烏森発牧場行き
第268便 兄貴の法事
2017.04.12
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阪神でフィリーズレビューの日、去年3月15日に旅立った兄、毅(タケシ)の一年忌法要で埼玉県加須市の寺へ出かけた。加須市は地味な地域だが、2011年3月に福島の原子力発電所が爆発し、被災した双葉町の住民が集団で避難生活をしたのが加須市の学校で、少しは地名を知ってもらえた。私の両親の出身地である。
その寺には、父の平作、母のトク、長兄の弘、次兄の毅、姉の節子、従兄弟の実が眠っている。鎌倉から加須まで電車に2時間座っているので、ひとりひとりの顔をよみがえらせて時間をつぶした。
顔の表情はけっこう簡単に思い浮かんでくるのだが、次に声をよみがえらせようとすると、それは簡単ではなかった。
「タケノベルベット」
と酔っぱらった毅が突然のように、右手を突きあげて声を張りあげたのを思いだした。エリザベス女王杯で藤田伸二が乗ったタケノベルベットが勝って単勝が9,130円。横山典弘が乗ったメジロカンムリが2着で、その馬連が70,470円。
どちらの馬券も持っていた毅は、何年が過ぎても、競馬の話をしていると、不意に、「タケノベルベット!」と声をあげたのだった。
私は持っていた茶封筒の裏に、タケフブキ、タケブエ、と小さく書いてみる。毅は「タケ」と名のつく馬が出走すると、必ずというふうに馬券を買っていた。
タケホープ、タケクマヒカル、タケデン、タケノオー、タケノヒエンと私は書きつらねた。そう、毅は、ハイセイコーが人気のダービーで、1着タケホープの単勝を、かなりの額で買っていて、そのこともエリザベス女王杯のタケノベルベットと同様に自慢のタネだった。
車窓の青空に目をやって私は、ふと笑いそうになった。まだ吉川家のみんなが元気だったころの日曜日の朝、平作も弘も毅も実もそれぞれに背を向け、誰かが自転車で後楽園場外馬券売り場に買いに行く馬券を、新聞とにらめっこをして決めていたのだ。節子も、自分の名前とつなげてハクセツとかジョセツの馬券を買い、平作が旅立ってからだったろう、トクも、トクザクラの馬券が的中して騒いだよなあと、私は昔の時間を青空に描いてうれしかった。
「メロンパーン」
という叫び声がどこかから流れてきた。毅の声だった。
もうずいぶん昔、競馬場で毅が、メロンパンという牝馬の単勝を買い、レースの途中、1階スタンドで、「メロンパーン」と大声をあげ、いっしょにいた私ははずかしかったのが忘れられない。
毅は平作が営んでいた薬品問屋を引き継ぎ、いつもにこにこ、よく働く男で、趣味は競馬と酒場通い。何かしらふざけて、周囲を笑わせるのが生き甲斐だった。そのときも、群衆のなかで、「メロンパーン」と叫んでみたくて馬券を買っているのだ。
メロンパンのことで、私は毅に報告することがあるのだった。去年の夏のこと、浅草で飲みすぎてホテルに泊まり、そこがウインズ浅草の近くで、もう朝早くにマークシートを手にしていた。
小倉1Rにオイカケマショウがいた。私も毅に似て、おふざけを生き甲斐にしているところがある。「モシモシ」とか「ユメチョキン」とか「ジイサマ」とか。「シアワセデス」とか「モウカッテル」とか「イクラトロ」とか、おもしろい名の馬がいると単勝を100円ずつ5枚か10枚買って、それを財布に入れておいて酒場で、笑いのネタに使うのである。ほとんどはハズレ馬券になるが、馬券に縁のない人やホステスたちが、「これが馬券なんだ」とめずらしがり、「お守りにしなよ」とか言ってあげると、けっこう喜ばれるのだ。そんなわけで、オイカケマショウの単勝100円を10枚買ったのだ。
