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第315便 ノン子の手紙

2021.03.11
 シッコやウンチの世話をして、エンもユカリもない人をお風呂に入れて、エンもユカリもない人のイレ歯を洗って、エンもユカリもない人を病院へつれて行って、エンもユカリもない人にゴハンを作ってあげて、わたしの人生、ナンナのって思う」
 などとノン子が口にすることもあるのだけれど、「のぎく」のママに言わせると、「やさしいし、気はきくし、介護ヘルパーとしては最高の人材ですって、介護の会社の人が店にきた時に言ってた」
 ということのようである。
 「わたしは仕事上、コロナにはぜったいかかれないので、去年も今年ものぎくに行けず、息が抜けなくて頭が変になりそうって克春に言ったら、そういうときは、ほら、吉川さんみたいな人に手紙を書いたらいいよと言うのです。
だって吉川さん、作家でしょ。作家の人に手紙を書くなんて、余計に緊張しちゃうわよと言ったら、吉川さんなら、ちゃんと読んでくれるよって言うのです」
 というのが手紙の書きだしだ。克春というのはノン子の息子で、今春に大学を卒業、運輸会社に就職が決まっている。克春が中学生の時にノン子は離婚し、それから母子だけの生活になったと聞いているが、離婚についての事情はノン子も言わぬし、酒場友だちも聞きはしない。
 「そんなふうに言われて、克春はとてもいいことを言うんだよなあと思うと、日記のことが頭に出てきました。わたし、2016年1月1日から欠かさずに日記を書いていて、それが今では、自分のいちばん大切なものと思っています。
 それも高校三年生だった克春が、クリスマ今年の節分は2月2日。「どうしていつもどおりの3日じゃないの?」とかみさんに聞かれ、「おれ、わからない」と私が返事。そんな会話をした日、ノン子から手紙がきた。
 ノン子から手紙がきたのは初めてだ。まさか、ノン子が手紙をおくってくるとは思っていなかったので、「えっ?」と言いそうになった。
 ノン子の本名は田中信子。横浜市戸塚区に住み、私とは大船のバー「のぎく」の客友だちだ。55歳。訪問介護士だ。
 「わたしね、ほんとうに仕事が嫌いなの。仕事しないと食べられないから、泣く泣く仕事してる。
 月曜日から金曜日まで、どうせ働くなら一円でも多く欲しいから、めいっぱい仕事を入れちゃう。
 土曜日と日曜日はお休み。金曜日の夕方になるとね、もう幸せでウキウキしてくる。日曜日は夕方から、また明日から仕事だって思うとドブネズミになっちゃうの。
 だから金曜日、のぎくのカウンターに座った時、うれしくてうれしくて泣いちゃいそう」
 そんなふうに田中信子が言うので、「のぎく」のママが「金曜日のノン子」と名付け、私たち仲間も「ノン子」と呼んでいるのだ。
 「エンもユカリもない人のオスの夜にケーキを食べながら、母さん、来年から日記を書いたらいいよって、そう言われて、それって母さんの財産になるよって。
 それで始めたのですが、1月29日の金曜日の夜、ふと2016年の日記を読みかえしていたら、2月25日の金曜日にのぎくで、「財布に入れておいて、お守りにしたらいいよ」と良さんが馬券をくれたのです。くやしい2着だけどね、GIレースの2着って凄いのだって、ノンコノユメという馬の単勝馬券。今もわたしの財布にあります」

 そう読んで私は2016年の重賞年鑑をひらいた。2016年2月21日、第33回フェブラリーS。1着がデムーロ騎乗の2番人気モーニン。2着がルメール騎乗の1番人気ノンコノユメ。たぶん、その前の金曜日にノン子とのぎくで飲んでいて、競馬場でノン子を喜ばそうと思いついて買ったのだろう。
 「それからわたし、金曜日にのぎくでお酒を飲むくらいしか楽しみがないなあ、克春が社会人になるまでがんばるしかないなあとか思って、ときどき、大きなレースの馬券を良さんに頼んで買ってもらうようになったのですよね。
 それでそれで、モズカッチャンのことを思いだして探しているうち、2017年11月12日のページを見つけました。エリザベス女王杯でわたしはモズカッチャンの単勝を3,000円買い、テレビの前で克春と叫んでしまいました。
 その年の冬に、克春くんが走ってる、モズカッチャンというんだって、良さんが教えてくれて、モズカッチャンの馬券は何度も買い、オークスでソウルスターリングに負けて2着。その日、初めて克春と競馬場へ行き、2着はくやしかったけど、1番人気のソウルスターリングとの馬連というのを500円買っていて、2,290円の配当で、帰り道、ビンボー人には神さまがついていて、ちゃんとモトは取らせるんだよって克春が言ったのをおぼえています。そのとき、ああ、わたし、克春がヒネクレナイで育ってくれたと、とても幸せな気持ちになったのもおぼえています。
 わたし、とっても感謝しているのです。競馬というのを教えてくれて、少しのお金ですけど、毎週のように、今は会社の友だちの電話投票で馬券を買って、それが生活の楽しみになってる。ありがとうございましたって、それを言いたくて、手紙を書いています。
 1月23日、中山の初富士ステークスに克春馬券、ニシノカツナリが出ていて、1番人気のドナアトラエンテとの馬連を500円当てました。配当金は950円でしたが、すごくうれしかった。
 早く、一日も早くコロナが終わって、のぎくで、良さんたち、のぎく仲間で、また冗談を言って、笑ってお酒をのみたいなあと思って、仕事しながら、エンもユカリもない人のオシメのとりかえをしながら、祈っています。
 良さんも、お身体、大切にして、のぎくに、金曜日に現れてください」
 手紙を読みおえて私は、しばらくうれしさを噛みしめるように手紙を見つめ、ノン子に、ヤッホーと声をおくっていた。
 言ってみればエンもユカリもないノン子と、ノンコノユメとかモズカッチャンとかでつながり、この世をいっしょに生きているんだよなあと、そんな思いがこみあげてくる。そして私も、早く、一日も早く、のぎくへ、競馬場へ、ウインズへ行きたいなあと、心の底から願った。
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