烏森発牧場行き
第330便 Fくんとか私とか
2022.06.10
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2022年2月24日、私の85歳の誕生日に、ロシア軍がウクライナに侵攻し、それから毎日、ウクライナの建物が破壊され、人間が殺されるのをテレビで見て、プーチンさんよ、あなた、間違っているよ、と私は言いたくて、一日も早く戦争をやめてくれ、と祈りたくて、私は私なりに、何かしたいと考えた。
それで私のしたことは、ロシアの作家のアントン・チェーホフの本を5冊、書棚から抜き、仕事机の隅に積むことだった。たぶん、ウラジーミル・プーチンは、チェーホフの文章を読んだことはないだろう。もし読んでいたら、そんな間違いはしなかっただろうな、という思いからの、私のせめてもの祈りである。
私は勝手にアントン・チェーホフ(1860年に南ロシアの港町タガンローグで生まれ、1904年、南ドイツの保養地バーデンヴァイラーで死去)を人生の師匠として生きてきた。
22歳のころ、私は京都の松ヶ崎にあった酒場でバーテンをしていて、常連客の京都大学の先生が連れの人たちに、何かというとチェーホフの作品についての話をしているのを聞いていた。
私をひとりの人間として認めてくれるような、その先生の言葉づかいや態度がうれしかった私は、「ぼくはチェーホフを師匠のように思うてるんや」と連れの人に言ったのを聞き、自分もチェーホフを知りたいと考え、書店や古書店へ行ったのだった。
古書店で見つけた「チェーホフの手帖」というのは私の聖書になった。
「誰かから百円を恵まれ、これで何かやってごらんとチャンスをもらう人間と、その百円を持つために一生が過ぎてしまう人間がいる」
と読み、そうだよなあ、人間はその2種類がいるんだよなあと私は感心した。
「主人を自慢することで生きている人をドレイと言い、自分には自分の血が流れていると感じて生きてる人をニンゲンという」
と読み、本当、そうだ、おれのまわりにも、自分のいる企業を自慢して生活してる人がいるよなあと、私はチェーホフの言葉がうれしい。
「冗談は悲しみの表現である」
と読み、本当、人間はカネとコドクとたたかうイキモノだが、おれなんか、ジョーダンという武器しか頼りがないよなあ、と私は思うのだった。
そのころの私は、休日にはきまって京都競馬場にいた。自分には自分の血が流れていると感じられたのだろう。金がなくて、少しの金も捨てたくないのに、それでも馬券を買うのは冗談みたいなものだなあと思える。そう、私は、競馬場にいて、ニンゲンになっていた。
2022年4月、仕事机に積んだチェーホフの本の祈りも空しく、ウクライナの悲劇は終わりそうもない。
4月29日、昭和の日。5月3日、憲法記念日。5月4日、みどりの日。5月5日、こどもの日。
「連休だなあ」
とつぶやいてみる。マスクははずせないけれども、今年は久しぶりに外出する連休だ。でも、おれ、家に訪ねてくる人の相手をするだけの連休で、「ボクノレンキュウとい名の馬がレースに出てくれないかなあ」と、自分で自分に笑えない冗談を言っている。
4月29日、川崎市の武蔵小杉に住むFくんが遊びにくる。50歳。製薬会社員。おそい結婚で、小学生になったばかりの男の子がいる。同居している母は87歳。30代の私が薬品問屋勤務時代に、Fくんの父が薬品業界紙の記者で競馬仲間だった。その彼は数年前に死去している。
「3月の終わりから4月の終わりに近い今日まで、ずうっと、誰かに言いたくて言いたくて仕方のないことがあるんだけど、それはやっぱり、言わないでおくほうがいいのかなあと迷ってることがあるんです。
でも、今日、遊びに来させてもらったのは、それをヨシカワさんにだけ言いたくなった、という理由もあるんです」
とFくんが言いだし、
「そんなふうに聞くと気になるな」
と私が笑った。
「2月に叔父が死んで、高松宮記念の前日が葬式だったんです。叔父さん、83歳ですけど、死ぬ2日前まで元気で、なにしろ競馬だけが生き甲斐の叔父ですから、やっぱりレシステンシアが強いよなとか言ってたんです。
いよいよ骨になる時、火葬炉の番号が2番で、その2という数字がボクの目に残り、骨になるのを待つ部屋へ行ったら2号室で、また、2という数字がボクに残ったんです。
あくる日、ウインズへ行って、叔父さんの言ってたレシステンシアの単勝を1,000円買って、2という数字にこだわっていたボクは、2の単複を5,000円ずつ買ったんですよ。競馬だけが元気のモトだった叔父の、最後の、骨になってしまう時の数字は2だったよって。
そしたら、ずうっと後方にいたナランフレグが、丸田のナランフレグが、残り100メートルあたりで、レシステンシアやトゥラヴェスーラの間を割って、インコースを突いて、なんと、勝っちゃったじゃないですか。
まさか、叔父さんって、叫ぶわけにもいかないけど、ボクは心のなかで、オジさんて叫んでいて、涙がこぼれたんです」
と言ってFくんは、涙ぐんで目をこすった。
4月30日。胃ガンの手術後1年の上部消化管内視鏡検査で病院へ。受付票177番。診察室7番。
5月1日、天皇賞春。ウインズ横浜で、Fくんの2番馬券を真似て、①と⑦と⑰の単勝を買う。
ゲートがあいてすぐに⑰シルヴァーソニック落馬。空馬で力走。①アイアンバローズは5着。⑦テーオーロイヤルは3着。
帰り道、私はウラジーミル・プーチンに話しかけながらJR桜木町駅へ歩くのだ。
