する17頭の単勝を、500円ずつ、全頭買ったんですよ。それをノートに貼ったら、ものすごいアルバムになって、最高の思い出になるって」
と楽しそうだ。
石井さんが阪神競馬場にいることに感動した私は、さらにその馬券の買い方にも感動して、第77回桜花賞のゲートに、イシイサンという馬も入ってくるような気がした。
ゲートがあいて私の目は、単勝1.4倍のソウルスターリングにばかり向いた。馬群が直線に殺到し、変、とソウルスターリングが思わせ、レーヌミノルとリスグラシューに先着を許してしまった。
石井さんとマスターはどうしているだろう。5分ほど待って私がマスターにケイタイをかけると、
「桜花賞を見ました。すばらしい」
と石井さんの声がし、
「石井さん、レーヌミノルの単勝を取ったわけ。これ、すごいよね」
マスターの何かがこみあげるような声に変わった。