烏森発牧場行き
第329便 会う
2022.05.12
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「ずうっと競馬をやってきた人なら、誰だってエフフォーリアとジャックドールの勝負と思うよね。どっちがハナ差で勝つかってもんだ。
その2頭の馬券じゃつまらないからって、穴としちゃレイパパレしかいない。レイパパレから2頭への馬単を買ったさ。
終わってみればエフフォーリアもジャックドールもアウト。いやはや、それが競馬だよって言われちゃ黙るしかない。
レイパパレはクビ差の2着だったけど、まさかなあ、ポタジェが勝つとは思わなかった。吉田隼人って無気味な騎手だなあ。
うーん、それにしても、ポタジェの馬主は金子さん。何なの、この人、凄いなあ。マカヒキと2頭出しで、ポタジェが勝っちゃう。恐ろしいね、金子さんという人」
2022年4月3日、第66回大阪杯が終わったあとで、富士山の近くに住む雄さんからの電話である。
雄さん、80歳。私より5歳若い。コロナ禍になる少し前まで、横浜の南区に住んでいた。70歳すぎまで植木職人。
仕事をやめたころに奥さんに先立たれ、ウインズ横浜での馬券が楽しみのひとり暮らしだった。
2019年12月、腰の手術をし、ずいぶんと歩行がつらくなった。仕方なく、富士吉田市へ嫁いでいるひとり娘の幸江さんの家に身を寄せた。
「しかし、明日、うれしいなあ」
そう雄さんが言って電話が終わった。明日、私が雄さんに会いに行くのだ。
横浜を離れた雄さんから、ひと月に2度か3度は電話がかかる。殆ど馬券の話だが、話の終わりに雄さんの、「会いたいなあ」が決まり文句だ。
テレビでウクライナの悲劇を見ているうち、雄さんの「会いたいなあ」がよみがえった。コロナ禍の年月のうち、いったい自分は雄さんの「会いたいなあ」を何度聞いているだろう。コロナ禍でも日本は平和なのだ。自分は雄さんの「会いたいなあ」に向きあわないでどうする。そのように私は感じて出かけることにした。
4月4日の午前、私は新宿から特急に乗って大月に向かった。立川、八王子、高尾と通過しながら、雄さんとのつきあいをふりかえる。ウインズ横浜の帰りの、川のほとりの小さなバーで会ってから、30年は過ぎたなあ。
「雄さんはおれのこと、記事屋、と言ってた。文章を書いてメシを食ってるんだから記事屋だというわけ。
雄さんのことを、おれが、テンジン雄さんと言ってから、その小さなバーの仲間は、テンジンさんと言う人もいたなあ」
窓の外の景色に私は、そんなふうに説明していた。
大月駅で富士急行の電車に乗りかえる。膝にのせた鞄のなかには、1998年のJRA重賞年鑑がある。雄さんのところにもあるだろうけれど、念のために持参した。
1998年3月のこと、ウインズ横浜に近いそば屋で清水道一さん(神奈川ダイハツ会長、株式会社テンジン代表。美浦トレセンの松山康久厩舎で清水さんとよく会い、よく横浜でも会うようになった)と昼食をしていた時、仕事現場が近かったという雄さんが店に入ってきて、「ボクの馬券仲間です」と私が言い、相席した。
「わたしは明けても暮れても自動車という鉄のかたまりみたいなものとの人生でね。ま、遊びというか、競馬というもので人生を楽しもうと。それで競馬に首を突っこみました。
植木屋さんの場合は、馬券とはどのようにつながりますかね」
と話し好きの清水さんに雄さんはうれしくなった。その時、いったん解散した3人は、日暮れて、川のほとりの小さなバーに集まった。清水さんは酒をのまなかったが、酒場は嫌いでなかった。
数日後、日経賞である。12頭立て。江田照男が乗る清水さんのテンジンショウグンは12頭立て12番人気。
