烏森発牧場行き
第316便 栄さん
2021.04.12
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昔のこと、「時間、あるかね?」と、社台ファームのボス、吉田善哉さんから電話がくると、それは美浦トレセンへ一緒に行こうよという誘いだった。それでよく同行をした。
美浦へ着くまでの車中、善哉さんは「言葉」についての話をするのが好きだった。例えば、
「草鞋(わらじ)を脱ぐ、というのはどういう意味なのかね」
といきなりの質問を私にぶつけてくるのだ。
「旅を終えるという意味もあるし、各地を回り歩いていたバクチ打ちが、或る土地に身を落ち着けるという意味も」
と私が言うと、
「おお、さすが、売れないけど作家だ」
そう善哉さんは笑う。「売れない」は余計だけど、本当だから仕方がない。
「ま、意味は違ってしまうかもしれないけど、美浦へ行ったときの社長は、仕事を終えると松山康久厩舎で休むでしょ、コーヒーをのんで。あれもワラジを脱ぐと言えるかも」
「たしかに、ワラジを脱ぐ気分だね」
となんだか善哉さんは、われわれの「言葉あそび」がうれしそうだった。
年に何度か栗東トレセンへも、私は善哉さんに同行した。善哉さん流の栗東での「ワラジを脱ぐ」は、渡辺栄厩舎だった。
2021年3月2日、2001年の日本ダービーとジャパンCを勝ったジャングルポケットが、北海道沙流郡日高町のブリーダーズ・スタリオン・ステーションで死んだ。23歳、老衰のようだ。
それを知ったとき、ジャングルポケットを預かっていた渡辺栄調教師の顔が浮かんだ。ダービーを勝ってジャングルポケットが地下馬道へ戻ってくるのを待つあいだ、私と握手をしたときの顔である。栄さんは顔を少し赤くして、ふるえていた。
それも昔のこと、新潟の古町のバーで、私は栄さんと二人で飲んだことがある。もし自分が馬を持ったら、どんな名前をつけるかなあとバーのママが言い、
「おれなら牡でも牝でも、ビクビク」
と私が言い、
「いつもいつも、おれ、気をつかってないと生きていけないぞって、びくびくしてる」
そうつけくわえた。
そのとき、栄さんが握手をしてきた。それを私は、何年過ぎてもおぼえている。
「わたしも、たぶん、ビクビクという名前をつけるのが、いちばん気持ちに正直かもしれない。ほんと、いつも気を使っていないと、自分は生きていけないぞって思ってきた」
そんなふうに栄さんが言い、栄さんと私は友だちになった。
私の家の玄関先の小さな植え込みに、瀬戸もののタヌキが2匹、並んでいる。ジャングルポケットがダービーを勝ったあとの夏、滋賀県甲西町の栄さんの家へ行ったとき、信楽へ遊びに行き、ダービー勝利記念に栄さんが、私に買ってくれたもので、ジャンくんとポケットくんと名前をつけた。
ほとんどの朝、私はジャンくんとポケットくんに水をかけるのだが、2016年1月、栄さんが82歳で空へ旅立ってしまってからは、そこが墓地にもなっている。
そう、そこにジャングルポケットも、と私は思い、頭を下げた。
夜、コロナ禍だから、家で、ひとりで酒をのみ、父トニービン、母ダンスチャーマー、母の父ヌレイエフのジャングルポケットにグラスを向ける。「ご苦労さまでした」。
次に栄さんにグラスを向ける。どこからか、山岸一二三作詞、水沢圭吾補作詞、山岸英樹作曲、中川博之補作曲の「新潟ブルース」が聞こえてくる。
栄さんの家に泊めてもらったとき、「こんなのを作っちゃった」と栄さんがテレくさそうに、せまいカラオケルームを私に見せた。そこで栄さんは、一生懸命に「新潟ブルース」を歌った。