発走前にオイカケマショウの血統を気にすると、母がハナヨメノレン、祖母がなんとメロンパンで、そのときも私に、毅の声の「メロンパーン」が聞こえてきた。
ゲートがあいてテレビを見上げていて、びっくりなんて言葉でおさまらないぐらいたまげた。1年目の荻野極が乗っていて、勝っちゃったのである。単勝5,830円。
「メロンパンの孫がすんばらしいオフザケをやってくれたよ」
と私は毅に知らせたものだ。
そうそうそれから、今年になって2月26日、私の誕生日の2日後、おれもとんでもないトシになったものだと思っているので、阪神5Rの3歳未勝利戦に「ワラッチャウヨネ」がいて、なんだか今日のおれの馬といった気分になり、単勝100円を10枚買ったら、森裕太朗が乗って11頭立て8番人気のワラッチャウヨネが1着。単勝5,450円。自分ではずかしくなるほどニタニタ、笑いが止まらなくなってしまった。
それで次の週、阪神1Rの「イイコトバカリ」を買わぬわけにはいかない。単勝100円を10枚。松若風馬が乗って1番人気にこたえ、単勝230円。うん、230円なら心おきなく、ホステスに配れると思いながら、イイコトバカリもメロンパンの孫だよと、毅に報告したものだ。
その日の小倉9Rにはワラッチャオがいた。ワラッチャウヨネとイイコトバカリでいい思いをして、またワラッチャオかよと思いながら単勝100円を10枚。丸山元気の騎乗で4番人気の4着。
そんなことを頭に並べていると加須駅。
寺に着き、坊さんの「ナムアミダブツ」を聞きながら、祭壇にある写真の毅に、心の中で、
「メロンパーン」
と声をかける。
いやあ、兄貴の1年忌だというのに、タケノベルベットだのタケホープだの、オイカケマショウだのワラッチャウヨネだの、馬のことばかり頭に出てきて、仕方のない弟だ、ナムアミダブツ。
食事になってとなりにいた二つ年下の妹が、
「みんないなくなっちゃったね。なるべく、いなくならないようにしてよ」
といつになく殊勝な口調で言い、
「ま、おたがい、なるべくいようや」
と私が言った。
私の席の近くに置いてある写真の毅が、
「タケノベルベット!」
いきなり誰かに声をかけてきた。
その寺には、父の平作、母のトク、長兄の弘、次兄の毅、姉の節子、従兄弟の実が眠っている。鎌倉から加須まで電車に2時間座っているので、ひとりひとりの顔をよみがえらせて時間をつぶした。
顔の表情はけっこう簡単に思い浮かんでくるのだが、次に声をよみがえらせようとすると、それは簡単ではなかった。
「タケノベルベット」
と酔っぱらった毅が突然のように、右手を突きあげて声を張りあげたのを思いだした。エリザベス女王杯で藤田伸二が乗ったタケノベルベットが勝って単勝が9,130円。横山典弘が乗ったメジロカンムリが2着で、その馬連が70,470円。
どちらの馬券も持っていた毅は、何年が過ぎても、競馬の話をしていると、不意に、「タケノベルベット!」と声をあげたのだった。
私は持っていた茶封筒の裏に、タケフブキ、タケブエ、と小さく書いてみる。毅は「タケ」と名のつく馬が出走すると、必ずというふうに馬券を買っていた。
タケホープ、タケクマヒカル、タケデン、タケノオー、タケノヒエンと私は書きつらねた。そう、毅は、ハイセイコーが人気のダービーで、1着タケホープの単勝を、かなりの額で買っていて、そのこともエリザベス女王杯のタケノベルベットと同様に自慢のタネだった。
車窓の青空に目をやって私は、ふと笑いそうになった。まだ吉川家のみんなが元気だったころの日曜日の朝、平作も弘も毅も実もそれぞれに背を向け、誰かが自転車で後楽園場外馬券売り場に買いに行く馬券を、新聞とにらめっこをして決めていたのだ。節子も、自分の名前とつなげてハクセツとかジョセツの馬券を買い、平作が旅立ってからだったろう、トクも、トクザクラの馬券が的中して騒いだよなあと、私は昔の時間を青空に描いてうれしかった。
