烏森発牧場行き
第267便 ノゲノキセキ
2017.03.13
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2月3日、金曜日、節分の晩、「明日、手広のラーメン屋の改築の仕事なんだけど、夜、久しぶりに、学校をやってくれないですか」と「クワタさん」が電話してきた。手広は私の家の近くの地名だ。
年に何度か若い大工のクワタさんは、私に「学校」をやらせるのである。クワタさんは生徒になり、先生役の私が、「最近」、印象に残ったこと」を話するのだ。ちゃんと学校に行ってないから勉強したいのだとか、クワタさんが殊勝なことを言うので、私もその気になったのである。酒を飲みながらの学校なのだが。
「鬼は外、福は内」と、となり近所には聞こえぬように小声で豆まきをしたあと、缶ビールの蓋をあけ、「アスカクリチャン」と声にはせずに言ってみた。「クワタくん」と知り合うきっかけになったのが、内田騎手が乗って七夕賞を勝ったアスカクリチャンだ。
それを調べたくなり、重賞年鑑を取りに行った。2012年7月8日の七夕賞で、アスカクリチャンは16頭立て14番人気。単勝5,440円。1番人気トーセンラーへの馬単が3万9,270円だ。
ウインズ横浜に近い野毛小路の居酒屋で相席になり、たがいに連れもなく酔っぱらい、
「ノゲノキセキ」
と若い男が、アスカクリチャンの単、トーセンラーへの馬単を、200円買っている馬券を見せた。若い男の顔が、サザンの桑田佳祐によく似ているので、その時から私は彼を、「クワタさん」と称んでいる。
「どうしてアスカクリチャンが買えたの?」
という私の質問に、
「ワケありだけど、それは言えない」
そう言って笑った「クワタさん」は28歳だった。7歳と6歳の二人の男の子の父親だというのは口にした。「おれ、大工なんだ。どんな小さなことでも言ってよ。休みの日に行ってやるから」と電話番号を教えてくれ、早速に私の家の物置き小屋の修理を頼んだら来てくれて、つきあいが始まったというわけである。
何度か、「学校」をひらいたり、横浜市戸塚のクワタさんの家を私が訪ねたりして、少しずつ彼の生活が見えてきた。
長男の和夫が3歳、二男の次郎が2歳のとき、クワタくんの妻は悪いことをした。それがどうしても許せずにクワタさんは離婚し、次男が小学生になるまで頼むと、故郷の福井にいる両親に子供を頼み、クワタさんは必死に働いて中古の小さな家を手に入れ、次郎が小学生になって息子たちを引きとり、親子三人の暮らしになった。
そうした話をするうち、アスカクリチャンという馬の単勝と馬単を買ったのは、許せないことをした二人の子の母親の名前に関係しているのだとクワタさんは笑い、それ以上のことは、いくら私が聞きたがっても言わないのだった。
2月4日、クワタさんは酒を飲みたくて、改築現場に自分の車を置き、歩いて私の家に来た。
「では、ちょっと、学校の時間。今回は映画監督の宮崎駿さんと解剖学者の養老孟司さんの対談から、印象に残った話」
と私は、書店のレジの近くに、自由にお持ち下さいと書かれて置いてある、新潮社の「波」という雑誌をひらいて、
『年を取った人で、自分の好きなことがあって一生懸命やっているのは、世間で邪魔にならなくていいですね。趣味や夢中になっていることがないと面倒です。することがないと余計なお節介をする年寄りになって困りますよ』
という養老さんの発言を紹介した。私もクワタさんもウインズ横浜の空気はよく知っているので、夢中になっていることがある年を取った人の話をしようと思ったのだ。
「そうだよなあ。馬券をやってる爺さんなんかは幸せだよなあ。夢中になることがない年寄りなんて可哀そうだよね。そういう人のほうが多いから、世の中って、可哀そうな人で出来てるんだな。」
そうクワタさんが言い、
「でも、可哀そうといえば、おれも可哀そうだ。なんだか毎日、ただひたすら働いて、屁みたいな金で買う馬券だけが楽しみで」
とつけたしたので、
「幸せってのはな、アテにしている人の役に立っていること。和夫と次郎が育ってる」
と私が言った。
少し黙っていたクワタさんが、
「明日、和夫の誕生日なんだ。12歳になる。焼肉屋でも連れて行くかな」
とひとりごとのように言った。
酒がすすむと「学校」が終わったようになって、私の前にもクワタさんの前にも競馬予想紙が出てきて、それぞれが活字を追いはじめた。
「おい、東京の10R、春菜賞、1枠2番。」
と私が声を上げ、そこを探して桑田さんが、
「ライズスクリュー」
と馬名を言った。
「これ、和夫くんの、誕生日のお祝いに買ったほうがいい。100円の単勝でも、凄い記念のお守りになるよ」
「どして?」
「乗るのが横山和生。字は違うけどカズオで、おまけに厩舎が小野次郎。カズオとジローだ」
「ほんとだ」
「ここ4戦を見ても、ほとんどドンケツ人気でボロ負けしてるけど、それでもたぶん、一生懸命、目一杯、走ってるんだ。普通の人って、誰でもそんなもんだよ。すばらしい馬だ」
と私が言い、
「いやあ、小野次郎厩舎で横山和生か」
とクワタさんが呟いた。
2月5日、午後3時半、東京競馬場にいた私のケイタイが鳴った。
「和夫の誕生日馬券を1000円買った。2番ライズスクリューの単複を200円ずつ。それに②から人気上位3頭への馬単を200円ずつ」
ウインズ横浜にいるクワタさんの声は上ずり、
「キセキ、ノゲノキセキ」
ほとんど叫び声になっている。