「Fくんとか私とか、こんなふうに馬券など買って、なんとか退屈しないように生きているんです。そんな私たちを殺さないでください。
でも、世界のボスたちには、Fくんやおれなんか、ゴミ屑にしか見えないのかな?」
そんなふうに言いながら、ふと、とてつもなく私は悲しくなるのだった。
それで私のしたことは、ロシアの作家のアントン・チェーホフの本を5冊、書棚から抜き、仕事机の隅に積むことだった。たぶん、ウラジーミル・プーチンは、チェーホフの文章を読んだことはないだろう。もし読んでいたら、そんな間違いはしなかっただろうな、という思いからの、私のせめてもの祈りである。
私は勝手にアントン・チェーホフ(1860年に南ロシアの港町タガンローグで生まれ、1904年、南ドイツの保養地バーデンヴァイラーで死去)を人生の師匠として生きてきた。
22歳のころ、私は京都の松ヶ崎にあった酒場でバーテンをしていて、常連客の京都大学の先生が連れの人たちに、何かというとチェーホフの作品についての話をしているのを聞いていた。
私をひとりの人間として認めてくれるような、その先生の言葉づかいや態度がうれしかった私は、「ぼくはチェーホフを師匠のように思うてるんや」と連れの人に言ったのを聞き、自分もチェーホフを知りたいと考え、書店や古書店へ行ったのだった。
古書店で見つけた「チェーホフの手帖」というのは私の聖書になった。
「誰かから百円を恵まれ、これで何かやってごらんとチャンスをもらう人間と、その百円を持つために一生が過ぎてしまう人間がいる」
と読み、そうだよなあ、人間はその2種類がいるんだよなあと私は感心した。
「主人を自慢することで生きている人をドレイと言い、自分には自分の血が流れていると感じて生きてる人をニンゲンという」
と読み、本当、そうだ、おれのまわりにも、自分のいる企業を自慢して生活してる人がいるよなあと、私はチェーホフの言葉がうれしい。
「冗談は悲しみの表現である」
と読み、本当、人間はカネとコドクとたたかうイキモノだが、おれなんか、ジョーダンという武器しか頼りがないよなあ、と私は思うのだった。
そのころの私は、休日にはきまって京都競馬場にいた。自分には自分の血が流れていると感じられたのだろう。金がなくて、少しの金も捨てたくないのに、それでも馬券を買うのは冗談みたいなものだなあと思える。そう、私は、競馬場にいて、ニンゲンになっていた。
2022年4月、仕事机に積んだチェーホフの本の祈りも空しく、ウクライナの悲劇は終わりそうもない。
4月29日、昭和の日。5月3日、憲法記念日。5月4日、みどりの日。5月5日、こどもの日。
「連休だなあ」
とつぶやいてみる。マスクははずせないけれども、今年は久しぶりに外出する連休だ。でも、おれ、家に訪ねてくる人の相手をするだけの連休で、「ボクノレンキュウとい名の馬がレースに出てくれないかなあ」と、自分で自分に笑えない冗談を言っている。
4月29日、川崎市の武蔵小杉に住むFくんが遊びにくる。50歳。製薬会社員。おそい結婚で、小学生になったばかりの男の子がいる。同居している母は87歳。30代の私が薬品問屋勤務時代に、Fくんの父が薬品業界紙の記者で競馬仲間だった。その彼は数年前に死去している。
「3月の終わりから4月の終わりに近い今日まで、ずうっと、誰かに言いたくて言いたくて仕方のないことがあるんだけど、それはやっぱり、言わないでおくほうがいいのかなあと迷ってることがあるんです。
でも、今日、遊びに来させてもらったのは、それをヨシカワさんにだけ言いたくなった、という理由もあるんです」
とFくんが言いだし、
「そんなふうに聞くと気になるな」
と私が笑った。
「2月に叔父が死んで、高松宮記念の前日が葬式だったんです。叔父さん、83歳ですけど、死ぬ2日前まで元気で、なにしろ競馬だけが生き甲斐の叔父ですから、やっぱりレシステンシアが強いよなとか言ってたんです。
いよいよ骨になる時、火葬炉の番号が2番で、その2という数字がボクの目に残り、骨になるのを待つ部屋へ行ったら2号室で、また、2という数字がボクに残ったんです。
あくる日、ウインズへ行って、叔父さんの言ってたレシステンシアの単勝を1,000円買って、2という数字にこだわっていたボクは、2の単複を5,000円ずつ買ったんですよ。競馬だけが元気のモトだった叔父の、最後の、骨になってしまう時の数字は2だったよって。
そしたら、ずうっと後方にいたナランフレグが、丸田のナランフレグが、残り100メートルあたりで、レシステンシアやトゥラヴェスーラの間を割って、インコースを突いて、なんと、勝っちゃったじゃないですか。
まさか、叔父さんって、叫ぶわけにもいかないけど、ボクは心のなかで、オジさんて叫んでいて、涙がこぼれたんです」
と言ってFくんは、涙ぐんで目をこすった。
4月30日。胃ガンの手術後1年の上部消化管内視鏡検査で病院へ。受付票177番。診察室7番。
5月1日、天皇賞春。ウインズ横浜で、Fくんの2番馬券を真似て、①と⑦と⑰の単勝を買う。
ゲートがあいてすぐに⑰シルヴァーソニック落馬。空馬で力走。①アイアンバローズは5着。⑦テーオーロイヤルは3着。
帰り道、私はウラジーミル・プーチンに話しかけながらJR桜木町駅へ歩くのだ。
「Fくんとか私とか、こんなふうに馬券など買って、なんとか退屈しないように生きているんです。そんな私たちを殺さないでください。
でも、世界のボスたちには、Fくんやおれなんか、ゴミ屑にしか見えないのかな?」
そんなふうに言いながら、ふと、とてつもなく私は悲しくなるのだった。