事件が起きた。私が誘って中山競馬場にいた雄さんが、レースの決着後、顔面の血が引いて倒れかかった。とんでもなくうれしい事件。
テンジンショウグンが勝ち、3万5,570円の単勝と4,700円の複勝を各1,000円。2着が7番人気のシグナスヒーローとの枠連①―⑥、5万9,000円と、馬連①―⑧、21万3,370円を500円ずつ買っていたのだ。清水道一さんと会った記念に、ハズレても記念に馬券を保存しておこうと思い、馬連は①から全馬に流したというのだった。
半月後に雄さんは、仕事仲間、小さなバーの仲間、親戚の人たち、合わせて15人ほどを、箱根の温泉の一泊旅行に招待をした。
急行が富士山駅(昔は富士吉田駅)に近づくにつれ、雪景色が深くなった。
「明け方の吹雪が凄かったんです。四月では珍しい。鎌倉の記事屋に会えるって、父さん、子供みたいにはしゃいでいて、その気持ちが雪を降らせたみたい」
駅へむかえにきてくれた、看護師だという君江さんが言った。
雄さんは車椅子に座っていて、私を見るなり、何も言わないうちに、涙をぽろぽろとこぼした。
「いやだ、もらい泣き」
と君江さんも涙ぐみ、私も泣いてしまった。
となりの農家の青年が挨拶にきた。雄さんの馬券をネットで買う役目の人だった。
酒なしではいられなかった雄さんも私も、今は酒をのめない体調で、ノンアルコールで乾杯。
「ションボリルドルフ」
と私が言い、雄さんが笑った。
語りつくして、その日、泊めてもらった。昨日は霧が多くて、すっかり姿を隠していた富士山が、すばらしい天気で窓の向こう、中腹まで白で染めてくっきりと、見事な姿だ。
「おお、空に、テンジンショウグンの清水道一さんがいるぞ。会うって、すばらしいなあ」
と私は富士山を見ながら言った。
1998年11月9日テンジン創立10周年パーティが横浜のホテルであった。宴の途中、テンジンの勝負服に着替えてステージに登場した清水道一さんに、拍手と笑いが湧いたのを思いだした。
その2頭の馬券じゃつまらないからって、穴としちゃレイパパレしかいない。レイパパレから2頭への馬単を買ったさ。
終わってみればエフフォーリアもジャックドールもアウト。いやはや、それが競馬だよって言われちゃ黙るしかない。
レイパパレはクビ差の2着だったけど、まさかなあ、ポタジェが勝つとは思わなかった。吉田隼人って無気味な騎手だなあ。
うーん、それにしても、ポタジェの馬主は金子さん。何なの、この人、凄いなあ。マカヒキと2頭出しで、ポタジェが勝っちゃう。恐ろしいね、金子さんという人」
2022年4月3日、第66回大阪杯が終わったあとで、富士山の近くに住む雄さんからの電話である。
雄さん、80歳。私より5歳若い。コロナ禍になる少し前まで、横浜の南区に住んでいた。70歳すぎまで植木職人。
仕事をやめたころに奥さんに先立たれ、ウインズ横浜での馬券が楽しみのひとり暮らしだった。
2019年12月、腰の手術をし、ずいぶんと歩行がつらくなった。仕方なく、富士吉田市へ嫁いでいるひとり娘の幸江さんの家に身を寄せた。
「しかし、明日、うれしいなあ」
そう雄さんが言って電話が終わった。明日、私が雄さんに会いに行くのだ。
横浜を離れた雄さんから、ひと月に2度か3度は電話がかかる。殆ど馬券の話だが、話の終わりに雄さんの、「会いたいなあ」が決まり文句だ。
テレビでウクライナの悲劇を見ているうち、雄さんの「会いたいなあ」がよみがえった。コロナ禍の年月のうち、いったい自分は雄さんの「会いたいなあ」を何度聞いているだろう。コロナ禍でも日本は平和なのだ。自分は雄さんの「会いたいなあ」に向きあわないでどうする。そのように私は感じて出かけることにした。