「いろいろな人とのおつきあいで、カラオケは苦手でなんて言えないと思ってね、練習してる」
と栄さんは、もういちど「新潟ブルース」を歌った。そのことも、びくびく生きる、しっかり生きるという栄さんの努力だったのだろう。
1951(昭和26)年、17歳の栄さんは、新潟の中学を出て職についた地方競馬の春木にいたのだが、そこで流行していたヒロポン注射から逃げ、竹の林に隠れて朝になるのを待ち、どうにか汽車に乗って京都に行った。
「わたしを使ってください」
と淀の厩舎を何軒か歩いたが、夏競馬の季節で調教師は留守ばかり。たまたま厩舎にいたのが、武田文吾師だった。
じつに幸運にも、「この少年、芯がある」と見抜いて文吾師が、栄少年を雇い、騎手見習として住ませたのだ。
「なんと翌日に文吾先生は札幌へ行くのに、ついて来いって。一緒に行くわけじゃなく、別行動。紙に行きかたを書いて、ま、それもテストだったかもしれない。必死だったなあ、自分」
と栄さんから聞いたことがある。
「先ず東京に出て、半日くらい上野の汽車に時間があって、聞いたことのある浅草へ行こうと思った。人に聞いて、田原町という駅でおりて、駅の近くの金物屋の前で心細くなって立ってた。
金物屋のおやじさんが、どこへ行くんだって話しかけてくれて、これから北海道へ行くし、騎手になるのだと言ったら、そんなアブナイことはやめて、ウチで働いてもいいぞって。
ああ、浅草へ行って、あの金物屋を探してみたいなあ」
と言う栄さんと、いつか浅草へ行こうと言っていたのだが、実現できなかった。
そう、そういう話からも、栄さんの持ち馬の名は「ビクビク」かもしれない。
ジャングルポケットが死んだ数日後、渡辺栄夫人の清美さんと長電話をした。
「シャダイソフィアに出会ったとき、自分は運のいい人間かもしれないって、ひとりごとみたいにつぶやいたの、忘れられない」
と言った清美さんは、私と同じ昭和12年生まれである。
「わたしもがんばる。良さんも元気でいてね」
清美さん、まだ車を運転している。
美浦へ着くまでの車中、善哉さんは「言葉」についての話をするのが好きだった。例えば、
「草鞋(わらじ)を脱ぐ、というのはどういう意味なのかね」
といきなりの質問を私にぶつけてくるのだ。
「旅を終えるという意味もあるし、各地を回り歩いていたバクチ打ちが、或る土地に身を落ち着けるという意味も」
と私が言うと、
「おお、さすが、売れないけど作家だ」
そう善哉さんは笑う。「売れない」は余計だけど、本当だから仕方がない。
「ま、意味は違ってしまうかもしれないけど、美浦へ行ったときの社長は、仕事を終えると松山康久厩舎で休むでしょ、コーヒーをのんで。あれもワラジを脱ぐと言えるかも」
「たしかに、ワラジを脱ぐ気分だね」
となんだか善哉さんは、われわれの「言葉あそび」がうれしそうだった。
年に何度か栗東トレセンへも、私は善哉さんに同行した。善哉さん流の栗東での「ワラジを脱ぐ」は、渡辺栄厩舎だった。
2021年3月2日、2001年の日本ダービーとジャパンCを勝ったジャングルポケットが、北海道沙流郡日高町のブリーダーズ・スタリオン・ステーションで死んだ。23歳、老衰のようだ。
それを知ったとき、ジャングルポケットを預かっていた渡辺栄調教師の顔が浮かんだ。ダービーを勝ってジャングルポケットが地下馬道へ戻ってくるのを待つあいだ、私と握手をしたときの顔である。栄さんは顔を少し赤くして、ふるえていた。
それも昔のこと、新潟の古町のバーで、私は栄さんと二人で飲んだことがある。もし自分が馬を持ったら、どんな名前をつけるかなあとバーのママが言い、
「おれなら牡でも牝でも、ビクビク」
