烏森発牧場行き
第300便 吟行「競馬場」
2019.12.10
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私が句会「凡の会」に参加したのは70歳のときである。冬に、家の近くの大野さんの家で昼間から酒をのんでいたら、障子に蝿のような黒い小さな生きものがちょろちょろと動いて消えた。
その部屋に大野さんが作った俳句を筆書きした短冊がいくつか立っている。
「ぼくにも一句、浮かんできました」
そう私が言うと、大野さんがボールペンとメモ用紙を私の前に置いた。
「真昼より酔うてそうろう冬の蝿」
そう私が書いたのをきっかけに、大野さんから「凡の会」に誘われ、酔ううち、
「あなたがいちばん好きな句は?」
と聞かれ、
「マスクして己れの馬鹿にむせかへる」
と私はメモ用紙に書いた。知りあいの小島麦人という俳人の句である。この句を私は座右の銘のように大切にしているのだ。
私が参加したときの「凡の会」は会員数13名。2019年、令和元年、会員数7名である。老人ばかりの会だから、遠方へ旅立ったり、介護を受けたりなのだ。大野さんも2年前、77歳で逝った。
「凡の会」は鎌倉の七里ヶ浜に近い照代さんの家が会場である。9月のこと、句会のあと、「愚痴なんだけど、聞いてくださる?」
と照代さんが声をかけてきて、
「この話をひとさまに言うのは初めてなのだけれど、わたしもそろそろお呼びがくるかもと思ったら、やはり後悔はしたくないから、あなたにお願いをしようと決めたの。秀雄さんのこと」
そう私に言うのだ。
秀雄さんというのは2年前に83歳で亡くなった照代さんの夫のこと。秀雄さんは商社マンだったが歴史学が好きで、三鷹市に住む日本史の大学教授を中心にした同人会に参加していて、亡くなるまでの10数年、月に二度か三度、三鷹市へ行くと言って休日に出かけた。
ところが死後、夫の友人から、三鷹行きは2カ月に1度ぐらいで、あとは府中市の東京競馬場へひとりで行っていたのだと聞かされたのだという。
「秀雄さんはどうして隠していたのかしらね。わたし、別に、競馬場へ行くと言っても、反対なんかしないわって言ったの。
そうしたらね、秀雄さん、隠しごとがあるというのが人生の面白さで、なんだか競馬場にいるのがうれしくて幸せなんだ。つまり、おんなでなくて自分には、おんまがいたってわけさって笑ってたっていうの、秀雄さん」
「なんだか、わかる」
と私は笑った。
照代さんのお願いというのは、秀雄さんが内緒で過ごしていた競馬場を、いちど見てみたいというのだった。
「いっそのこと、兼題(題を前もって出しておく)を、競馬、ということにして、凡の会の吟行(句作のために郊外や名所旧跡などに出かけること)として、みんなで競馬場に行ってみますか?どこかで秀雄さんも、おれをネタにして遊ぶのかって、きっと喜びますよ」
そう私が照代さんに提案したのだった。
「凡の会」の人たちにとって、競馬場は未知の領域で、ほとんど全員が「競馬場」という吟行を喜んだ。
兼題が「競馬」。どんな句が出てくるか、それも私は楽しみになった。
10月上旬の句会のあと、私は全員に、家にあった使用後のスポーツ紙の出馬表を配り、マークシートも配って、馬券の買い方の説明をした。
「2重マルのいっぱいついた馬を買ったり、好きな名前の馬を買ったり、自分の誕生日や年齢や住所の数字で買ったり、好きな数字で買ったりしてください。
べつに馬券を買わなくてもいいけど、100円でも馬券を買うと、レースが自分ごとになる。馬券を買わないで見ても、レースが他人ごとになってつまらない。
さあ、未知の領域。凡の会の奥の細道。どうなるか楽しみ」
そう私が言い、
「わたし、あちらで秀雄さんに会ったら、競馬場へ行ったわよって、なにげに言うの」
と照代さんが笑った。このとき、私が拍手をし、つられてみんなが拍手をした。
11月9日、吟行「競馬場」。体調不安で2名欠席。駅で待ち合わせて5人が電車に乗った。
「明日が天皇と皇后のパレード。今日が前夜祭。記念になる競馬場行きだなあ」
と元高校教師で69歳の中村さん。
「なんだかドキドキする」
と日本画家で73歳の昌子さん。
「宇宙への旅みたいだなあ」
と元銀行マンで77歳の安井さん。
「秀雄さんに会いに行くの」
と照代さん。それに私が、JR南武線の窓からの秋の陽ざしに幸せだった。
府中本町駅から競馬場につながる通路で立ち止まり、5人が遠くの富士山を眺める。私はグループ旅行の添乗員の気分だ。
5人が競馬場に入って、馬場を、スタンドを眺める。みんなが黙る。どんな句が出てくるのかなと私は思った。
パドックで第8Rの18頭が歩いていた。
「今、馬をつれて歩いているのが厩務員です」
と私がガイド。馬券売り場へと行き、1階スタンドの空席を見つけて手荷物を置いた。
事件が起きた。第11R武蔵野Sが決着したあと、
「これ、当たってるんじゃないかな」
と中村さんが照代さんの馬券を私に見せた。
「年齢で買ってみたの。79歳で7と9」
と照代さんが言う。
「凄いぞ。大穴だ」
と私が言い、中村さんと照代さんが抱きあうようにし、昌子さんも安井さんも目を見張った。
1着9番人気⑦ワンダーリーデル、2着8番人気⑨タイムフライヤーで、馬連2万1,070円。
「どうしたらいいの」