4月4日の午前、私は新宿から特急に乗って大月に向かった。立川、八王子、高尾と通過しながら、雄さんとのつきあいをふりかえる。ウインズ横浜の帰りの、川のほとりの小さなバーで会ってから、30年は過ぎたなあ。
「雄さんはおれのこと、記事屋、と言ってた。文章を書いてメシを食ってるんだから記事屋だというわけ。
雄さんのことを、おれが、テンジン雄さんと言ってから、その小さなバーの仲間は、テンジンさんと言う人もいたなあ」
窓の外の景色に私は、そんなふうに説明していた。
大月駅で富士急行の電車に乗りかえる。膝にのせた鞄のなかには、1998年のJRA重賞年鑑がある。雄さんのところにもあるだろうけれど、念のために持参した。
1998年3月のこと、ウインズ横浜に近いそば屋で清水道一さん(神奈川ダイハツ会長、株式会社テンジン代表。美浦トレセンの松山康久厩舎で清水さんとよく会い、よく横浜でも会うようになった)と昼食をしていた時、仕事現場が近かったという雄さんが店に入ってきて、「ボクの馬券仲間です」と私が言い、相席した。
「わたしは明けても暮れても自動車という鉄のかたまりみたいなものとの人生でね。ま、遊びというか、競馬というもので人生を楽しもうと。それで競馬に首を突っこみました。
植木屋さんの場合は、馬券とはどのようにつながりますかね」
と話し好きの清水さんに雄さんはうれしくなった。その時、いったん解散した3人は、日暮れて、川のほとりの小さなバーに集まった。清水さんは酒をのまなかったが、酒場は嫌いでなかった。
数日後、日経賞である。12頭立て。江田照男が乗る清水さんのテンジンショウグンは12頭立て12番人気。
事件が起きた。私が誘って中山競馬場にいた雄さんが、レースの決着後、顔面の血が引いて倒れかかった。とんでもなくうれしい事件。
テンジンショウグンが勝ち、3万5,570円の単勝と4,700円の複勝を各1,000円。2着が7番人気のシグナスヒーローとの枠連①―⑥、5万9,000円と、馬連①―⑧、21万3,370円を500円ずつ買っていたのだ。清水道一さんと会った記念に、ハズレても記念に馬券を保存しておこうと思い、馬連は①から全馬に流したというのだった。
半月後に雄さんは、仕事仲間、小さなバーの仲間、親戚の人たち、合わせて15人ほどを、箱根の温泉の一泊旅行に招待をした。
急行が富士山駅(昔は富士吉田駅)に近づくにつれ、雪景色が深くなった。
「明け方の吹雪が凄かったんです。四月では珍しい。鎌倉の記事屋に会えるって、父さん、子供みたいにはしゃいでいて、その気持ちが雪を降らせたみたい」
駅へむかえにきてくれた、看護師だという君江さんが言った。
雄さんは車椅子に座っていて、私を見るなり、何も言わないうちに、涙をぽろぽろとこぼした。
「いやだ、もらい泣き」
と君江さんも涙ぐみ、私も泣いてしまった。
となりの農家の青年が挨拶にきた。雄さんの馬券をネットで買う役目の人だった。
酒なしではいられなかった雄さんも私も、今は酒をのめない体調で、ノンアルコールで乾杯。
「ションボリルドルフ」
と私が言い、雄さんが笑った。
語りつくして、その日、泊めてもらった。昨日は霧が多くて、すっかり姿を隠していた富士山が、すばらしい天気で窓の向こう、中腹まで白で染めてくっきりと、見事な姿だ。
「おお、空に、テンジンショウグンの清水道一さんがいるぞ。会うって、すばらしいなあ」
と私は富士山を見ながら言った。
1998年11月9日テンジン創立10周年パーティが横浜のホテルであった。宴の途中、テンジンの勝負服に着替えてステージに登場した清水道一さんに、拍手と笑いが湧いたのを思いだした。