烏森発牧場行き
第187便 競馬の本
2010.07.09
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なるべく歩いてください,と医師に言われている私は,家庭のゴミ出しを引き受けている。小公園のきわにあるゴミ集荷所まで家から200歩くらいだが,坂道だし,起き抜けにちょうどいい運動ということなのだ。
月曜日は植木類,ダンボール,古雑誌など。火曜日は生ゴミ,燃えるゴミ。水曜日はペットボトル(第3水曜日は危険物)。木曜日はプラスチック,缶,瓶。金曜日は火曜日と同じ。
7時45分に私はゴミ出しに行く。時間を決めるのが好きということもあるが,なんとはなしの暗黙のうちに,Kさん,Yさん,Sさんの井戸端会議の時間となり,それに私は合わせているのだ。すでに2年ぐらいは続いている行事なのである。その3人に共通しているのは,昭和ヒト桁生まれの未亡人でひとり暮らしだ。私は昭和フタ桁生まれ。かみさんと二人暮らしである。余計なお世話なのかもしれないが,このお婆さんたち,家へ入ったら喋る相手がいなくて,テレビの音と暮らしているのだから,せめて冗談好きのおれが,朝,笑わせてあげようと私は考え,それで7時45分なのである。
「ゆうべ,ヨシナガサユリとふたりっきりで,砂浜で遊んでいる夢を見ちゃって,幸せだったなあ。砂のお城を作ったりして」そんなバカ話を私がして,反応があって,会話をして,笑うのである。
Kさんは大きなフィルム会社の重役だった人の,たしか二号さん。Yさんは60代の末まで,東京の築地で料亭を営んでいた。Sさんは弁護士夫人。みんなと私は40年近くもの顔見知りなので,老婆になった3人がウフフアフフと笑い,若いころの姿も知っている私は,ちょっと空を見つめてしまったりもするのだ。
月曜日,ゴミの山の前で,Sさんが涙ぐんだ。
「最近,こういうの,多いわね」と声をつまらせるSさんに,KさんとYさんがうなずいている。その朝は昔の百科辞典が山になって捨てられていたが,先週は大日本美術全集の山があった。日本金融史全集とか産業経済ナントカ全史とかの山もあったし,日本文学全集のときもあった。
「全集なんかが捨てられていると悲しいの。胸が痛くて,見ていられない」涙をためているSさんが,数年前になるか,社交ダンスに燃えてるのって,化粧をしてお洒落して,車を運転していたのを私は思いだした。私はSさんから相談されたことがあった。Sさんの家の2階は,まるで古書店の倉庫みたいな状態らしい。
「娘夫婦も,本はお母さんが処理してよと言うし,孫たちは話も聞いてくれないし,新聞で古本買入れと広告が出てたので,そこへ電話したの。見に来てくれたけど,法律の本はねえとか言って,目方でいくらみたいな言い方をするの。帰ってもらった。うちの旦那,若いころ,お金がなくて,それでもお金が入ると本を買って,わたしに悪いと思うのか,買った本を外套で隠して家に帰ってくるのよ。そういう本を目方で言ってほしくない」
その相談に私も答えなどなかった。
やがてSさんは,
「決めたわ。わたしはわたしの手で処分をする。そのほうが気が済むから」そう言い,どこかから貰った乳母車に,新聞紙で包んだ何冊かの本を積み,毎週の月曜日にゴミとして出しはじめたのだった。「ところで村上ナントカという人の本,300万部も売れたって,ニュースで言ってた。行列して買うのね」とKさんが言い,「お読みになりました?」Yさんに私は聞かれ,「読んでいません」と返事をし,Sさんの乳母車が来たので,新聞紙で包んだ本たちを下ろしてあげた。
「うちの本を,ちょうど全部捨てきるころに,わたし,死ぬのがいい。ちゃんと整理してきましたよって,旦那に言えるものね」Sさんは笑ったが,みんな笑わなかった。ウグイスの鳴き声が近くで聞こえる。「50年後,世界中のゴミ集荷所300万ヶ所に,村上春樹の1Q84という本が捨てられていた」冗談を思いついたが私は言わずに,「ホー,ホケキョ」と口笛を吹いた。
その日は新聞休刊日で,コンビニでスポーツ紙を買おうと,3人と別れた。住宅地の下り坂になっている途中のゴミ集荷所の前で,私の足は止まってしまった。何十冊かずつ紐で縛られている雑誌や本が,いくつもいくつも積んであって,それがすべて,競馬に関係しているものばかりなので足が止まったのである。歩きだそうかなと思ったのは,すぐ近くの家から白髪の老女が,雑誌の束に長い紐をつけて,引きずってきたからだった。「大変ですね」私は声をかけ,その競馬週刊誌の束を,それまでの束に重ね,
「すごいですね。もったいない」そう言った。
「競馬のばっかりなの」老女は腰をのばして,あらためて捨てた雑誌たちに目をやった。「どなたか,競馬の好きな人が,ご家族のなかにいたというわけですね?」「主人ですよ。競馬が好き,なんていうものじゃありません。好きで好きで好きで,ずうっと銀行勤めでしたけど,現役のときも引退してからも,死ぬまで,競馬,競馬。息子たちは競馬に知らん顔だったし,家のなかでひとり,老後は電話で馬券を買って,自分の部屋で大きな声を出して。