「メロンパーン」
という叫び声がどこかから流れてきた。毅の声だった。
もうずいぶん昔、競馬場で毅が、メロンパンという牝馬の単勝を買い、レースの途中、1階スタンドで、「メロンパーン」と大声をあげ、いっしょにいた私ははずかしかったのが忘れられない。
毅は平作が営んでいた薬品問屋を引き継ぎ、いつもにこにこ、よく働く男で、趣味は競馬と酒場通い。何かしらふざけて、周囲を笑わせるのが生き甲斐だった。そのときも、群衆のなかで、「メロンパーン」と叫んでみたくて馬券を買っているのだ。
メロンパンのことで、私は毅に報告することがあるのだった。去年の夏のこと、浅草で飲みすぎてホテルに泊まり、そこがウインズ浅草の近くで、もう朝早くにマークシートを手にしていた。
小倉1Rにオイカケマショウがいた。私も毅に似て、おふざけを生き甲斐にしているところがある。「モシモシ」とか「ユメチョキン」とか「ジイサマ」とか。「シアワセデス」とか「モウカッテル」とか「イクラトロ」とか、おもしろい名の馬がいると単勝を100円ずつ5枚か10枚買って、それを財布に入れておいて酒場で、笑いのネタに使うのである。ほとんどはハズレ馬券になるが、馬券に縁のない人やホステスたちが、「これが馬券なんだ」とめずらしがり、「お守りにしなよ」とか言ってあげると、けっこう喜ばれるのだ。そんなわけで、オイカケマショウの単勝100円を10枚買ったのだ。
発走前にオイカケマショウの血統を気にすると、母がハナヨメノレン、祖母がなんとメロンパンで、そのときも私に、毅の声の「メロンパーン」が聞こえてきた。
ゲートがあいてテレビを見上げていて、びっくりなんて言葉でおさまらないぐらいたまげた。1年目の荻野極が乗っていて、勝っちゃったのである。単勝5,830円。
「メロンパンの孫がすんばらしいオフザケをやってくれたよ」
と私は毅に知らせたものだ。
そうそうそれから、今年になって2月26日、私の誕生日の2日後、おれもとんでもないトシになったものだと思っているので、阪神5Rの3歳未勝利戦に「ワラッチャウヨネ」がいて、なんだか今日のおれの馬といった気分になり、単勝100円を10枚買ったら、森裕太朗が乗って11頭立て8番人気のワラッチャウヨネが1着。単勝5,450円。自分ではずかしくなるほどニタニタ、笑いが止まらなくなってしまった。
それで次の週、阪神1Rの「イイコトバカリ」を買わぬわけにはいかない。単勝100円を10枚。松若風馬が乗って1番人気にこたえ、単勝230円。うん、230円なら心おきなく、ホステスに配れると思いながら、イイコトバカリもメロンパンの孫だよと、毅に報告したものだ。
その日の小倉9Rにはワラッチャオがいた。ワラッチャウヨネとイイコトバカリでいい思いをして、またワラッチャオかよと思いながら単勝100円を10枚。丸山元気の騎乗で4番人気の4着。
そんなことを頭に並べていると加須駅。
寺に着き、坊さんの「ナムアミダブツ」を聞きながら、祭壇にある写真の毅に、心の中で、
「メロンパーン」
と声をかける。
いやあ、兄貴の1年忌だというのに、タケノベルベットだのタケホープだの、オイカケマショウだのワラッチャウヨネだの、馬のことばかり頭に出てきて、仕方のない弟だ、ナムアミダブツ。
食事になってとなりにいた二つ年下の妹が、
「みんないなくなっちゃったね。なるべく、いなくならないようにしてよ」
といつになく殊勝な口調で言い、
「ま、おたがい、なるべくいようや」
と私が言った。
私の席の近くに置いてある写真の毅が、
「タケノベルベット!」
いきなり誰かに声をかけてきた。