と私が言い、
「いつもいつも、おれ、気をつかってないと生きていけないぞって、びくびくしてる」
そうつけくわえた。
そのとき、栄さんが握手をしてきた。それを私は、何年過ぎてもおぼえている。
「わたしも、たぶん、ビクビクという名前をつけるのが、いちばん気持ちに正直かもしれない。ほんと、いつも気を使っていないと、自分は生きていけないぞって思ってきた」
そんなふうに栄さんが言い、栄さんと私は友だちになった。
私の家の玄関先の小さな植え込みに、瀬戸もののタヌキが2匹、並んでいる。ジャングルポケットがダービーを勝ったあとの夏、滋賀県甲西町の栄さんの家へ行ったとき、信楽へ遊びに行き、ダービー勝利記念に栄さんが、私に買ってくれたもので、ジャンくんとポケットくんと名前をつけた。
ほとんどの朝、私はジャンくんとポケットくんに水をかけるのだが、2016年1月、栄さんが82歳で空へ旅立ってしまってからは、そこが墓地にもなっている。
そう、そこにジャングルポケットも、と私は思い、頭を下げた。
夜、コロナ禍だから、家で、ひとりで酒をのみ、父トニービン、母ダンスチャーマー、母の父ヌレイエフのジャングルポケットにグラスを向ける。「ご苦労さまでした」。
次に栄さんにグラスを向ける。どこからか、山岸一二三作詞、水沢圭吾補作詞、山岸英樹作曲、中川博之補作曲の「新潟ブルース」が聞こえてくる。
栄さんの家に泊めてもらったとき、「こんなのを作っちゃった」と栄さんがテレくさそうに、せまいカラオケルームを私に見せた。そこで栄さんは、一生懸命に「新潟ブルース」を歌った。
「いろいろな人とのおつきあいで、カラオケは苦手でなんて言えないと思ってね、練習してる」
と栄さんは、もういちど「新潟ブルース」を歌った。そのことも、びくびく生きる、しっかり生きるという栄さんの努力だったのだろう。
1951(昭和26)年、17歳の栄さんは、新潟の中学を出て職についた地方競馬の春木にいたのだが、そこで流行していたヒロポン注射から逃げ、竹の林に隠れて朝になるのを待ち、どうにか汽車に乗って京都に行った。
「わたしを使ってください」
と淀の厩舎を何軒か歩いたが、夏競馬の季節で調教師は留守ばかり。たまたま厩舎にいたのが、武田文吾師だった。
じつに幸運にも、「この少年、芯がある」と見抜いて文吾師が、栄少年を雇い、騎手見習として住ませたのだ。
「なんと翌日に文吾先生は札幌へ行くのに、ついて来いって。一緒に行くわけじゃなく、別行動。紙に行きかたを書いて、ま、それもテストだったかもしれない。必死だったなあ、自分」
と栄さんから聞いたことがある。
「先ず東京に出て、半日くらい上野の汽車に時間があって、聞いたことのある浅草へ行こうと思った。人に聞いて、田原町という駅でおりて、駅の近くの金物屋の前で心細くなって立ってた。
金物屋のおやじさんが、どこへ行くんだって話しかけてくれて、これから北海道へ行くし、騎手になるのだと言ったら、そんなアブナイことはやめて、ウチで働いてもいいぞって。
ああ、浅草へ行って、あの金物屋を探してみたいなあ」
と言う栄さんと、いつか浅草へ行こうと言っていたのだが、実現できなかった。
そう、そういう話からも、栄さんの持ち馬の名は「ビクビク」かもしれない。
ジャングルポケットが死んだ数日後、渡辺栄夫人の清美さんと長電話をした。
「シャダイソフィアに出会ったとき、自分は運のいい人間かもしれないって、ひとりごとみたいにつぶやいたの、忘れられない」
と言った清美さんは、私と同じ昭和12年生まれである。
「わたしもがんばる。良さんも元気でいてね」
清美さん、まだ車を運転している。