ライズスクリューの単勝、2万3,030円。複勝3,770円。3番人気ヒストリアへの馬単、21万1,130円。そう知って私は、1階スタンドの人ごみのなかで棒立ちになっていた。
年に何度か若い大工のクワタさんは、私に「学校」をやらせるのである。クワタさんは生徒になり、先生役の私が、「最近」、印象に残ったこと」を話するのだ。ちゃんと学校に行ってないから勉強したいのだとか、クワタさんが殊勝なことを言うので、私もその気になったのである。酒を飲みながらの学校なのだが。
「鬼は外、福は内」と、となり近所には聞こえぬように小声で豆まきをしたあと、缶ビールの蓋をあけ、「アスカクリチャン」と声にはせずに言ってみた。「クワタくん」と知り合うきっかけになったのが、内田騎手が乗って七夕賞を勝ったアスカクリチャンだ。
それを調べたくなり、重賞年鑑を取りに行った。2012年7月8日の七夕賞で、アスカクリチャンは16頭立て14番人気。単勝5,440円。1番人気トーセンラーへの馬単が3万9,270円だ。
ウインズ横浜に近い野毛小路の居酒屋で相席になり、たがいに連れもなく酔っぱらい、
「ノゲノキセキ」
と若い男が、アスカクリチャンの単、トーセンラーへの馬単を、200円買っている馬券を見せた。若い男の顔が、サザンの桑田佳祐によく似ているので、その時から私は彼を、「クワタさん」と称んでいる。
「どうしてアスカクリチャンが買えたの?」
という私の質問に、
「ワケありだけど、それは言えない」
そう言って笑った「クワタさん」は28歳だった。7歳と6歳の二人の男の子の父親だというのは口にした。「おれ、大工なんだ。どんな小さなことでも言ってよ。休みの日に行ってやるから」と電話番号を教えてくれ、早速に私の家の物置き小屋の修理を頼んだら来てくれて、つきあいが始まったというわけである。
何度か、「学校」をひらいたり、横浜市戸塚のクワタさんの家を私が訪ねたりして、少しずつ彼の生活が見えてきた。
長男の和夫が3歳、二男の次郎が2歳のとき、クワタくんの妻は悪いことをした。それがどうしても許せずにクワタさんは離婚し、次男が小学生になるまで頼むと、故郷の福井にいる両親に子供を頼み、クワタさんは必死に働いて中古の小さな家を手に入れ、次郎が小学生になって息子たちを引きとり、親子三人の暮らしになった。
そうした話をするうち、アスカクリチャンという馬の単勝と馬単を買ったのは、許せないことをした二人の子の母親の名前に関係しているのだとクワタさんは笑い、それ以上のことは、いくら私が聞きたがっても言わないのだった。
2月4日、クワタさんは酒を飲みたくて、改築現場に自分の車を置き、歩いて私の家に来た。
「では、ちょっと、学校の時間。今回は映画監督の宮崎駿さんと解剖学者の養老孟司さんの対談から、印象に残った話」
と私は、書店のレジの近くに、自由にお持ち下さいと書かれて置いてある、新潮社の「波」という雑誌をひらいて、
『年を取った人で、自分の好きなことがあって一生懸命やっているのは、世間で邪魔にならなくていいですね。趣味や夢中になっていることがないと面倒です。することがないと余計なお節介をする年寄りになって困りますよ』
という養老さんの発言を紹介した。私もクワタさんもウインズ横浜の空気はよく知っているので、夢中になっていることがある年を取った人の話をしようと思ったのだ。
「そうだよなあ。馬券をやってる爺さんなんかは幸せだよなあ。夢中になることがない年寄りなんて可哀そうだよね。そういう人のほうが多いから、世の中って、可哀そうな人で出来てるんだな。」
そうクワタさんが言い、
「でも、可哀そうといえば、おれも可哀そうだ。なんだか毎日、ただひたすら働いて、屁みたいな金で買う馬券だけが楽しみで」
とつけたしたので、
「幸せってのはな、アテにしている人の役に立っていること。和夫と次郎が育ってる」
と私が言った。
少し黙っていたクワタさんが、
「明日、和夫の誕生日なんだ。12歳になる。焼肉屋でも連れて行くかな」
とひとりごとのように言った。
酒がすすむと「学校」が終わったようになって、私の前にもクワタさんの前にも競馬予想紙が出てきて、それぞれが活字を追いはじめた。
「おい、東京の10R、春菜賞、1枠2番。」
と私が声を上げ、そこを探して桑田さんが、
「ライズスクリュー」
と馬名を言った。
「これ、和夫くんの、誕生日のお祝いに買ったほうがいい。100円の単勝でも、凄い記念のお守りになるよ」
「どして?」
「乗るのが横山和生。字は違うけどカズオで、おまけに厩舎が小野次郎。カズオとジローだ」
「ほんとだ」
「ここ4戦を見ても、ほとんどドンケツ人気でボロ負けしてるけど、それでもたぶん、一生懸命、目一杯、走ってるんだ。普通の人って、誰でもそんなもんだよ。すばらしい馬だ」
と私が言い、
「いやあ、小野次郎厩舎で横山和生か」
とクワタさんが呟いた。
2月5日、午後3時半、東京競馬場にいた私のケイタイが鳴った。
「和夫の誕生日馬券を1000円買った。2番ライズスクリューの単複を200円ずつ。それに②から人気上位3頭への馬単を200円ずつ」
ウインズ横浜にいるクワタさんの声は上ずり、
「キセキ、ノゲノキセキ」
ほとんど叫び声になっている。
ライズスクリューの単勝、2万3,030円。複勝3,770円。3番人気ヒストリアへの馬単、21万1,130円。そう知って私は、1階スタンドの人ごみのなかで棒立ちになっていた。