競馬の本を,捨ててくださいって頼んでも,ぜったいに捨ててくれないの。ま,1年忌も過ぎたし,もういいかなって」少し笑って老女は背を向けた。私は何秒か,その山を見つめ,合掌をし,一礼をしてからコンビニへ向かった。
月曜日は植木類,ダンボール,古雑誌など。火曜日は生ゴミ,燃えるゴミ。水曜日はペットボトル(第3水曜日は危険物)。木曜日はプラスチック,缶,瓶。金曜日は火曜日と同じ。
7時45分に私はゴミ出しに行く。時間を決めるのが好きということもあるが,なんとはなしの暗黙のうちに,Kさん,Yさん,Sさんの井戸端会議の時間となり,それに私は合わせているのだ。すでに2年ぐらいは続いている行事なのである。その3人に共通しているのは,昭和ヒト桁生まれの未亡人でひとり暮らしだ。私は昭和フタ桁生まれ。かみさんと二人暮らしである。余計なお世話なのかもしれないが,このお婆さんたち,家へ入ったら喋る相手がいなくて,テレビの音と暮らしているのだから,せめて冗談好きのおれが,朝,笑わせてあげようと私は考え,それで7時45分なのである。
「ゆうべ,ヨシナガサユリとふたりっきりで,砂浜で遊んでいる夢を見ちゃって,幸せだったなあ。砂のお城を作ったりして」そんなバカ話を私がして,反応があって,会話をして,笑うのである。
Kさんは大きなフィルム会社の重役だった人の,たしか二号さん。Yさんは60代の末まで,東京の築地で料亭を営んでいた。Sさんは弁護士夫人。みんなと私は40年近くもの顔見知りなので,老婆になった3人がウフフアフフと笑い,若いころの姿も知っている私は,ちょっと空を見つめてしまったりもするのだ。
月曜日,ゴミの山の前で,Sさんが涙ぐんだ。
「最近,こういうの,多いわね」と声をつまらせるSさんに,KさんとYさんがうなずいている。その朝は昔の百科辞典が山になって捨てられていたが,先週は大日本美術全集の山があった。日本金融史全集とか産業経済ナントカ全史とかの山もあったし,日本文学全集のときもあった。
「全集なんかが捨てられていると悲しいの。胸が痛くて,見ていられない」涙をためているSさんが,数年前になるか,社交ダンスに燃えてるのって,化粧をしてお洒落して,車を運転していたのを私は思いだした。私はSさんから相談されたことがあった。Sさんの家の2階は,まるで古書店の倉庫みたいな状態らしい。
「娘夫婦も,本はお母さんが処理してよと言うし,孫たちは話も聞いてくれないし,新聞で古本買入れと広告が出てたので,そこへ電話したの。見に来てくれたけど,法律の本はねえとか言って,目方でいくらみたいな言い方をするの。帰ってもらった。うちの旦那,若いころ,お金がなくて,それでもお金が入ると本を買って,わたしに悪いと思うのか,買った本を外套で隠して家に帰ってくるのよ。そういう本を目方で言ってほしくない」
その相談に私も答えなどなかった。
やがてSさんは,
「決めたわ。わたしはわたしの手で処分をする。そのほうが気が済むから」そう言い,どこかから貰った乳母車に,新聞紙で包んだ何冊かの本を積み,毎週の月曜日にゴミとして出しはじめたのだった。「ところで村上ナントカという人の本,300万部も売れたって,ニュースで言ってた。行列して買うのね」とKさんが言い,「お読みになりました?」Yさんに私は聞かれ,「読んでいません」と返事をし,Sさんの乳母車が来たので,新聞紙で包んだ本たちを下ろしてあげた。
「うちの本を,ちょうど全部捨てきるころに,わたし,死ぬのがいい。ちゃんと整理してきましたよって,旦那に言えるものね」Sさんは笑ったが,みんな笑わなかった。ウグイスの鳴き声が近くで聞こえる。「50年後,世界中のゴミ集荷所300万ヶ所に,村上春樹の1Q84という本が捨てられていた」冗談を思いついたが私は言わずに,「ホー,ホケキョ」と口笛を吹いた。
その日は新聞休刊日で,コンビニでスポーツ紙を買おうと,3人と別れた。住宅地の下り坂になっている途中のゴミ集荷所の前で,私の足は止まってしまった。何十冊かずつ紐で縛られている雑誌や本が,いくつもいくつも積んであって,それがすべて,競馬に関係しているものばかりなので足が止まったのである。歩きだそうかなと思ったのは,すぐ近くの家から白髪の老女が,雑誌の束に長い紐をつけて,引きずってきたからだった。「大変ですね」私は声をかけ,その競馬週刊誌の束を,それまでの束に重ね,
「すごいですね。もったいない」そう言った。
「競馬のばっかりなの」老女は腰をのばして,あらためて捨てた雑誌たちに目をやった。「どなたか,競馬の好きな人が,ご家族のなかにいたというわけですね?」「主人ですよ。競馬が好き,なんていうものじゃありません。好きで好きで好きで,ずうっと銀行勤めでしたけど,現役のときも引退してからも,死ぬまで,競馬,競馬。息子たちは競馬に知らん顔だったし,家のなかでひとり,老後は電話で馬券を買って,自分の部屋で大きな声を出して。
競馬の本を,捨ててくださいって頼んでも,ぜったいに捨ててくれないの。ま,1年忌も過ぎたし,もういいかなって」少し笑って老女は背を向けた。私は何秒か,その山を見つめ,合掌をし,一礼をしてからコンビニへ向かった。