と胸に手をあてて困った顔の照代さんに、
「凡の会の人たちにフランス料理でもごちそうすればいいんです。ゲストに秀雄さんも呼んであげましょう」
そう私が言い、安井さんが拍手をした。
その部屋に大野さんが作った俳句を筆書きした短冊がいくつか立っている。
「ぼくにも一句、浮かんできました」
そう私が言うと、大野さんがボールペンとメモ用紙を私の前に置いた。
「真昼より酔うてそうろう冬の蝿」
そう私が書いたのをきっかけに、大野さんから「凡の会」に誘われ、酔ううち、
「あなたがいちばん好きな句は?」
と聞かれ、
「マスクして己れの馬鹿にむせかへる」
と私はメモ用紙に書いた。知りあいの小島麦人という俳人の句である。この句を私は座右の銘のように大切にしているのだ。
私が参加したときの「凡の会」は会員数13名。2019年、令和元年、会員数7名である。老人ばかりの会だから、遠方へ旅立ったり、介護を受けたりなのだ。大野さんも2年前、77歳で逝った。
「凡の会」は鎌倉の七里ヶ浜に近い照代さんの家が会場である。9月のこと、句会のあと、「愚痴なんだけど、聞いてくださる?」
と照代さんが声をかけてきて、
「この話をひとさまに言うのは初めてなのだけれど、わたしもそろそろお呼びがくるかもと思ったら、やはり後悔はしたくないから、あなたにお願いをしようと決めたの。秀雄さんのこと」
そう私に言うのだ。
秀雄さんというのは2年前に83歳で亡くなった照代さんの夫のこと。秀雄さんは商社マンだったが歴史学が好きで、三鷹市に住む日本史の大学教授を中心にした同人会に参加していて、亡くなるまでの10数年、月に二度か三度、三鷹市へ行くと言って休日に出かけた。
ところが死後、夫の友人から、三鷹行きは2カ月に1度ぐらいで、あとは府中市の東京競馬場へひとりで行っていたのだと聞かされたのだという。
「秀雄さんはどうして隠していたのかしらね。わたし、別に、競馬場へ行くと言っても、反対なんかしないわって言ったの。
そうしたらね、秀雄さん、隠しごとがあるというのが人生の面白さで、なんだか競馬場にいるのがうれしくて幸せなんだ。つまり、おんなでなくて自分には、おんまがいたってわけさって笑ってたっていうの、秀雄さん」
「なんだか、わかる」
と私は笑った。
照代さんのお願いというのは、秀雄さんが内緒で過ごしていた競馬場を、いちど見てみたいというのだった。
「いっそのこと、兼題(題を前もって出しておく)を、競馬、ということにして、凡の会の吟行(句作のために郊外や名所旧跡などに出かけること)として、みんなで競馬場に行ってみますか?どこかで秀雄さんも、おれをネタにして遊ぶのかって、きっと喜びますよ」
そう私が照代さんに提案したのだった。
「凡の会」の人たちにとって、競馬場は未知の領域で、ほとんど全員が「競馬場」という吟行を喜んだ。
兼題が「競馬」。どんな句が出てくるか、それも私は楽しみになった。
10月上旬の句会のあと、私は全員に、家にあった使用後のスポーツ紙の出馬表を配り、マークシートも配って、馬券の買い方の説明をした。
「2重マルのいっぱいついた馬を買ったり、好きな名前の馬を買ったり、自分の誕生日や年齢や住所の数字で買ったり、好きな数字で買ったりしてください。
べつに馬券を買わなくてもいいけど、100円でも馬券を買うと、レースが自分ごとになる。馬券を買わないで見ても、レースが他人ごとになってつまらない。
さあ、未知の領域。凡の会の奥の細道。どうなるか楽しみ」
そう私が言い、
「わたし、あちらで秀雄さんに会ったら、競馬場へ行ったわよって、なにげに言うの」
と照代さんが笑った。このとき、私が拍手をし、つられてみんなが拍手をした。
11月9日、吟行「競馬場」。体調不安で2名欠席。駅で待ち合わせて5人が電車に乗った。
「明日が天皇と皇后のパレード。今日が前夜祭。記念になる競馬場行きだなあ」
と元高校教師で69歳の中村さん。
「なんだかドキドキする」
と日本画家で73歳の昌子さん。
「宇宙への旅みたいだなあ」
と元銀行マンで77歳の安井さん。
「秀雄さんに会いに行くの」
と照代さん。それに私が、JR南武線の窓からの秋の陽ざしに幸せだった。
府中本町駅から競馬場につながる通路で立ち止まり、5人が遠くの富士山を眺める。私はグループ旅行の添乗員の気分だ。
5人が競馬場に入って、馬場を、スタンドを眺める。みんなが黙る。どんな句が出てくるのかなと私は思った。
パドックで第8Rの18頭が歩いていた。
「今、馬をつれて歩いているのが厩務員です」
と私がガイド。馬券売り場へと行き、1階スタンドの空席を見つけて手荷物を置いた。
事件が起きた。第11R武蔵野Sが決着したあと、
「これ、当たってるんじゃないかな」
と中村さんが照代さんの馬券を私に見せた。
「年齢で買ってみたの。79歳で7と9」
と照代さんが言う。
「凄いぞ。大穴だ」
と私が言い、中村さんと照代さんが抱きあうようにし、昌子さんも安井さんも目を見張った。
1着9番人気⑦ワンダーリーデル、2着8番人気⑨タイムフライヤーで、馬連2万1,070円。
「どうしたらいいの」
と胸に手をあてて困った顔の照代さんに、
「凡の会の人たちにフランス料理でもごちそうすればいいんです。ゲストに秀雄さんも呼んであげましょう」
そう私が言い、安井さんが拍手をした。